1 王女の護衛騎士
その春もまた、王城の庭にブルーベルが咲いた。
昨夜降った雨のおかげで、その葉は水滴を湛えて淡く輝く。
木立の下に咲き広がる青紫の花は木漏れ日に透け、風にそよぐその音は、まるで秘密をささやきあう精霊たちの声のよう。
その庭の一角、青紫の海にゆったりと浮かぶ船のように、白い東屋が佇んでいる。
「……さま、姫さま?」
自分を呼ぶ声に、マリエルは、はっとして顔を上げた。
「あ……ごめんなさい、アニス。何か言ったかしら?」
横に立つアニスは、眉を下げながらも微笑む。
「いえ、ずっとお手を止めていらっしゃるものですから……お食事が冷めてしまわないかと」
やっと思い出したように、彼女の手はスプーンを動かしだす。でも、口に運ぶことはなく、スープをひたすら混ぜているだけ。
「お顔の色も優れません。もしかして昨夜は、あまりおやすみになれなかったのですか?」
その言葉を聞いて、侍女を安心させようと少しだけ口にする。さすが料理長が作っただけあって、味はよい。けれど……今日はあまり食欲がない。
スプーンを置いて、マリエルは心の中で料理長に謝る。
「……そうではないの。お姉さまが贈ってくださった本を読んでいたら、寝るのが遅くなってしまっただけよ」
半分は本当、半分はうそ。遅くまで本を読んでいたのは、真夜中に目を覚ましてしまって、もう眠れなくなってしまったから。
毎年この季節になると、決まってあの夢を見る。
野犬の唸り声。剣が風を切る音。そして、あの背中、あの声――
夢の中のマリエルは、いつも彼の顔を見つめている。
けれど、霧の中にあるようにぼやけて、どうしてもはっきりしない。
彼は笑っていた。腕に傷を負いながらも。
白いシャツに滲む赤い色。傷を手当てしないと。そう思って手を伸ばせば伸ばすほど、彼は遠ざかってゆく。
「待って……!」
追いかけようとしても、足は氷のように動かない。
そして、彼は本当に霧の中に消えてしまう。
そこでいつも目が覚める。
あの出来事のあと、この夢を見るのはもう何度目だろう。
誰にも話したことはない。心配させてしまうし、きっと信じてもらえないから。
……どうして、思い出せないのだろう。
あのとき、高熱でうなされていたせいだ、皆がそう言う。そもそも、本当にそんなひとがいたのかと。
でも。
――お守りします。この命にかえても……
あの声だけは、こんなにもはっきり、胸の奥に残っている。
ぜったいに彼はあの場所にいて、助けてくれた。マリエルだけはそう信じている。
「姫さま……」
不安げなアニスの声が、耳に届く。
またぼんやりしていたらしい。マリエルは、はっとして顔を上げ、無理に笑みを浮かべた。
視界の隅に、風に揺れるブルーベルが目に入る。
ここで朝食をとりたいと言ったのは、彼女自身。あの花を見ていると、不思議と気分が落ち着く気がするから。
結局、食欲は湧かなかったけれど。
「ふふ、やっぱり少し眠いみたい。面白い本だったから、つい次が気になってしまったのよね」
「まあ、そんなに。どのようなお話なのですか?」
アニスは、お茶を入れながらたずねてくる。まだ納得していないようすながら、主人の調子に合わせてくれたのだろう。優秀な侍女には感謝しかない。
「最近、流行っている小説なんですって。王子さまと女性騎士とのロマンスで、王子さまを好きな令嬢が嫉妬して、騎士にいじわるする……って内容なの」
とたんにアニスは頬を桃色に染め、目を輝かせる。
「まあ、それは楽しそうです! 確かに、次が気になる内容ですわ!」
恋愛小説好きのアニスらしい反応に、思わずくすっと笑ってしまう。
「読み終わったら貸すわね。あと少しだから待ってて」
元気よく「はい!」と答えるアニス。年上なのに、まるで妹のようにも思えるのは、この素直さゆえだろう。少しだけ気分が上がって、マリエルは微笑む。
姉からの贈り物には手紙が添えられていて、ふたり目の子の出産を間近に控えていること、そのために今度の夜会には参加できないということが書かれていた。隣国セヴレインの王太子妃という彼女の立場を考えれば、当然のこと。でも、久しぶりに会えると思っていたマリエルは、やはり少しだけ寂しく感じる。
アニスには聞こえないよう、こっそりとついたため息に紛れて、若い女性たちのはしゃいだ声が響く。
「ああ、すてきだったわ……一瞬でも、あの神々しいお姿を拝めて幸せ……」
「わたし、絶対目が合った! 今日はいいことありそう!」
休憩中のメイドたちだろう。聞くに男性の話らしい。
マリエルたちがいる東屋の周囲は、高く刈り込まれた生垣に守られている。深い緑の葉が幾重にも重なり合い、外からの視線は届かない。彼女たちは、こちらの存在には気づいていないようだった。
「まあ、はしたない! 大声であのような話をするなんて」
その騒がしさに、あんなに楽しげだったアニスの顔がとたんに曇った。注意してくる、と言う彼女を引き止める。
「いいのよ。王宮は娯楽が少ないもの。あのくらい許してあげて」
「ですが、姫さまはお体が優れませんのに……」
その間も、きゃあきゃあと盛り上がるメイドたち。
「わたしのいとこが騎士団の厩舎で働いてるんだけど、この前の模擬戦、デヴェレルさまの一人勝ちだったって言ってたよ。誰よりも早くて、誰よりも冷静だったって」
彼女たちの口からある名前が飛び出して、マリエルは思わず聞き耳を立ててしまう。
「それでいてあのお顔でしょ? 侯爵家の御子息ってだけでも充分なのに、何もかもが完璧すぎない?」
「ああ、エリオットさま……どうか、おそばに置いてくださらないかしら」
「あははっ、それはかなり難しいんじゃないの!」
楽しそうな声がどんどん高まっていくのに比例して、アニスの怒りもいよいよ高まっていく。毛を逆立てて、シャーっと威嚇でもしそうなその雰囲気に、昔飼っていた猫に似てる、なんて思う。
「なんて無礼な! 恐れ多くも姫さまの護衛騎士のかたに対して、あのような物言いをするとは! メイド長はどんな教育をしてるの?!」
今にもメイドたちに飛びかかっていきそうで、マリエルは苦笑いしながらなだめる。
「落ち着いて。わたしは平気よ」
そう言って、お茶と甘いものをすすめる。恐る恐る長椅子の端に腰かけたアニスだったけれど、目はすでに料理長渾身のお菓子に釘付けだ。侍女の好みを完全に把握しているマリエルは、微笑んで「さあ、食べて」と背を押す。アニスは「姫さまがおっしゃるなら……」と遠慮しつつも口にし、ほわりと顔をゆるめた。
「もう……姫さまはお優しすぎるのですわ」
お茶の香りにほっとため息をつきながら、侍女は言う。このお茶も、姉が本といっしょに贈ってくれたもの。さわやかな香りとほんのりとした苦味は、甘いお菓子によく合う。
「だって、彼を護衛に選んだ私の目利きを間接的に褒めてくれているようなものでしょう? 悪い気はしないわ」
メイドたちは完全にここに居座ることにしたのか、なかなか声は遠くならない。そして、うわさ話も途切れることがない。あれだけ盛り上がるのも、彼女たちの年齢なら仕方ないのかもしれない。
「でも、聞いた? デヴェレルさまには、心に決めた方がいるって話」
「えっ、知らない! 誰、誰?!」
「さあ、それはわからないけど、ペンダントをいつも胸元にしまってるんだって。肌身離さず、っていうの? それがその人からもらったものらしいよ」
「なにそれ! 完全に本命って感じじゃない?」
「うそ、信じられない……! でもロマンチック……」
その声に胸がざわめいた。
ペンダント、って、あのときの……?
アニスが再び立ち上がろうとする。
「あんな品のない話をするなんて! もう、我慢なりません! 姫さま、やはりわたくし、少し――」
マリエルは、思わず彼女の袖を取って止めていた。
「姫さま……?」
不審そうな侍女の声にはっとして、その手を離す。
「……そうね。そろそろ彼女たちも仕事に戻らないと。行ってきてくれる?」
ぷりぷりとしながらも、決してドレスの裾は乱さない。どんなときも、淑女の基本は忘れない侍女の後ろ姿を、ぼんやりと眺めながら思う。
どうして今、止めたのだろう。
理由はよくわからない。あのまま彼女たちの話に耳を傾けてみたい気もした。
――デヴェレルさまには、心に決めたかたがいるって話。
なぜかメイドの声が耳から離れない。
彼が護衛騎士になってから、そろそろ一年がたつ。
けれど、彼の私的なことを耳にしたのは、これが初めてだった。王女と騎士という立場で、それ以上のことを知っているはずもない。
それなのに……なぜだろう。胸の奥に小さなものが少しずつ溜まっていくような、この感覚は。
「あなたたち! もういい加減になさい!」
生垣を隔てたアニスの声に、思考を引き戻される。
「きゃっ、アニスさま?!」
「えっ……ということは、王女殿下が……」
メイドたちの怯え、あせった声が聞こえる。それに追い打ちをかけるアニス。
「感謝なさい。姫さまは、寛大にもお許しくださるそうよ。でも、わたしは違うわ。さっさと戻らないと、メイド長に言いつけるわよ!」
バタバタと走る足音が遠ざかり、東屋にはようやく静けさが戻った。
マリエルは、ぬるくなりかけたお茶に口をつける。香りはすでに飛んでいて、舌に残るのは苦さだけ。
「まったくもう……姫さま、たいへんお騒がせしました」
疲れをにじませた顔で戻ってきた侍女に、「お疲れさま」と微笑む。
「姫さまもお疲れのことでしょう。そろそろお戻りになりますか?」
マリエルはある音に気づいて、生垣の向こうを眺めながら首を振る。
「ううん、もう少しだけ待ってくれる?」
「もう少し、ですか? なぜ……」
不思議そうに首を傾げるアニス。「もうすぐわかるわ」と、マリエルは微笑む。
あと、もう少し――
生垣の向こうからはっきりと足音が近づいてきた。
メイドたちの軽やかなものとは違う、規律を感じさせる重さを帯びた足取り。
その主が、姿を現す。
予想どおりの人物に、マリエルは口元をほころばせた。
「おはよう、エリオット。やっぱりあなただったわね」
隣では、アニスが「えっ、どうしてわかったんですか?」と、驚いている。
「ご機嫌麗しゅう、殿下」
主人のあいさつに応え、エリオットは服が濡れるのも厭わず、片膝をついて敬意を示す。目が合うと、彼の青みを帯びた灰色の瞳も、ゆるやかに細められた。
彼がまとうのは、護衛騎士にのみ許された純白の制服。金の縁取りは誇らしげに淡くきらめき、白いマントは朝の風をはらんで軽やかになびく。
毎日のように目にしているはずのその姿が、今日はひときわまぶしく映った。
その華やかな軍装の上からでもわかる、しなやかな体の線。朝日に透けるその灰銀の髪は、まるで繊細な絹糸のようで――
……ああ、なるほど。
彼が噂になるのも、無理はないのかもしれない。
あのメイドたちの会話を聞いたせいだろうか。見慣れているはずなのに、なぜかそんなふうに感じてしまう。
「こちらにいらっしゃると伺い、お迎えにあがりました。そろそろお部屋にお戻りになりますか」
マリエルがうなずくと、彼は立ち上がって控えめに手を差し伸べる。
「それでは、私は片付けてから戻ります。デヴェレルさまがご一緒なら安心ですから」
荷物をまとめていたアニスが、東屋の奥からぴょこんと顔を出して言う。
「姫さま。お戻りになったら、すぐにおやすみくださいませ。必ずですよ!」
その視線にすら釘を刺されているようで、マリエルは思わず苦笑いしながら目の前の手を取った。
エリオットの手が、そっと彼女の指先を包む。いつもの彼の手の感触。なのに、今日はなぜか一瞬、胸の奥に小さな波紋が広がって、その名残が消えずにたゆたう。
何だろう、と首をかしげながら――マリエルはそっと彼の胸元に視線を移した。
そこには、白い制服の生地がなめらかに重なり、何も見えない。
それでも耳にした噂が頭をかすめて、すこしだけ彼女の目をそこに留めた。
……何を考えているのかしら。
目をそらすように、視線をブルーベルに移す。
風が、その花をひとつ揺らした。