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12 失うことを選んで

 マリエルは、セヴレインの王宮を歩いていた。

 傾きかけた陽が、廊下の白銀色の大理石を照らす。

 その光のなか、マリエルの影が後ろに細く長く伸びていた。まるで、彼女の背とともに、心ごと引きずるように。


 きらめく石の色は、彼の髪を思わせる。

 あの、光をまとうような銀。柔らかく、静かに揺れる――でも今はもう……そばにはいない。

 その事実が、胸の奥を締めつけていく。


 彼は無事に着いただろうか。

 エリオットは、セヴレインまで護衛すると言っていた。けれど、あの怪我では、これ以上無理はさせられない。

 それに、自分の気持ちが、彼とともにいてはいけないと告げていた。

 だから、療養を口実にアヴァランデに戻らせた。

 それは、自分の決断。

 ……そのはずなのに。彼のことが、頭から離れない。

 彼がそばにいないことをこんなにも心細く、そして寂しいと思ってしまうなんて。


 半歩後ろを振り返ってみる。

 いつも彼がいるはずの場所。

 そこにはただ、長く伸びた影が、黙ってついてくるだけだった。

 

 歓迎の式典はすでに終わり、王女としての立場からいったん解かれたマリエルは、ミレイナの私室へと案内された。

 そこは、広間でも応接間でもなく、姉妹だけがゆったりと語らうにふさわしい、陽だまりのような空間。

 王太子妃であるミレイナが、姉として久しぶりに会う妹を迎えるには、ちょうどよい部屋だった。


 ミレイナは扉を開けたとたん、言葉も待たずに妹を抱きしめる。

「マリエル……無事でほんとうによかった……」

 儀礼の場で、王太子妃として笑顔で言った言葉を――もういちど、今度は姉として。その声は少しだけ震えていて、でも、とても温かくて。

「お姉さま……」

 マリエルも、懐かしい香りに包まれながら、そっと抱きしめ返した。

 ここでは王女の顔をしなくていい。泣くつもりはなかったのに、瞳にはじわりと涙がにじんでくる。

 昔と立場は違っても、姉は姉のまま。その変わらぬあたたかさに、胸の奥がほどけていくようだった。

 ミレイナはゆっくりと体を離し、マリエルの顔を見つめると、やさしく微笑む。


「疲れたでしょう。お茶の用意ができてるの。座って」

 促されて歩き出しかけたマリエルは「そうだわ」と立ち止まる。

「お姉さま、ご出産おめでとう。さっきは堅苦しい挨拶しかできなかったから、ちゃんと言い直したくて」

「ふふ、ありがとう。式典のときは立派な王女さまだったけど……やっぱりいつものマリエルね。でもね、いまこうして笑ってるあなたのほうが好きだわ」

 ふたりの口元に笑みが浮かぶ。

 ほんのひとときでも、責任も過去の出来事も忘れさせてくれる、やさしい時間。

「それに、あなた、お母さまにますます似てきたわ。とくに目元とか、ふとしたときの笑い方とか」

「ほんとう……?」

 ここに来ることは、母の意志を継ぐことでもある。そう言われると、ほんの少しでも近づけた気がして嬉しかった。

「エメリーヌは今、寝ているの。起きたら連れてくるよう言ってあるわ。相変わらず、テオドールも彼女に付きっきりなのよ。きっと今も、寝顔をながめてるでしょうね」

 姉の頬がほころぶ。愛らしい兄妹の姿を思い浮かべたのだろう。

 その笑顔につられるように、マリエルの口元にも、自然と笑みが浮かぶ。


「……でも、マリエル」

 ミレイナは、マリエルの顔をのぞき込む。

「やっぱり疲れて見えるわ。無理してない?」

 マリエルは少し笑ってから、視線をおとした。

「無理はしていないわ。でも……いろいろと考えることがあって」

「それは、今回の事件のこと?」

「それもあるけれど……でも、もうひとつ。お姉さまに少し相談してもいい?」

 ミレイナは目を細め、うなずく。

「もちろんよ。聞かせて」

 姉のやさしい声に背中を押されて、マリエルは口を開く。

「……わたし、大切な人がいるの。でも、このままそばにいてはいけない気がして」

 ぽつりと落とした言葉に、ミレイナは驚くでもなく、ただマリエルの手をふわりと包み込んでくれる。

「きっと、立場があるのね。あなたにも、その人にも」

 マリエルは小さくうなずく。

「彼は、その立場があるから、わたしを守ろうとしてくれるの……それは、ずっと昔から。そして、きっとこれからも……でも、それだけで彼を縛っておくのは酷だと思った。それに、彼はわたしのそばにいると傷ついてしまう。だから……もう、解放してあげたいの」

 そうしたら、きっと、知らない誰かにやさしく微笑んで。そして、彼が幸せに生きてくれるなら……

 喉の奥が詰まるようで、声がわずかに震える。唇を、そっと引き結んだ。

「でも……すごくつらいの。それに寂しくて……こんなに苦しくなるなんて思わなかった。もう、決めたつもりだったのに……結局、わたしは自分のことしか考えていないんだって……」

 ミレイナはマリエルの瞳を見つめる。

「そのひとって、もしかして……」

 言いかけて、首を横に振る。

 ……まさか、あのときの男の子――

 それ以上は口にせず、ミレイナはやさしく微笑み、ゆっくりと続けた。


「わたし……結婚してしばらく、子どもができなかったでしょう? 実は、側室の話も出ていたの。政略結婚なのに、役に立たないって――そんな空気もあって」

 マリエルは黙って耳を傾けた。静かな姉の声は、でも、どこか遠い記憶の底をなぞるようで、言葉の一つ一つが胸に残る。

「とても苦しかった。国同士の関係にひびが入るのも怖かったけど……でもそれ以上に、自分ではない誰かが彼の隣に並ぶと思うだけで、胸が張り裂けそうだったの」

「知らなかった……それで、お姉さまは……どうやって気持ちに折り合いをつけたの?」

「そうね……王太子と結婚するって、そういうことなんだって思った。自分の気持ちよりも、国や家のために動く。それが、王女としての、そして王太子妃としての宿命だって。そう思って、受け入れたわ」

 ミレイナは、何かを思い出すような、遠くを見つめるような目をする。

「でもね、レオナールが側室の話を断ってくれたの。最初は政略結婚だったけれど、彼がわたしを理解しようとしてくれた……そして、わたしも逃げなかった。それが、いまのわたしたちを作ってくれたのかもしれないわね」

 マリエルは、姉の言葉を受け止めるように頷く。

 けれど、それでも心の中の揺れは、まだ静まってくれなかった。

「……わたしの場合は、少し違うの。彼は政略なんて、関係のない人。だからこそ、わたしといることで、彼の自由を……ずっと守ってきた大切なものまで、奪ってしまうんしゃないかって、怖くて……」


 そのとき、控えめに扉を叩く音がする。続いて入ってきたのは、エメリーヌの乳母だった。

「妃殿下、王女さまがお目覚めになりました。王子さまはお休みになられたので、お部屋にお連れしております」

「そう、ありがとう。さあ、おいで。エメリーヌ」

 ミレイナが娘を抱き上げ、マリエルに見せる。

 小さな王女は、マリエルに向かって何か話しかけるように唇を動かしながら、小さな手を伸ばした。姉に似てぱっちりとした大きな目が、まっすぐに彼女を見つめる。

「かわいい……! はじめまして、エメリーヌ」

 マリエルも彼女に手を伸ばすと、きゅっとその指をつかまれる。その柔らかくて少しくすぐったい感触に、思わず顔がほころんだ。

 ミレイナは、そんなふたりを見つめながら言う。

「……この子がね、私を見て笑ってくれるの。それだけで、苦しかった日々も、決断してきたことも、すべて意味があったと思えるのよ」

「意味……?」

「そう。わたしたちは、時に何かを手放す決断をしなければならないときもある。たとえ何かを手放したとしても、その先で誰かが幸せになれるなら、それもまた、意味のあることだと……そう思うの」

 それは、誰かのために痛みを抱いた気持ちへ、やさしく寄り添うような声音。

 ミレイナの言葉に、マリエルのまぶたが少しだけ揺れる。

「誰かの未来を守ってあげたい、信じたいと思うからこそ、そうできるときもある。そして、それがあなたの想いのかたちなら、きっと間違ってなんかないと思うわ」

 マリエルは姉を見つめる。目が合うと、姉は柔らかく微笑む。

 それは、ただマリエルの気持ちを肯定するような、あたたかさがあった。マリエルの瞳に、涙がひとつ浮かぶ。


 好きだった。

 守られていることが、うれしかった。

 でも、今度はわたしが、彼を守りたい。


「……ありがとう、お姉さま」

 目を伏せて、こぼれそうな雫をまばたきでごまかす。

「ちゃんと、向き合ってみる。自分の気持ちにも、彼の未来にも……」


 部屋に戻ったマリエルは、夜の静けさのなか、ひとり窓辺に立った。

 夜風に揺れる薄いカーテンの向こうで、遠くの星が瞬いているのが見える。

 そんな美しい窓辺に腰掛け、彼の姿を思い浮かべる。彼の手のぬくもりや、やさしく向けられる瞳がよみがえった。


「ずっと……そばにいたかった。できるなら、ずっと」

 小さな声は宵闇に溶けていく。

 けれど、それは……叶うことのない願い。

 涙がこぼれる寸前で、マリエルは深く息を吸い込んだ。姉の言葉が胸に浮かぶ。


 ――誰かの未来を守ってあげたい、信じたいと思うからこそ、そうできるときもある。


 そうだ。これは逃げじゃない。

 わたしが選ぶ、わたしだけの想いのかたち。

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