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13 怒りと赦しの狭間で

 夜の帳が仄かに降りた野営地。

 セヴレインの騎士たちは、交代で見張りに立っていた。

 月明かりを受けた木の葉が、静かに揺れている。


 ルートヴィンは、あてがわれたテントの片隅で、ひとりうずくまっていた。

 縛られた手を膝の上に置いたまま、虚ろな目で見つめている。


 微かな物音が外から響いた瞬間、空気がぴんと張り詰めた。

 帳の隙間から、ひとつの影が忍び込む。

 殺気が、夜の闇に溶けるようにじわじわと満ちていく。


「なるほどな……もう用済み、というわけか」

 乾いた笑みが、ルートヴィンの唇に浮かぶ。

「叔父上……まさか、ここまでするとは思いませんでしたよ……」

 しかし、目の前の死の気配に対して、素直に己の命を差し出す気はなかった。

 縛られた両手で、手近な棒を掴む。それは折れた荷車の取っ手。武器とも呼べない、古びた木片。

 狭いテントの中、一歩下がる。すぐに背が厚い布に触れた。退路はない。

「……大公に伝えろ。地獄の底からでも、お前を破滅させてやると」

 精一杯の強がりにも、黒い影は無言のまま刃を振り上げる。その動きは淀みなく、まるで夜そのものが襲いかかってくるようだった。


 ルートヴィンはとっさに棒を振るった。乾いた衝突音。刃が木を裂き、そのまま彼の肩に食い込む。

 それでも腕は止めなかった。

 喉元を狙って、なおもう一度。たとえ届かなくても、何かを示すように。

 木の先が何かにめり込む感触がして、男は倒れ込んだ。

 暗がりのなかでも見える、血の鮮やかさ。


 やったか……?

 ルートヴィンの膝が、重く、沈むように地面へと崩れた。

「敵襲――!!」

 騎士たちの怒声が、遠くから響く。

 張りつめていたものが切れ、激痛が一気に襲いかかる。手から力が抜け、棒切れが音も立てずに転がった。

 終わった――と錯覚した、その一瞬。

 闇に潜んでいた、もうひとつの影が牙を剥いた。


 背後で、布が裂ける鋭い音。

 振り向く暇さえなく、背に焼けるような痛みが走った。

 息が詰まり、視界が傾く。

 ……まだ、いたのか……!


 地へと倒れ込む。

 裂けた帳の間から、夜空が見えた。

 こぼれた月の光が顔へと降る。

 それは金色ににじみ、その周囲に広がる青紫の空が、妙にあの王女の瞳の色を思い出させた。


 ――なぜ今、そんなことを……?


 思考が遠のく。

 後悔か、安堵か。自分でもわからない感情が胸に渦を巻く。

 そのまま、闇がルートヴィンの意識を包み込んでいった。



 騎士たちが、剣を抜きながら駆け込む。

 隊長が鋭く叫んだ。

「防衛を固めろ! 生きている者を探せ!」

 松明の火が、激しく揺れる。倒れた騎士の屍を超えて、彼らは闇の中を駆け抜けた。

 エリオットたちが捕らえた黒衣の男たちは、すでに何者かの刃に倒れ伏していた。

 すべてが終わったかのような、静けさ。

 けれど、その中にひとりだけ……まだ息づく影があった。

「隊長! まだ、生きている者が……!」

 その声に、騎士たちが駆け寄る。

 血に塗れたルートヴィンが、かろうじて目を開けた。その瞳に映るのは、騎士たちの甲冑の光。

 声にならない息。潰れそうな喉から絞り出すように。

「アヴァランデの……姫に……伝えてくれ……」

 吐息のような言葉。

 その唇は、最後の一言を告げるように震え、静かに閉じられた。


 夜風が葉を揺らす。

 遠い星々が、ただ彼らを見つめていた。




 セヴレインの朝は、絹のようにやわらかだった。

 王太子夫妻の朝食室。開け放たれた窓から、風がふわりと流れ込む。白いレースを通して差し込む朝陽が、小さな円卓を包み込んでいた。


 白いクロスの上には、みずみずしい果実の艶と、焼きたてのパンの香り。陽を淡く弾き返すカップに、紅茶の湯気が立ちのぼる。

 レオナールの向かいに並んで座ったマリエルとミレイナ。ふたりの間にあるのは、手を伸ばせばすぐに届くような、ささやかな距離。


 ミレイナの朗らかな声が、その空気に溶け込むように響いた。

「晴れてよかったわ。今日は、あなたに王立庭園を案内したかったの。とっておきの景色があるのよ」

「ありがとう、お姉さま……とても楽しみだわ」

 マリエルは微笑みを返す。その気持ちに嘘はない。けれど、目元に浮かぶ昨夜の名残は隠せなかった。


 レオナールがカップを手に取り、問いかける。

「ところで、あなたの護衛騎士……デヴェレルと言ったかな。あの者の容態は?」

 マリエルは、少しだけ言葉を選ぶようにして答えた。

「……治療に専念させるために、アヴァランデに帰しました。回復には少し、時間がかかるかと……」

 言葉の奥ににじむ想いを感じ取ったかのように、ミレイナはマリエルを見つめる。


 誰かが扉を叩いた。乾いた音が、静けさを破る。

 入ってきたのは、セヴレイン騎士団のひとり。礼儀正しい動作の奥に、はっきりと緊張の色が浮かんでいる。

 レオナールは一瞬だけ眉を寄せ、でもすぐに落ち着いた声で促す。

「何かあったか?」

 騎士は、短く頷き、一礼してから話し始めた。

「ご報告申し上げます。先日捕らえた襲撃者たちを護送中、部隊が何者かに襲撃されました」

「……襲撃?」

 レオナールが低く問い返す。その声の温度は、温かだったはずの朝の空気を冷やした。

 マリエルは何も言わない。紅茶の湯気に目を向けたまま、身じろぎひとつせずに聞き入っている。


「襲撃者たちは全員死亡いたしました。ですが、ロイエンフェルト公爵だけは、まだ息があるとのことです」

 その名が告げられた瞬間、マリエルの肩がわずかに揺れる。

 心の奥が、鈍い音を立ててひび割れていくようだった。痛みはすぐにはこない。ただ、ひたひたと胸を塞いでいく。

 レオナールが眉をひそめたまま目を細め、低く呻くように言った。

「……意図的な口封じだな。問題は、それを命じたのが誰かということだが……」

 張り詰めた空気の中、それに答えるように、騎士が口を開く。

「混乱の中でしたので、断定はできませんが……」

 騎士は、少し迷うように視線を落として続ける。

「……護送にあたっていた者によれば、公爵は意識を失う前に“すべて大公が仕組んだ”と言っていたようです」

 誰もが息をのんで騎士を見た。

 けれど、マリエルは動かない。まるで時間が止まったかのように。

 首を振ることも、顔を上げることもせず、ただ虚空を見つめていた。

 ミレイナの手がそっと重ねられる。

 その小さな温もりが、マリエルを現実へ引き戻した。

「……容体は?」

 かすれた声だった。けれど、不思議とその声はしっかりと通る。

「現在は昏睡状態にあり、予断を許さないとのことですが……お会いになりますか?」

 マリエルは、小さく首を振る。

「いいえ……いいえ、結構です」

 その手は、言葉とともにわずかに震えていた。

「マリエル……」

 ミレイナは、マリエルの冷えた手を温めるかのように力を込め、胸の奥にこみ上げる想いをゆっくりと吐き出すように言った。

「なんてひどいことを……どんな事情があったとしても、人の命はこんなふうに……」

「――踏みにじられていいものでは、ありません」

 マリエルの言葉が、それを継ぐように重なる。

 青白い横顔に、朝陽が触れる。それでも、彼女の瞳には陰が落ちていた。




 翌日。


 カタン、カタン。

 車輪が刻む音が、まるで鼓動のよう規則正しく響いていた。窓の外、セヴレインの景色が淡く色を失いながら、ゆるやかに遠ざかっていく。


 マリエルは、手袋をしたままの手を重ねて膝の上に置いた。その指先は、震えを隠すように、きつく握られている。


 ――すべては大公が仕組んだ。


 ルートヴィンから直接聞いたわけではない。

 それでも、耳の奥で繰り返し囁くその声は、どうしても彼のものに思えてならなかった。


 どんな理由があったとしても。

 どれほどの想いがそこにあったとしても。

 命を、捨て石のように扱うやり方は、決して許されてはならない。


 あの日、身を挺して守ってくれたエリオット。

 彼とともに傷ついた、アヴァランデの騎士たち。

 そして、たとえ敵であったとしても――ルートヴィンや、名も知らぬ黒衣の男たちの命までも。


 皆、たった一度きりの生を、生きてきた。

 それを、黙らせるためだけに切り捨てようとしたというのなら。

 その命令を下したのが、あの夜会で、何食わぬ顔でルートヴィンを差し出してきた大公だったというのなら。

 彼を、利用するだけの存在として見ていたのなら。

 ……どうして、あの人を許せるだろうか。


 許せるはずが、なかった。

 それでも胸の奥で疼くのは、哀しみとも怒りともつかない、言葉にできない何かだった。


 だからなのか、ルートヴィンのことは心から憎みきれない気がした。

 彼があの言葉を残したのは、意識の狭間で洩れた悔いだったのか。それとも、彼なりの正義だったのか。

 今となっては、確かめる術もない。

 けれど、ひとつだけは確かだった。

 あのとき、彼は“真実”をマリエルに託そうとしていたということ。


 マリエルは、まぶたをゆっくりと伏せた。

 ――どうか、生きて。

 そしていつの日か、あなたが自身の罪と向き合えるときが訪れますように。


 マリエルは祈る。

 その胸のうちに、感謝とも、怒りともつかない感情を抱きながら。

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