15 ブルーベルの誓い
目の前の少女が誰なのか、もう疑う余地はなかった。
相手は、まだ幼いとはいえ女性。しかも、この上なく高貴な存在。
エリオットはひどく緊張してしまう。
騎士団で習った礼儀や作法を、頭の中で必死にかき集めた。
どう立てばいい?
どこまで近づいていい?
視線はどこに置けばいい?
どうしよう、どれも教わったはずなのに――いざとなると、全然出てこない……!
ぎくしゃくと一歩踏み出す。右手と右足を同時に出しかけて、操り人形のような歩き方になった。
「えっと……お怪我はありませんか?」
息を整え、とりあえず声をかけてみる。
少女は黙ってうなずく。でも、恐怖か疲れか、すぐには立てないようだった。
エリオットは、ためらいつつも手を差し出す。少しだけ震えてしまって、きゅっと力を込める。
「立てますか」
少女はそっと、彼の手を取った。
その指先は、ひんやりと冷たい。それは、彼女がどれだけ怖い思いをしたのかを物語っているようだった。
「ありがとう……あなたは、わたしの命の恩人ね」
けれどその声は、まるで鈴が鳴るよう。騎士団では決して聞くことのなかった、その澄んだ声にエリオットは照れてしまった。それに、そんなふうに誰かに感謝されたのは、たぶん初めてのこと。
「い、いえ。そんな、大したことでは……」
どぎまぎしながら答えるエリオットをよそに、少女の瞳は、彼の腕に向けられる。
「腕……血が出てる」
はっとして、自分の袖に目をやる。裂けた布の下、赤くにじむ傷。
小さな手が、そっと彼の腕に触れた。その温度に、胸を打つ速度が早くなる。
「だ、大丈夫です。これくらい、訓練ではよくあることで……!」
声を裏返しながら取り繕ったけれど、少女は心配そうに眉を寄せた。
「だめよ。お城に戻ったら、ちゃんと手当てするわね」
エリオットは思わず目を丸くする。
王女がまるで隣の家の女の子のように、そんなことを言うなんて。
「あ……ありがとうございます」
照れくささを隠すように、あわてて言葉を探す。
「あの、なぜこのようなところへ? お供のかたはご一緒ではないのですか?」
途端、手を離し、少女は悲しそうに目を伏せた。
当然の質問のつもりだったのに、まずいことを聞いてしまったかもしれない。そんな冷や汗が、背中をつたう。
「わたし……ひとりでお城を抜け出して来たの」
ぽつりとこぼされた思いがけない言葉に、エリオットは思わず彼女を見つめる。
少女は草の上に視線を落としたまま、かすかに唇を震わせた。
「お姉さまが、お嫁に行くの。セヴレインの王太子さまのところへ。国のためって、みんな言うけれど……わたしには、わからない。好きでもない人のところへ行くのに、なぜ笑わないといけないの?」
少女は、くしゃりと顔をゆがめた。
「お母さまも、もういないのに……お姉さままで、いなくなってしまう……」
涙がこぼれるのをこらえるように、唇をぎゅっと結ぶ。
静かな声だった。けれど、その小さな胸に抱えたやりきれなさは、痛いほど伝わってくる。
「わたしも、いつかはひとりでどこかに行かなきゃいけないの? わたしは……たったひとりで、顔も知らない人のところに行くのはいや……」
涙のにじむその言葉に、エリオットの胸がきゅうと締めつけられる。
自分だって、怖かった。七歳で騎士団に入ったとき、まわりはみんな年上で、知らない人ばかりだった。逃げたいと思った。でも、逃げなかった。泣きたい夜もあったけれど、今はここに立っている。
エリオットは、少しだけ姿勢を正した。
「僕……いえ、私も……七つのときに、ひとりで騎士団に入ったんです。最初は、もう毎日が怖くてたまらなかった。誰にも話しかけられないし、いつも叱られるし、剣も持ったことなかったし……」
言いながら、ついさっきまでぼやいていたことを思い出し、照れくさくて笑ってしまう。でも、すぐにまっすぐ少女を見る。
「それでも続けようって思いました。あんな野犬に手こずったりしないくらい強くなりたいって、そう思ったんです。自分の役目を果たせるように。たとえ選んだのが自分じゃなくても、そこでちゃんと生きていけるようにって」
悲しむ少女を前にして、何を言えば正しいのかはわからない。それでも、彼女の涙をそのままにはしたくなかった。
「……もしかしたら、お姉さまもそういうふうに、自分の場所で頑張ろうとしておられるのかもしれません。ですから、どうか……笑って見送ってあげてください」
少女が、そっと顔を上げた。驚いたような、でもどこか救われたような目でエリオットを見つめる。
「騎士さま……強いのね……」
つぶやかれたその声に、ほんのりとエリオットの頬が染まる。なぜかそれが、これまでのどんな褒め言葉よりも、嬉しかった。
「わ……私なんて、まだまだです。それに、まだ従騎士で……」
「従騎士さま?」
少女は、きょとんとして彼を見つめる。そして、いいことを思いついたとばかりに、手をひとつ叩いた。
「そうだわ! 騎士さまになったら、わたしの護衛騎士になってくれる? 護衛騎士は、いつでも、どこへ行くにも、いっしょにいてくれるって聞いたわ。それなら、わたしはひとりじゃないもの!」
まるで雲ひとつない青空のような、迷いのない一言。
「えっ……」
思わず息がこぼれた。心の準備もないままに、胸がふるえる。
王女の護衛騎士。彼女のすぐそばで、その身を守る役目。
それは、あまりにも遠い場所のように思えた。
そもそも、それが「目指していいもの」だとも思っていなかった。
けれど、透き通った彼女の瞳が、こちらを見ている。
信じて疑わない目で、彼の答えを待っている。
もし、彼女を守ることができるなら。
彼女のいちばん近くに立つことができるなら――
彼の中で、何かが動いた気がした。
「……はい。もっと強くなって、必ず殿下の護衛騎士になります」
声にして初めて、それが自分自身の願いになったことに気づいた。
「ほんとう? 絶対よ!」
少女はぴょんと飛び跳ね、うれしそうに笑う。
「それでは騎士さま。どうぞ、あなたのお名前を教えてくださいませ」
騎士として名乗る。その重みを知らないわけではない。それは、騎士としての覚悟と誇りを言葉にするということ。
緊張でかすれそうな声を必死に抑え、彼は口を開く。
「……エリオット・デヴェレル、謹んでご挨拶を申し上げます」
自分の声が少しだけ大人びて聞こえた。からだの奥に、小さな炎のように誇りが宿るのを感じる。
「エリオット・デヴェレル……覚えたわ! ね、エリオットって呼んでもいい?」
不意に名前を呼ばれて、胸がさざなみのようにゆれた。頬が熱くなるのが、自分でもわかる。
「は、はい。どうぞ、殿下のお心のままに」
そう口にしたとき、ふわりと風が吹き抜けた。
足元で、青紫の小さな花が揺れる。
ふとそれに目を留め、しゃがみこむ少女。
「ブルーベル……」
つぶやいた声はどこか楽しげで。
少女はその中の一本を摘み、その髪に刺した。青紫の花は、金の髪の中で星のように咲いている。
まるで陽光に輝く花のような人だ――そんな陳腐な言葉が頭に浮かんで、恥ずかしくなる。
彼女はもう一本を摘みあげると、立ちあがろうとする。でも、その足が急にふらついた。
「殿下!」
エリオットが支えようとすると、「平気よ」と言ってエリオットの正面に立つ。
やはり、どこか怪我を……?
声をかけようとしたけれど、その瞳に宿った、なにかを決めたような強い光が彼の言葉を遮った。
「では、今からあなたを正式に叙任します」
「えっ……?」
「お父さまの儀式を見たことがあるの。だから、ちゃんとできると思うわ」
その手には、摘んだばかりの小さな青紫の花が握られている。
「……お父さまは、わたしのための剣を作ってくれたの。宝石が付いてて、とてもきれいなのよ。でも、まだ誰にも渡せないんだって。だから、今日はこの花を剣の代わりに使うわね」
そう言って少女は背筋を伸ばし、すっと顔を引き締めた。その姿には、冗談めいたところはひとつもない。
「さあ、エリオット。そこにひざまずいて」
戸惑いながらも、言われるがままに片膝をつく。
少女は凛とした顔で、まるで騎士の剣のように、摘んだ花の茎をそっと彼の肩に当てた。
こほん、と、ひとつ咳払いをする。
「……わたし、マリエル・オブ・アヴァランデは――」
彼女は真剣な声で続けた。
「我が名において、この者を騎士として任じます。未来の騎士、エリオット・デヴェレル。どうか、わたしの剣となり盾となってください」
ひとつひとつ丁寧に紡がれるその言葉は、どこかたどたどしく、幼さを残している。けれどエリオットには、それがこの世の何よりも尊く、美しく思えた。
「わたしもまた、あなたが迷うときには標となり、その行く先を照らす光となりましょう」
花が、そっと彼の肩をなぞる。
それは、そよ風が頬をなでるように優しくて――けれど、確かに彼の深いところへと刻まれていく。
「……はい。きっと、殿下をお守りします。この命にかえても……」
思わずこぼれたその言葉に、エリオットははっとする。でも、それは不思議としっくりと彼の中におさまった。
まるで、そこにずっとあったように。
少女は、エリオットを見つめ、少しだけためらうように、けれど思い切ったように手を差し出した。
「物語で読んだの。たしかこういうときって……騎士さまは手に口付けするのよね? 忠誠の証、って」
言いながら、頬を赤く染めている。その瞳は期待にきらめき、どこか誇らしげで。
エリオットは目をぱちぱちと瞬かせた。でも、すぐに言われたとおり、そっとその手をとる。
指先は柔らかく、きめ細やかで、さっきよりもずっと熱を帯びている。
一度息を整えて、彼はゆっくりとその指先に唇を添えた。
そのわずかな時間に、心に小さな灯がともる。
――これが、騎士の誓い。
少女は驚いたように一瞬目を見開き、それからぱっと笑った。春先に咲く花のような、柔らかくはじける笑顔。
「これでエリオットは、ほんとうにわたしの騎士ね? いつもそばにいてくれるのよね?」
その言葉に、心の奥がぎゅっと締めつけられる。苦しいようでいて、どこか嬉しく、じんわりと何かが芽吹くような感覚だった。
「はい。いつでも殿下のおそばにおります……必ず」
少女は嬉しそうにうなずき、自分の手の中の花を差し出す。
「ありがとう……! これは誓いのしるしよ。大切にしてね!」
そう言って、髪に挿していたもうひとつの花を抜き取り、大事そうに抱え込んだ。
「わたしも……ちゃんと持ってるから……」
エリオットはうなずき、花を手のひらに包むと彼女の顔を見つめる。
「……殿下?」
様子がおかしい。
さっきまであんなに元気だったのに、その瞳はどこかぼんやりと花を見つめている。
それに、顔が赤すぎる――そう思う間もなく、彼女の体がぐらりと傾く。
「……っ、殿下?!」
慌てて抱き止めると、その体は、内側から燃えるように熱を帯びていた。腕の中で、彼女は小さく開いた唇からかすかな息を吐いている。
呼吸は早く、そして浅い。
やっぱり、さっきの……
ふらついた足、熱かった手。
エリオットは唇を噛む。
もっと早く気付いていれば……!
「殿下、しっかりなさってください! 今、お城へお連れしますから!」
恐怖が喉までせり上がってくる。エリオットはその感情をかき消すように、彼女を抱き上げて駆け出した。
門の前で、衛兵たちが慌ただしく行き来しているのが見えた。そのうちのひとりが、エリオットに気付く。
「止まれ!」
鋭い声と同時に、数人の衛兵がエリオットの前に立ちはだかった。その視線は、エリオットではなく、抱えられた少女に釘付けになっている。
「そちらは……王女殿下か?!」
「はい、野犬に襲われそうになったんです! それに熱があって――」
「そこを動くな! 殿下はこちらで預かる」
思わず腕に力が入る。けれど、相手は訓練された大人の兵士たち。すぐさま彼女を抱き取られ、その体はエリオットの腕を離れた。
「……騎士団の所属か?」
「はい。従騎士のエリオット・デヴェレルです」
「ご苦労だった。だが、ここから先は入れん。殿下についても、余計な詮索はせぬように」
越えられない、明らかな線引きがそこにはあった。
「でも、せめてご無事かどうかだけでも……!」
「あとのことは我々が対処する。これは高位の案件だ。従騎士の職掌を越えている」
ぐっと言葉に詰まる。
そうだ……僕はまだ、騎士ですらない。
「すぐに戻れ。さもなくば、不審者として捕える」
鋭い剣のように、衛兵の言葉が突き刺さった。
少女の姿が門の奥へ消えていく。その直後、鉄の門が重く閉ざされた。ぎい……と嫌な音が彼の耳にこびりつく。
そしてその姿は、完全に見えなくなった。静けさが戻った通路には、もう彼女の気配すら残っていない。 あの小さな体が、さっきまで自分の腕の中にあったことが嘘みたいに。
守るって、ずっとそばにいるって、言ったばかりだったのに……
なのに、今の僕では門の中にすら入れない。
唇を強く噛んで、込み上げるものを押し殺す。
悔しさで、視界がじんとにじんだ。
もっと強くなりたい。
彼女のそばに、胸を張って立てるように。
エリオットは、手の中のブルーベルを見つめる。
青紫の花は、少女の瞳のように揺れていた。
――夢が静かに遠のいていく。
目を開ける。
いつもの天井。騎士団の宿舎、自分の部屋。
窓越しの朝日が、部屋を満たしている。
「……護衛騎士に、か……」
覚めきらないまどろみの中で、エリオットはぽつりとつぶやいた。
夢に見たのは、遠い昔。
守ると誓った、あの日。
右肩が痛む。
矢を受けた傷は、包帯の下でまだうずいていた。
彼女からは、何の知らせもない。
予定では、今日には戻るはずだった。
連絡がないのは、彼女の身に再び何か起こったからではないのか。
よぎる不安をすぐに打ち消す。
襲撃者はすでに捕えられ、彼女は守られたのだから。
次の瞬間、別の不安がよぎった。
最後に聞いた彼女の声を思い出す。
あの、まるで遠くへ行ってしまうかのような……
からだの奥で、焦げ跡のような痛みがじわりと広がった。
……失望された、のか?
こんな怪我をして、護衛騎士の責任を果たせなかったことに。
だから、帰された?
――いや、そんなはずはない。
血に濡れた体を支え、必死に呼びかけてくれた声を忘れていない。
なのに。
いま、彼女の言葉は届かず、足音も聞こえない。
あのときの夢が、ようやく叶ったはずなのに。
それなのになぜ……こんなにも遠いのだろう。
あのとき、命令に背いてでもついていくべきだったのか。
体を引きずってでも、彼女のそばにいるべきだったのか。
そうすれば、こんなにも取り残されたような気持ちにならずに済んだのか。
苦い想いを押し込めるように、そっと目を閉じる。
まぶたの裏に、金の髪をなびかせて微笑む姿が浮かんだ。
あの仕草、あの笑顔、あのふとした眼差しのひとつひとつに、期待したことがないと言えば嘘になる。
少しくらいは、そこに特別な意味があるのではないかと。
そんなこと、思うべきではなかったのか。
護衛として、剣を携える者として、それは越えてはならない一線だったのか。
……これは大それた気持ちを抱いた罰か。
そう思わなければ、この沈黙に耐えられない。
体を起こしかけて、鋭い痛みに眉を寄せる。
「……くそ……ッ」
シーツを握りしめ、寝台の上で息を吐く。
胸元のペンダントがやけに冷たい。
彼女の髪色に似せたこの金の光も、今はかすんで見えた。
彼女を守るには、まだ足りない。
もっと強くならなければ。
もう、あんな姿を見せることのないように。
なのに、いまは剣すら握れない。
焦るほどに置いていかれるような気がして、体中が締め付けられるようだった。
自分はいま、何も知らされていない。何もできない。
早く、彼女の顔が見たい。
あの輝く笑顔を見せてほしい。
そうすれば、この痛みも少しは和らぐはずなのに。
そんな願いさえ、いまは届かない。




