18 終わらせるために
扉が開く音とともに、生ぬるい風が吹き込んでくる。
重たいまぶたを押し上げると、天蓋が揺れていた。
同時に、全身を焼くような痛みが押し寄せる。まだ、腕すら思うように動かせない。
「気分はどうだ」
その声に反応し、首だけをわずかに向ける。
視界に映ったのは、こちらを見下ろす、セヴレインの王太子夫妻。
気づかう言葉とは裏腹に、レオナールの声には突き放すような冷ややかさがあった。
ルートヴィンが口を開く前に、彼は言葉を繋ぐ。答えなど必要ないとばかりに。
「今日は、貴殿の処遇について伝えにきた」
レオナールは、後ろに控える騎士から、ひと巻きの羊皮紙を受け取る。ゆっくりと広げると、紙面に目を落とした。
「王子……いや……ルートヴィン。貴殿の爵位は剥奪され、ベルカナス王族としての身分も失う。貴殿の祖国ベルカナス王国はもちろん、アヴァランデ王国、そして我が国にも、二度と足を踏み入れることは許されない」
罰を下す声は、容赦なく響いた。
「これは、アヴァランデ王国の国王陛下が、ベルカナス王国および我が国からの同意と信任のもとに下した、正式な裁断だ」
ルートヴィンは何も言わず、ただ瞼を閉じる。そこには、もはや悲しみも怒りも、悔しささえもなかった。すでに、何も感じることができない。
「……ただし、回復するまでは、この場での療養を許可する。最後の情けだ」
羊皮紙を巻き戻し、レオナールはそれを枕もとに置く。
「国王陛下の紋章入りの文書だ。目が覚めた以上、目を通すくらいはできるだろう」
淡々とそう告げ、レオナールは隣に立つ妻に視線を向けた。
ミレイナは小さく頷き、ゆっくりと一歩前へ出る。
「これを……マリエルが、あなたにと」
彼女が差し出したのは、ひとつの封書。
その白い紙が、朝靄に濡れた花びらのように、淡く光って見えた。
どきりと、心臓が跳ねる。
それは、あの日からはじめて感じる、痛み以外の感覚。
ミレイナは、ためらいがちにルートヴィンの手元へと手紙を滑らせる。そして、もう一度だけ彼に目を向けると、夫とともに扉の向こうの光へと歩き出した。
扉の閉まる音が、ルートヴィンの耳に届く。
時間をかけて体を起こし、手元の封筒を震える手で持ち上げた。
そこにあったのは、青紫色の封蝋。マリエルの印である百合が、その中心を飾っている。
言うことを聞かない指で封を破ると、整った文字が目に映った。
ルートヴィン様
何を書くべきか、何度も迷いました。
ですが、ひとつだけ、どうしても伝えたくてこの手紙を書きます。
あの日、あなたに剣を向けられたとき、私はとても怖かった。
でも、それ以上に、悲しかったのです。
なぜ、そんな瞳をしていたのでしょう。
あなたの中で、どれほど多くのものが壊れていたのでしょう。
何が、あなたの人生から、大切なものを奪っていったのでしょう。
そして、もしその一端に、私の存在があったのなら……そう思うたびに、胸が痛みます。
それでも、願わずにはいられません。
どうか、もう誰かの影に縛られないように。
どうか、もう憎しみに呑まれないように。
失ったものの影ではなく、まだ残されたものを見つけられますように。
そして、これからあなたが歩む道が、剣ではなく、心で選ぶものでありますように。
マリエル・オブ・アヴァランデ
そこにある言葉はただ、ひとりの女性の祈りだった。
それは、空っぽだった彼の中を満たしていく。
たったいま罰を受けたはずなのに、なぜか解き放たれるような感覚が広がって――まるで鎖がひとつ、音もなく落ちていくようだった。
気づけば、口元からかすかな息がこぼれ落ちていた。
それは笑いとも嘆きともつかない、微かなゆるみ。
……ああ、これでいい。
ルートヴィンは、手紙を胸元にそっと押し当てた。
長く張りつめていた表情が、ようやくほころんでいく。
自分の顔が人の顔に戻った――そう、どこか他人事のように思った。
同じ頃――
大公のもとにも、ひとつの報せが届いていた。
『王命により、アイゼンベルク大公、ジークベルト・フォン・ベルカナスの尋問を行う』
厳かな筆致の文の下、赤い封蝋にはベルカナス王家の紋章が押されていた。
誰もいない書斎。
冷えた暖炉の前にひとり立ち、手の中の報せを強く握る。
この日が来ることを、大公は知っていた。
アヴァランデの王太子が、自ら国境を越えて現れたあの日から。
そして、それ以来、あの王が何かと理由をつけては、彼を遠ざけるようになった時から。
大公は、無言のままそれを丸め、ひどく乾いた指先で火のない暖炉へと放った。
そこには、灰とともに、新たに焼き切られた古い巻紙が積もっている。
――中立地帯協定。
あの日、国境で踏みにじられた自尊の証。
かさりと音を立てて落ちた紙は、ただその灰の上を転がるばかり。
燃えない。
燃やし尽くしたつもりの過去も、焼き捨てたい報せも。
どちらも、灰にすらなれずにここに残りつづけている。
机の上には、若き兵士の肖像画。
あの王女のそれに似た、まだ少年の面影を残すその瞳。
青紫の色を帯び、まっすぐに未来を見ていた。
彼は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと息を吐き、指先で肖像の額をそっとなぞった。
「……あのとき、剣を置いた者が勝者と呼ばれた」
呟いた声は、誰にも届かない。
「私は、間違っていたのか」
答える者もなく、沈黙だけが部屋に満ちる。
ただ、揺れる蝋燭の灯だけが、壁に映る影をかすかに揺らしていた。
その手が、壁にかけられた一振りの剣を取り上げる。
息子の形見。かつて自分が与えたもの。
大公はそれを胸に抱くようにして、深々と椅子に腰を下ろした。
燃やし尽くしたはずの過去は、まだここにある。
そして、守ろうとした誇りは、取り戻そうとした未来は、もうどこにもない。
彼は、二度と立ち上がろうとはしなかった。
誇りも敗北も、意味を失った世界に沈んだまま。




