21 その手にすべてを託して
身体がまだどこか遠くにあるような感覚だった。
朧げな意識のなか、最初に戻ってきたのは、鼻先に感じるやわらかな香り。
雨ではない。花でもない。
これは、きっと彼女の――
薄く目を開けると、視界に差し込むランプの淡い灯り。
その傍らに、マリエルがいた。
椅子に腰かけたまま、彼女は寝台に身を預けるように眠っている。濡れた髪は乾ききらず、柔らかく波打つ金糸の先に、ところどころ濃い色が残っていた。長いまつ毛が目元を彩り、頬はほんのり紅を差したように赤い。
まるで、そこだけ光に包まれているような美しさだった。
毛布を引き寄せ、彼女の肩にかける。
動かした腕には痛みが走り、頭がじんと熱を帯びている。まだ完全に熱が引いたわけではないらしい。それでも彼女を見ていると、不思議と痛みは薄れていく。
そっとマリエルの頬に触れてみる。くすぐったそうに揺れるまつげ。
エリオットは、かすかに笑みを浮かべた。
この部屋の中で、彼女がいちばん温かい。それを感じられる事実に、ほっとする。
ずぶ濡れだったはずの彼女の体は、今は新しいドレスに包まれていた。
おぼろげな記憶にあるのは、アニスと王宮の侍医が忙しなく出入りしていた気配。
そして、寝台の横で不安そうな瞳をこちらに向ける、彼女の姿。
見下ろせば、彼自身の服も替えられていた。
額に手を触れ、汗を拭き、慣れない手つきで包帯を替えてくれたのは、きっと。
そう思うと、喜びとも戸惑いともつかない何かが胸に満ちていく。
護衛騎士が、守るべき王女に寄りかかってどうする。
そう思う一方で、それでもあのとき、彼女の言葉にすがるように頷いてしまった自分がいた。
「ずっとそばにいるわ」
覚えている。はっきりと。
治りきらない傷のせいか、昨夜の額ににじむ熱と、喉の乾き。揺れる視界に映る、心配そうな彼女の顔。
宿舎に帰るよう促す彼女に、ただ、小さく首を振った。
あの無力だった日が思い出されて。意地を張る子供のように……いや、もっと切実に。
離れたくない。そう訴えるように。
「……もう、あなたと引き離されるのはいやです」
みっともなくかすれる声で、そう言った。
それでも、彼女の手が彼の背に触れたのを確かに感じた。追い払われるのではなく、今度は彼の背を抱きとめるように。
あの時とは違う。彼女はいま、そばにいてくれる。
あの誓いの日。
熱で倒れた彼女を王宮まで送り届けたあの日。
従騎士という身分ゆえに、門の内へ入ることすら許されず、手を伸ばしたまま彼女から引き離された。
まだ腕の中に、彼女の温もりが残っていたのに。
でも、衛兵の前では、なす術はなかった。どんなに守りたいと思っても、もう彼女に触れることすら許されなかった。
でも今は。
彼女は、彼女自身の意志でここにいる。
この手を取って、ここにいる。
彼女はもう、引き離されるべき存在ではない。
ようやく、それを信じられる気がする。
目を離せずにいると、彼女のまぶたが微かに開かれる。
「……エリオット? 目が覚めたの……?」
そう言って、マリエルは潤んだ青紫の瞳を、眩しそうに細めた。
泣きそうになる。
彼女が、彼の名前を呼んだことに。彼だけを見ていることに。
「……はい、殿下。わがままを聞いてくださって、ありがとうございます」
なんとか声を震わせずに答える。
彼の手に優しく重ねられる、彼女の手。
「わたしが、あなたのそばにいたかったの」
彼だけに向けられる微笑み。
今度こそ、目の奥からじわりと込み上げるものがあって。
エリオットはまぶたを伏せる。
すると、ふわりと彼女の香りに包み込まれた。
「ずっとそばにいるって、約束したもの」
エリオットもその柔らかな体を抱きしめる。
永遠などないと知りながら、なお決して失いたくないと願い、その存在を確かめるように。
その優しい静寂を破って、騎士としての意識がわずかに顔を覗かせる。
この時間が、ほんとうにふたりに許されたものなのかと。
そっと彼女から顔を離し、エリオットはためらいがちに口を開く。
「ですが……そろそろ、お戻りにならないと……」
マリエルは彼を安心させるように微笑んだ。
「いいの。アニスにはちゃんと伝えてあるわ。侍医にも」
そして、ゆっくりと彼の肩に額を寄せる。
「だから……もう少しだけ、いさせて?」
言葉にならない想いが、エリオットの胸にせり上がる。
ここに彼女がいることさえ、まだどこか夢のようなのに。
触れることさえためらわれた花が、こうしてすぐそばにあることなんて――
答えのかわりに、目の前の金色の髪をひとふさすくい上げ、唇を寄せた。
マリエルは小さく笑う。うれしそうに目を細めて。
少しのあいだ、ふたりだけの時間が静かに時を刻む。
彼女のまなざしが、彼の胸元に落ちた。
ペンダントへ伸ばされた指先が、そのかたちをゆっくりとなぞっていく。
その仕草にわずかに混じるのは、何かを迷うような気配。
「ね、エリオット……ずっと気になっていたことがあるの。ひとつだけ、聞いてもいい?」
耳元に、ためらうような小さな声が降る。
「……どうして、あなたがあのときの男の子だって、教えてくれなかったの?」
エリオットは、彼女の髪に触れる手をそっと止めた。
言葉を探すように、息をひとつ吐く。
「……言うべきだったのでしょうか。でも……」
彼の視線もペンダントへと引き寄せられる。
淡く輝く金色。それは、あの遠い日の陽だまりにも似て。
「殿下の中で、“彼”がどれだけ大切な存在かはわかっていました。だから……名乗ることで、その記憶を壊してしまうのが、怖くて」
マリエルの背を抱きしめる。
近くにいるはずなのに、離れていきそうで怖かった。
本心を差し出したら、彼女が今の自分から目をそらしてしまう気がして。
「それに……あの日の自分を超えられたとは、まだ思えなかった。いまの自分こそが殿下を守れるのだと、そう誇れるようになるまで……そう思っていたんです」
言葉のあとに、わずかな沈黙が落ちた。
彼の背を柔らかくなでる手を感じる。
なだめるような、なぐさめるような。その温もりが、胸の奥に溶けていく。
マリエルは、ふふ、と短く息をこぼすように笑った。
「……ほんとに、あなたって……」
その声は優しくて、でも泣きそうに震えている。
「そんな理由で……ずっと、ひとりで……」
マリエルは彼の腕から身を離す。指先をペンダントへ向けると、金の飾りをてのひらで包み込んだ。
「エリオット……」
ゆっくりと、確かめるように言葉が紡がれる。
「記憶は……壊れてしまってもいいの。あなたがその中にいてくれるなら、わたしはいつまでも大切に思い出せるから」
マリエルは微笑みながら、目を伏せる。
それでも、言葉はまっすぐに彼へと届いて。
「それにね……いまのあなたは、あのときの“彼”より、ずっと強くて、頼もしくて……」
彼女が顔を上げる。視線が重なった。
その瞳は、もうじき夜の終わりを告げる空のよう。
澄み切った、けれど、揺るぎない光を宿している。
「わたしは、いまのあなたが大切なの。思い出じゃなくて、目の前のあなたが……」
マリエルは、ゆるやかにその肩に身を寄せる。
息づかいが重なり、夜明け前の薄闇がふたりを包み込んだ。
「……あなたが、ずっとわたしを見ていてくれたように、今度は、わたしがあなたの行く先を見守っていたい。だから、これからも、わたしはあなたの標でありたいの。そして、そばで照らしつづける光でいられたらって……そう思ってる」
それは、あの日の誓い。
――でも、もう思い出じゃない。
胸元のペンダントが、暖かくなるのをエリオットは感じた。まるで、マリエルのぬくもりを映したかのように。
エリオットはただ、腕の中にあるマリエルを抱きしめ直す。
それは夢のように儚く思えるのに、それでも確かにここにある。
彼女の想いが、ゆっくりと心のいちばん深い場所に沈んでいくのを感じながら。
そして、この一瞬をもう二度と忘れまいと、静かに目を閉じた。
「――入れ」
その声は短く、凛としていた。
玉座の間。そこには、その主以外誰もいない。
エリオットが一歩踏み出すと、石の床がまるで彼を咎めるかのように音を返した。
玉座の前にエリオットはひざまずき、剣を傍らに置く。
オルヴァンは、エリオットを一瞥すると、有無を言わせぬ声で問う。
「エリオット・デヴェレル。貴様の噂、すでに城中の耳目に届いておる……そのことは承知か」
「……はっ」
「我が娘の名がそこにあることも……だな」
オルヴァンは静かに立ち上がり、玉座のそばに掛けられていた一本の剣を手に取った。
長く実戦に耐えてきたそれは、すらりと音を立てて抜かれ、空気を震わせる。
覚悟はしていた。けれど、まさか――この場で。
エリオットの背中に、冷たい汗が伝う。
「剣を取れ、デヴェレル」
低く、押し殺した声。それは逃れようのない、明確な命令。
「儂と一手、交えよ」
エリオットは弾かれたように顔を上げる。
「ご冗談を。陛下に剣を向けるなど……」
オルヴァンは鼻で笑う。
「冗談でこんなことはせぬ。それとも、貴様は覚悟もなく、我が娘との噂に名を連ねたのか」
一歩、前へと進み出る。
その足取りは重く、一国の王としての威風が満ちている。
でも、それだけではない。娘を守る父としての、本気のまなざし。
「もしそうであるならば、ここにその命、置いていくがよい」
エリオットは、一瞬だけ目を閉じた。
まだ肩をよぎる、微かな痛み。
それでも、静かに剣に手をかけ、鞘を払う。
まるで、自らの運命を決めたかのように。
この剣の先に、未来がある。
どのような形であれ、自分の手で受け止める他にない。
「……陛下。剣を向けること、お許しを」
オルヴァンは、口の端をわずかに持ち上げた。
「ここには誰もおらん。遠慮は要らぬ。儂を討つ気で来い」
その言葉と同時に、剣が閃く。
二人の剣がぶつかるたび、金属音がこだまする。
騎士たちの主、オルヴァンの動きには無駄がない。その経験の差を痛いほど思い知らされる。数合交えたところで、逆に追い込まれていると自覚した。
「どうした。若手随一と言われる腕も、存外大したことはないのだな」
王はうっすらと笑み、エリオットを煽る。
「その肩を言い訳にでもするか。だが、その程度で本当に娘を守れるとでも?」
エリオットの瞳がわずかに揺らぐ。
でも、その心に、マリエルが微笑む夜の記憶が浮かんだ。
『いまのあなたが、大切なの』
その言葉がエリオットの瞳にまっすぐな光を灯す。
「必ず、守ってみせます」
その言葉と同時に、エリオットの剣が軌道を変えた。
「……ずっとそばにいると、誓ったのです!」
鋭く切り上げられた一撃が、オルヴァンの刃を斜めに叩き上げる。
一瞬、わずかに揺れる王の重心。エリオットはそれを逃さなかった。
白いマントが翻る。
高く、澄んだ音が響き、オルヴァンの剣が弧を描いて床に落ちた。
エリオットはすぐさま剣を引き、膝をつく。
「陛下。殿下の名誉を傷つけたこと、その裁きは甘んじて受けます。ですが、殿下へのこの想いだけは――どうか、お量りください」
オルヴァンは、転がった自らの剣に目を落とす。
でも、拾おうとはしなかった。
わずかな沈黙を宿し、エリオットに背を向けると、玉座へと歩みを進める。
「過日の命令どおり、貴様には伯爵位とエルヴェリス領を与える」
オルヴァンは、玉座へたどり着くと振り返る。
「――そして、王女の護衛騎士の任も解く」
あの日と同じ命令。なによりも冷たく、重い宣告。
誓いも、矜持も、彼女への想いも、いま再び引き裂かれようとしている。
「……陛下、それでは……!」
反論など許されるはずもない。
それでも、押し殺せなかった。
これは命令ではない。彼女のそばにいる資格などないと、突きつけられる断罪。
その声が玉座に届く前に、オルヴァンの言葉が鋭く割り込む。
「それは空位になって久しい。貴様は、その地でエルヴェリス騎士団を再興せよ」
国の英雄を継ぐ地位。古の騎士団の再興。
騎士であれば、誰もが憧れる名誉。
国の盾となり、誇り高く剣を掲げる新たな使命。
それでも、エリオットの胸には、誇りなど湧かなかった。
「ベルカナスとの問題はひとまず沈静したとはいえ、まだ油断は許されぬ。人を選び、鍛え、備えを怠るな。それが、これからの務めだ」
違う。
どれほど立派な任であれ、彼女のそばにいられないのなら、ただの追放と変わらない。
「これは王命である。覆ることはないと心得よ」
まるで釘を刺すような言葉。
やはり、届かなかったのか。
この声も、剣も……この想いさえも。
視界が陰り、胸の奥に痛みが走る。
誓いを、矜持を、彼女への想いを。すべて確かめるかのように拳を握る。爪が掌に食い込む痛みだけが、かろうじて彼を現実につなぎとめていた。
エリオットは、ゆっくりと目を伏せた。
「……謹んで、拝命――」
王命を受ける、それが彼にできるただひとつのこと。
もう、彼女のそばに立つことは叶わないのなら。
いまは、託された任を果たすしかない。
それが彼女を守る道のひとつと信じて。
「……娘が貴様についていくかどうかは、儂にはわからぬ」
王がぽつりとこぼす。
時が止まったようだった。
――認められた…?
その一言に込められた意味を、エリオットはようやく理解する。
「陛下……!」
はっとして顔を上げる。
オルヴァンは、玉座の脇に置かれていた剣を手に取る。ゆっくりと階を下り、エリオットの前へと歩を進めると、それを差し出した。
「受け取れ」
鞘には、陽光を思わせる金の彫金と、青紫の宝石がひとつだけはめ込まれている。
どこまでも無垢で、曇りのないその光。磨き抜かれたそれはまるで、あの幼い日の彼女の瞳を思わせた。
「マリエルが生まれたとき、鍛えさせた剣だ。娘を守る者に託すと決めていた」
エリオットの手に、その剣は渡る。
自分のために作られたものではない。
でもいま、確かにその重みが彼自身に向けられている。
剣を捧げ持ち、深く、静かに頭を垂れる。
「……確かに拝領いたしました。我が命と思い、守り抜きます」
それは、騎士としての誓いではなく。
ひとりの男として、すべてをかけて向き合うと決めた、ただその人のための誓い。
オルヴァンは、一瞬だけ、そんなエリオットをにらみつける。
「もし、マリエルが涙を流すようなことがあれば……そのときは、貴様の命ごときであがなえると思うな」
そう言い放つと、どさりと玉座に腰掛けた。
「……もういい。行け」
ひらひらと、彼を追い出すように手を振る。
「はっ……」
エリオットは、もう一度だけ深く頭を垂れた。
静まり返った広間にただひとり。
玉座の上で、オルヴァンは天井を見上げた。
娘が選んだ男。その手に全てを託した。
それでも、この胸に残るわずかな痛みは、父としての迷いなのか。それとも、新たな旅立ちを願うがゆえのものなのか。
「……こんなに早く、手放す日が来るとはな」
苦笑のにじむため息がひとつ、広い謁見の間に落ちた。




