11 騎士という鎖
……ご無事か。
ぶれた世界の中で、彼女の姿だけがあり得ないほど鮮明に映る。その安堵が、かえって全身の力を奪いかけた。
息苦しさに耐えかね、エリオットは乱暴に胸元をかき払う。
乱れた布の奥で、金の鎖が肌に冷たく貼りついていた。ふだんは人目に触れないそれが、今だけは晒され、霧の中鈍く輝く。
そこへ、割り込むように一筋の鋭い光が走る。
次の瞬間、それは狙い澄ましたような速さで、マリエルめがけて放たれた。
「殿下!」
意識よりも先に体が動いていた。
もう尽きたはずの力が、ただひとつの目的のために沸き返る。
エリオットは、マリエルの前に身を滑り込ませた。矢は彼の肩を貫き、そのまま馬車の外板に深く突き刺さった。
「エリオット!」
崩れ落ちる体を受け止めるように、マリエルの手が伸びる。
震える声で、必死に名を呼ぶ。
「……また、貴様か」
霧を割って、ゆっくりと木陰からひとりの男が現れた。一歩一歩、足を引きずるように。
口元に貼りついた笑みは、もはや怒りとも憎しみともつかない、狂気の影を孕んでいた。
「犬の分際で……」
その低い呟きは、誰よりも自分自身に向けられた嘲笑のようだった。
どこにも、行き場などない。
ならばせめて、最後の一手だけはこの手で。
たとえ俺のすべてが無意味でも……あの姫だけは、この手で終わらせる。
ルートヴィンは、濁った目をマリエルに向ける。
「姫……あなたは、知らなくて済む側の人間なんでしょうね」
すべて崩れた今も、男はなお彼女を見ている。血の気の引いた顔に浮かんでいたのは、哀れという言葉さえ追いつかないほどの執着。
「誰にも必要とされないことが、どんなに虚しいかなんて……」
そのつぶやきは、誰に向けた言葉なのかさえ曖昧だった。
「……結局、俺はただの捨て駒だった」
狂気の笑みとともに、剣を抜く。そこには、すでに誰かの血が濃くこびりついていた。
「どうせ終わるなら……道連れにするだけだ」
ルートヴィンの剣が容赦なく振り下ろされる。エリオットはそれをかろうじて受け止めた。
「……殿下っ……! どうか、お下がりください……!」
マリエルは、その震える声と腕に、彼の限界が迫っていることを悟った。
「だめ……もうやめて!」
駆け寄ろうとするマリエルを、アニスが抱きつくように引き止める。
「姫さま! いけません!」
「でも! エリオットが……!」
「姫さまがここで傷ついたら……皆さんの命がけの戦いが、全部、全部……意味をなくしてしまいます……!」
言葉に詰まる。
アニスの細い腕が、マリエルを後ろへと必死に引き戻す。彼から視線だけは逸らせないまま、マリエルは引きずられるように、後ろへと下がった。目の前で傷だらけの彼が立ち向かう姿に、ただ、手をこまねいていることしかできない。
怖くて、悔しくて……けれどそれ以上に、何もできない自分が、どうしようもなく惨めだった。
「エリオット!」
だから、せめて叫ぶ。彼の名を。
エリオットは、視線を男から逸らさぬまま言う。
掠れて、震えた声で。
「必ず……お守りします。この命にかえても……」
その声に、胸の奥がせつなく揺らぐ。
彼の言葉、どこかで――
次の瞬間、彼の姿が、どうしようもなくあの春の景色と重なった。
長く閉ざされていた記憶が、風に押されるようにゆっくりと開いていく。
風に揺れる、青紫の花。
白い服に滲む血。
肩で息をしながら彼女を庇うように立ちはだかった、ひとりの背中。
あの日。
あの少年が、助けてくれた。
まっすぐに彼女だけを見つめ、言った。
「お守りします。この命にかえても」と。
――あの日と、同じ言葉。
「……そう、だったのね」
……あなただったの。
気づけば、ひとつの雫が頬を伝っていた。
目の前で剣がぶつかり合う音が、再び現実へと引き戻す。
ルートヴィンの剣が、何度も何度も振り下ろされる。そのたび、エリオットはぎりぎりでそれを受け止めていた。
「おやおや、騎士さま。もう終わりか?」
歪んだ笑みを浮かべながら、ルートヴィンが剣を振った。いつものエリオットなら、とっくに封じていたはず。
それでも彼は、守ってくれている。
本当は、今すぐ駆け寄って止めたい。すがりつきたい。
でも、彼を信じると決めたから。
悔しさも、悲しさも、何もかも――いまはこの涙に閉じ込めて。
マリエルは胸元で手を握りしめ、願うようにエリオットを見つめる。
けれど、その祈りが彼に届くよりも早く。
重い一撃がルートヴィンから放たれる。エリオットの反応が、一瞬遅れた。
剣先が彼の胸元を裂く。刃はペンダントの鎖を断った。金色の楕円は宙を舞い、乾いた音を立て、地に落ちる。
衝撃で開いたふたの中で、乾いた青紫の花びらが微かに風に揺れた。
「は? なんだこれ」
ルートヴィンがそれを一瞥し、無造作に足を上げる。男の足元から鳴ったかちり、という音は、エリオットの胸の奥で何かを切った。
「……お前だけは、許さない」
低く絞り出すような声。剣を握る手が、かすかに震える。
歪んだ顔で笑う男の足元。そこに転がる、なにものにも代え難い記憶。
胸が焼けるほど熱い。
その怒りは静かに、でも確かに彼を突き上げた。防ぐだけで精一杯だった腕に、力をとり戻す。
風を裂き、ルートヴィンが斬りかかってくる。
エリオットは相手の剣をすくうように逸らすと、すかさず踏み込み剣を振り抜いた。
ひときわ高く響く金属音。
ルートヴィンの剣が跳ね、苔むした石畳の上に転がった。
純白の騎士服に紅がにじむ。エリオットの呼吸は荒く、傷口の痛みが腕を鈍らせる。
それでも、膝をついた男の胸ぐらをつかみ、エリオットは地へと押さえつける。
「これ以上、殿下を……穢させはしない」
――風の音が戻ってきた。
喧騒が去った場に、ただ、荒くかすれた呼吸だけが残る。
ボロボロの体を引きずるように、騎士たちがようやく駆けつけた。そのままルートヴィンに組みつき、力任せにねじ伏せる。
男はもはや声を上げることもできず、ぐったりと地に伏したまま動かない。
それを見届けるように、エリオットは膝をつく。
騒然とする中、エリオットを支えようとする騎士たち。それを手で制すると、かすむ視界のなか足元へと目を落とす。
割れた石畳、その隙間の泥の中に、微かに光る金色が見えた。
それは、切れた金の鎖。
その先に、彼の大切なものが転がっていた。
手を伸ばし、拾い上げる。掌に包まれた楕円の中、青紫が揺れる。
風にさらされ色褪せても、その記憶は、彼の中でひとときも枯れたことがなかった。
かつての春。
まだ若かった彼に、未来をくれた少女がいた。
その少女から贈られた、一輪の花。
今もなお、彼を支え続けているもの。
そっと、唇を寄せる。
目の奥に、隠しきれないほどの愛しさがにじむ。
まるで、そこに宿る想いを確かめるように。
誰にも明かすことなく、その心をしまい込むように。
ただ、それだけのことだった。
けれどマリエルの目には、その姿が、言葉にならぬほどに美しく、そして切なく映った。
あのペンダントが、彼にとって特別な誰かのもの――彼を見てしまった今、もう否定などできない。
あたたかな陽の光のように、その仕草には、彼女の知らなかった彼の心が溢れていた。
目の奥の、隠し切れないほどの愛しさ。言葉にされぬまま大切に抱かれてきた、誰かへの想い。
声をかけることすらためらわれ、ただ彼を見つめることしかできなかった。
けれど、その美しい一瞬は突然終わりを告げた。彼のからだがぐらりと傾き、マリエルは息をのむ。
「エリオット!」
駆け寄り、彼を支える。彼女の白い手袋に、じわりとにじんでいく赤。
エリオットは、主人をその目で認めると、苦しげな息の下から言葉を紡ぐ。
「……殿下、よかった……ご無事で」
マリエルは涙をこらえる。でも、声が震えるのは止められなかった。
「……わたしよりも自分の心配をして! こんな無茶をするなんて……!」
エリオットは目を細めて、力なく笑う。
「殿下さえご無事なら、それだけで……私はあなたの騎士ですから」
それは、小さな声だった。けれど、たしかに胸の奥に届く。まるでそれだけを伝えるために彼は戦ったのだと、そう思わせるほどに。
「エリオット……」
ありがとう――そう紡ごうとした言葉を彼の声が遮る。
「……それこそが、護衛騎士たる私の務めです。いつ、いかなるときでも」
その言葉が放つ鋭い痛みは、マリエルの胸を裂く。
「……そう、よね」
ぽつりと呟き、微笑んだその瞳には、言いようのない寂しさが宿っていた。
彼にとって、これは騎士としての義務。
きっと、誰にでもそうするのだろう。
……わたしではなくても。
「……そういうこと、なのね」
その響きは、まるですべてを受け入れたかのような、切なさに満ちて。
マリエルは、確かにエリオットを見ている。
なのに、そのまなざしの奥が遠く、彼の知らない場所を見ているようで……エリオットの胸に、かすかなざわめきが走った。
マリエルはそっと目を閉じ、ぽつりとこぼす。
「ありがとう……」
その声は、波紋のように彼の内側へと広がっていく。
「……ずっと、そばにいてくれて……」
まるで別れを告げるような、そのささやき。
たまらなく不安になって、エリオットは彼女を呼ぶ。
「殿下……?」
ゆっくりとマリエルのまぶたが開かれる。
エリオットは、その瞳を追いかけるように見つめて――
目が合った瞬間、あの春の日が蘇る。
花の中で、真っ直ぐに彼女を見つめていた、あの少年のまなざしを。
心が震えて、涙があふれそうになる。
彼の手を握りしめ、マリエルはそっと首を振った。
「……お願い。もう、何も言わないで……体に障るわ」
手袋越しにも伝わる、彼の冷え切った手。それが彼女の中に、ひとつの決意を灯す。
もう、彼をこんなふうに傷つけるわけにはいかないと。
あの日、彼が誓った言葉がいまも彼を縛っているのなら。
その鎖を断ち切るのは、自分の役目だと。
彼が本当に守りたい誰かのために、生きていけるように。
それが、たとえ自分でなかったとしても……彼には未来があってほしい。
傷つくばかりの運命なんて、もう背負わせたくないから。




