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2 花咲く庭で

 マリエルの金の髪が、春風にふわりと舞った。

 庭園の小道を歩くその姿を、エリオットは半歩後ろから静かに追う。


「殿下。さきほど、アニス殿がおっしゃっていたのは……?」

 マリエルは、少しだけ肩をすくめて微笑む。

「大したことじゃないの。寝不足を見抜かれただけ」

 頬をなでる風に目を細めながら、彼女は乱れた髪をそっと耳にかける。

「でも、今朝はここに来たいと思ったの。ブルーベルが咲いたから」

 そう言って、視線を庭の奥へと向ける。

 その視線を追うエリオットの目にも、雨の名残を湛えた青紫の花々が映った。

 静かに、朝の風に揺れている。

「あの花が、お好きなのですか?」

「そうね。見ていると、すこし心が落ち着く気がするの」

 その声は、ほんのわずかにやさしく、それでいてどこか遠いものを思うような寂しさを含んで、風に乗った。

「……それはなぜなのか、教えていただいても?」

 思いがけず、どこかためらうような彼の声音だった。マリエルは、意外そうに彼を振り返る。

 目が合うと、彼は気まずそうに目を逸らした。

「いえ……差し出がましいことを申しました」

 ますます珍しい。そんな彼のようすを不思議に思ったけれど、特に隠すことでもない。護衛という立場の彼になら、なおさら。

「いいのよ。あのね、この時期になるといつも夢を見るの。子供のころ、野犬に追いかけられたことがあって……」

 言葉に詰まる。

 ――あのひとの声が、頭の中に響いて。


「でも、助けてくれたひとがいたの。いつも見るのは、そのひとの夢よ。でも、顔も名前も思い出せないの。夢の中でも、その姿はまるで霧の中にいるように、手が届かなくて……」

 マリエルの青紫の瞳が揺れる。目の奥に浮かぶものを押し込めるように、彼女は唇を噛む。

「たぶん、熱のせいだと思う。みんなもそう言うわ。それに、そもそもそんなひとがいたのかって、信じてくれない人もいるの。でも、彼は絶対にいた。間違いないわ……だって、命を救ってくれたひとだもの」

 彼が誰だったのか、どんな顔をしていたのか、どんなふうに名前を名乗ったのか――なにもかも思い出せない。それが、あまりにも申し訳なくて、悔しくて。

「なのに、何も覚えていないなんて。まるで、あの時の気持ちまで忘れてしまったみたいで……」

 その瞬間の彼の仕草、表情、言葉。全てをなくしてしまった自分が、どうしても許せなかった。

「助けられたとき、ブルーベルを握っていたらしいの。だから、かしら。花を見ると、そのひとと繋がっている気がするのは……」

 手を強く握りしめる。せめて、あのときの花の感触だけでも思い出したくて。


 気づけば、ふたりはブルーベルの咲くなかに立っていた。ぼんやりと花を見つめていたマリエルは、静かに振り返る。

「エリオットも……やっぱり、私の勘違いだと思う?」

 彼は静かに首を横に振る。銀の髪がさらりと揺れた。

「いいえ、殿下を信じます」

 低く、よく通る声が心地よく耳に届く。それは迷いのない、はっきりとした声だった。驚いて彼を見上げれば、その目はマリエルをまっすぐに見つめている。

「本当に、信じてくれるの?」

「もちろんです」

 彼の瞳が優しく細められる。まるで、不安に揺れる彼女を安心させるかのように。

「私は、誰よりも殿下を信じております。殿下の騎士ですから」

 そこには優しい光が見える。静かに、まっすぐに告げられたその言葉が、胸の奥深くまで届く。

 信じてくれた――そのことが、ただ、うれしかった。

 ふわりと胸の真ん中があたたかくなって、心のどこかでふるりと何かがふるえる。

 その、なにか気づいてはいけないものに気づいてしまいそうな感覚に、マリエルは思わず目を逸らす。

 けれど、逸らした先にも、彼の視線がやわらかく寄り添っている気がして。

「ありがとう、エリオット……」

 声が少し掠れたのは、きっと気のせい。

 どうにか言葉にしたけれど、胸のどこかがそわそわと落ち着かない。

 けれど、その不安定さが、なぜか嫌ではなくて。感じるのは、小さな波が心の中をくすぐっていくような、不思議な心地よさ。

 

 彼女の心を見透かしたかのように、木々がさわさわと音を立てる。その風にふわりと乗って、ブルーベルの香りが届いた。

 思い出すと、ちょっと切なくなるような。

 でも、今日はなぜか少しだけ違う気がする。

「いい香り……」

 マリエルは目を閉じて、胸いっぱいにその香りを吸い込む。鼻先に、ほんのりとした甘さが残る気がした。

 さらさらと風が髪を揺らし、やわらかな感触だけを残して通り抜けていく。

「……とても、美しいですね」

 その声は、まるで誰かを大切に想うときのように優しくて、深くて。

 彼女のことを呼んでいるように響いて、マリエルの心が大きく跳ねた。

「ブルーベルは、私も好きな花です」

「あ、ああ……ブルーベル。そうね、きれいだものね」


 ――なに動揺してるの、わたし……

 花の話でしょう?


 胸の高鳴りを抑えるように、そっと息をついた。

「はい。小さな花は、可憐で、それでいて芯の通った美しさを持っている。青紫の色も儚げでありながら、華やかさもある」

 エリオットの指が、花に触れる。

 まるで壊れやすい夢にでも触れるような、ひどくやわらかな仕草だった。

「……だから、好きなのです」

 好き――その一言が、なぜだか胸の奥に触れて、淡い波紋のように広がっていく。

 でも、すぐにあの言葉が耳の奥でこだました。


 ――もう心に決めたかたがいるって……


 なぜ、いまそれを思い出すの?

 なぜ、こんなにも胸が痛むの?


「……そう、なの。はじめて知ったわ。そんなに好きだったなんて」

 花の話。そう、ただ、それだけ。それなのに、なぜかこんなに揺れてしまう。

「そんなに好きなら、部屋まで届けさせましょうか。いつでも目に入るように、ね」

 わかっている。

 ほんの少しだけ、意地悪な言い方をしてしまったことを。

 気まずくて、顔を向けることができない。

 けれど、見なくてもわかってしまう。

 今もなお、彼がこちらを見ていること。あの、まっすぐな眼差しのままで。


「……いいえ。王宮の花を手折るなど、とてもできません。このまま、風の中で揺れているのがいちばん美しいのですから」

 その声も、やはり変わらず静かで優しい。マリエルの心が、どんなに揺れていても、それを包み込むように。

「……そう……」

 ああ、まるで花に嫉妬しているみたい。

 そんな自分に気づいてしまって、何も言えなくなる。

「……もう行きましょう。アニスに怒られるのはいやだわ」

 冗談めかして口にしたつもりだったのに、少し震えてしまった声をごまかすように、視線をそらした。


 ふたりはゆっくりと歩き出す。

 それなのに、マリエルの胸の中はざわついていて、足取りだけが少しずつ早くなる。

 ――どうしてだろう。この落ち着かなさは。


「きゃっ……」

 濡れた草に足を滑らせ、マリエルはバランスを崩す。

 エリオットの手が彼女の腰を支えた。そのまま倒れ込むように、彼の胸に触れてしまう。息をのむほどの近さに、どきどきと鼓動が早まる。

 あわてて離れようとするその体を、彼の腕がほんのわずかに、けれど確かに引き寄せた。

 マリエルは、それに気づかないまま小さくつぶやく。

「や、やだ……ぼんやりしてたみたい……」

 照れ隠しのようなその声が、たしかに震えていた。

 エリオットの顔を見ることができなくて、頬が熱を帯びていく。


「お怪我はありませんか?」

 その声に、マリエルの頭の中で何かがチリ、と小さく鳴った。

 この声、どこかで……

 心が、遠い記憶に指先で触れたような気がする。けれど、すぐにそれは霧の向こうへと消えてしまった。

 思わず顔を上げると、そこには変わらない瞳。

 まっすぐで、穏やかで、優しくて。

 マリエルは、目を逸らすことができない。


 どうしてだろう。

 彼の瞳を見つめると、胸が苦しくなるのは。

 懐かしい痛みに似ているのに、どうしても思い出せない。

 なのに。

 思い出すことよりも、彼のぬくもりを離したくないと思ってしまう自分がいる。

「……平気よ。ありがとう」

 絞り出したその声に、気持ちがにじんだ。


 どうして、こんなにも彼が気になるの?

 どうして、彼の手のぬくもりがいつまでも胸から離れないの?


 その答えは、彼女の胸の奥でまだ静かに眠っていた。

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