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10 その場所は、誰のものでもなく

 地図を這う指が、ある一点で止まる。

 淡く色付けられた丘陵の曲線は、昔見たあの地の姿と、今も変わらない。


「……ここは、あのときの……」

 大公の口から呟きが漏れる。視線は地図を越えて、記憶の中へと沈んでいく。


 霧の中、茫漠と広がる丘陵地帯。草に覆われたその丘の向こうに、かつて自軍が布陣していた戦地。


 停戦交渉がまとまりつつあるという報が届いたのは、黄昏時だった。

 王の撤兵命令は、すぐに書面一枚で軍議の卓上に置かれた。

「明朝までに後退せよ。和平の気運を損なうな」――そう記されていた。


 矢に射抜かれた息子の仇も取れぬまま。


 誰の気運だ。

 誰の命を代償にした和平だ。


 だが、王命に逆らえば、自分が“国を乱す者”になる。


 「退け」と言ったのは、この私だった。

 そして、兵たちは従った。


 翌朝、未明。空がわずかに青みを帯び始めた頃だった。

 まだ伝令が届いていなかったのか、それとも先走った者の判断か。

 陣形を解いて移動中だった左翼の一団が、まっすぐに矢に撃ち抜かれた。


 兵たちが叫んだ。

「なぜだ」と。

 あの声が、そして息子の目が、今でも眠りの底から引きずり戻す。


 王は言った。「これは外交的勝利だ」と。

 笑うしかなかった。

 ……幻想だ。

 あの男の平和などというものは、ただの自己満足にすぎない。


 見ておくがいい、あの“中立地帯”とやらを。

 兵士の血で塗られた土地を。

 息子の命で築かれた、虚ろな幻想の証を。


 ――今日、新たな争いの地に還る地を。




 薄暗い森の縁。

 崩れかけた石柱に肘をつきながら、ルートヴィンは沈黙の谷を睨みつけていた。

 ……何かがおかしい。

 木々の影に紛れて、黒衣の男たちが無秩序に立ち尽くしている。

 それはまるで、獲物を待つ獣の群れ。

「話が違う……」

 低く、しかし怒気を帯びた声が、冷えた風に混ざって消える。

「王女だけを狙うよう言ったはずだ。あんなあからさまな罠……しかもあいつらは何だ! 目立ちすぎる!」

 彼は振り返り、男たちをにらみつけた。

「あの者たちを引き返させろ! 今すぐ!」

 そばに立つ黒衣の男が、表情を変えないまま口を開いた。

「我らに判断は不要。このまま継続します」

 ルートヴィンは目を見開く。

「……何だと?」

「我らは、大公殿下のご指示のみに従います」

 その言葉が、突き刺さった。

「叔父上の……?」

 喉が鳴る。耳の奥で何かが壊れる音がした。


 違う。そんなはずが。

 ……ならば、なぜあの男たちは命令どおりに動かない。

 私が指揮しているはずの作戦なのに。

 

 ふと、男が持つ一本の弓に目が留まる。

 刻まれているのは、見慣れた細工――それは自分の名を象徴する紋章。まるで、自分の矢が、自分を撃とうとしているかのように。

 ルートヴィンは、一歩後ずさる。

 信じていた地面が、崩れていく感覚。


 視線の先には、遠く、森の向こうに、ゆるやかに揺れる馬車の列。

 そして、それにじわじわ迫っていく男たち。

 自分の手足が勝手に動き出したようだった。

 その先にあるのは、自分の終わりだけだと、分かった。

「……はは、そういうことか。私は……ただの駒だったわけだ」

 ――ならば、せめて。

 ルートヴィンの手が、そっと腰の刃に伸びた。

 静かに、ためらいもなく。


 風が、誰かの外套をさらりと揺らす。

 そして、刃は男の背に、音もなく沈んだ。




 窓の向こう、霧がゆっくりと立ちのぼっていた。

 崩れかけ、苔むした修道院の残骸が、森の緑に埋もれるように横たわっている。

 風の中に、音もなく飲み込まれていくように。


 ここは、イーグレン回廊。

 アヴァランデ、セヴレイン、ベルカナス――三国の国境沿いを縫うように走る、細長く静かな街道。

 その名は、かつてこの地を治めた王家に由来する。もう、その名を継ぐ者もいなくなって久しい。

 そして、ここは三国が血を流し続けた戦場。今は、協定により、いかなる軍の駐留も禁じられた中立の地。

 誰のものでもない、ただ、風と霧とが支配する地。

 けれど、ここに刻まれた記憶は、消えることがない。

 戦火に焼かれた丘が続き、木々の合間には、風化した墓標が点々と並ぶ。誰のものとも知れぬ、名もなき石。それでも人々は足を止め、祈る。あまりに多くの命が、ここで失われたからだ。

 もう春も終わりだというのに、空は重く曇り、馬車の進む道も朝の霧に沈んでいた。風が通るたび、葉擦れの音が遠くに滲む。


 マリエルは外を見つめた。心の奥が、少しずつ冷気に侵されていくようだった。霧のせいだろうか。それとも、もっと別の、形のない何かが、そっと忍び寄ってきているのか。

 アドリアンの言葉がよみがえる。

「平穏な旅にはならないかもしれない」と。

 馬車の中でこうして座っていると、言葉の意味がじわじわと肌に沁みてくる。

 視線を巡らせると、すぐそばを進む騎馬団の中に、エリオットの姿が見える。その横顔にも、いつもと違う張りつめた気配があった。

 不意に、前方を進んでいた騎士が手を挙げた。馬車がぎしりと音を立てて止まる。

 エリオットがすぐに馬を下り、前へと駆けていく。数言かわす声が微かに聞こえてくる。でも、何を話しているのかまではわからない。ふたりの顔には、はっきりとした緊張が浮かんでいた。

 思わず身を乗り出しかけたマリエルのもとへ、エリオットが戻ってくる。

「殿下。この先の様子を確かめてまいります」

 落ち着いた声。それでも、声の奥に潜む緊張は隠せない。

 マリエルは、彼の瞳をまっすぐに見返した。彼にかけるべき言葉を探す。でも、どれも違う気がした。

「……気をつけて」

 ようやく絞り出した声に、エリオットが一瞬、まなざしを和らげた。けれど笑わなかった。言葉も返さなかった。ただ、静かに一礼して、踵を返す。

 背を向けた彼が再び馬にまたがり、数名の騎士とともに橋へと向かっていく。

 マリエルは窓に手をかけたまま、その背を見つめた。


 静けさが、残された一行を包み込む。

 誰もが口を閉ざし、耳を澄ませているような、そんな張りつめた空気が漂っていた。

 橋の中央付近、エリオットが馬を下り、石の継ぎ目をしゃがんで確かめているのが見える。ほどなく立ち上がると、騎士のひとりと短く言葉を交わし、険しい顔でマリエルの馬車へ引き返してくる。

 エリオットはあたりを見回し、細く扉を開けた。

「殿下、この橋に細工が施されている恐れがあります」

 低く抑えた声の裏に、見え隠れする焦り。冷静さの中にも緊張がにじんでいた。

「……ですが、細工は粗く、目立ちすぎています。わざと見せているのかもしれません」

 マリエルは口を開いた。けれど声は、喉の奥でかすれて止まる。

 エリオットは、橋を見つめた。

「……渡ります。可能な限り警戒して」

 マリエルが小さく頷いた、そのときだった。

 

 霧が揺れ、空気が微かに裂ける。エリオットは考えるよりも先に、馬車の扉を閉めた。

「っ……!」

 右腕を掠める、鋭い痛みに顔をしかめる。振り返れば、地に突き刺さる矢。

「エリオット!」

 マリエルの悲鳴まじりの声が聞こえる。

「ご安心を。かすり傷です」

 主を安心させるよう微笑み、わずかに赤くにじむ白い騎士服の袖を押さえた。掠っただけのはずの傷口が、じんと熱を帯び、皮膚の奥が焼けるように疼く。

 ……毒か。

 エリオットは知識を巡らせる。

 この感覚……東方の蛇毒に似ている。この程度なら命は奪わない。

 だが、時間がない――そのうち体は動かなくなる。


 また一本の矢が霧を裂いた。

 それを皮切りに、空は静けさを失う。次の矢、さらにその次が、絶え間なく降り注ぐ。木に突き刺さり、石畳を穿ち、あたりに鋭い音をばらまいていく。

 エリオットは舌打ちすると声を張った。

「まずはここを凌ぐ! 殿下の御身の安全を最優先せよ!」

 すぐさま他の騎士たちが盾を構え、マリエルの馬車を囲む。

 従者たちも、押し寄せる矢音に悲鳴を上げ、馬車や木の陰に隠れた。肩を押さえて呆然と立ち尽くす者もいる。その顔は、痛みよりも恐怖に染まっていた。

 アニスは、震える手でマリエルの袖を握りしめる。今にも泣き出しそうな目が、ただ「怖い」と訴えていた。

「矢を抜け! どこのだ!」

「紋章が混ざってる! これは……ロイエンフェルトの!」

「見えない、森に散ってる、囲まれているぞ!」

「殺すな。死人を出せば、こちらが罪を問われる!」

 木立に響き渡る、騎士たちの怒声。馬のいななき。誰かの短い悲鳴。

 マリエルは身をかがめ、隣のアニスを抱き寄せた。

 ――本当に、来た。

 覚悟はしていた。

 それでも、命が狙われるという現実は、想像とはまるで違う。

 扉の外で何が起きているのかはわからない。

 矢が飛ぶ音。盾に当たる音。地に落ちる音。見えない分だけ、一つひとつが心臓を射抜く。

 体が震える。喉が焼ける。息が吸えない。肺の奥に、何か重いものが沈むような錯覚。

 耳鳴りの向こうで、心臓の鼓動がやけに大きい。生きている実感と恐怖が、ひとつに絡みつく。


 ただ、閉ざされた扉の向こう。

 そこに、彼がいる――そう思えるだけで、崩れそうな心に輪郭を与えてくれた。


 一瞬か、永遠かわからなかった。

 突然矢の雨が止まる。すべての音が息をひそめた。まるで、次に訪れる嵐のための呼吸を整えているかのように。

 凍りついたような静寂の中、木立の奥で黒い影がわずかに揺れた。

 ひとつ、ふたつ。

 地面に染み出すように人影が現れ、馬車へと歩み寄ってくる。その足取りには、ためらいはなかった。

 騎士たちにどよめきが広がる。誰もが傷を負い、もはや動けぬ者も多かった。


 男たちはもう、隠れようともしない。

 視線が、正面から王女の馬車を貫く。

 マントの陰から抜かれた刃が、うずくまる騎士の肩口へと振り下ろされた。


 にじむ視界の中、馬車が映る。

 その一瞬だけ、世界の輪郭が戻った。


 あの刃が、彼女に届く前に。


 エリオットは剣を握り、柄をわずかに傾ける。

 血に滲む掌が、震えていたとしても。

 彼女を帰す――それだけで、足は動いた。

 腕に絡みつく痺れを、振り払うように。


「……殿下には、誰ひとり触れさせない」

 低く、短く、つぶやく。


 腕をかばいながらも、エリオットの剣の峰は寸分の迷いもなく敵の側頭部を打つ。男は、うめき声をひとつ残して崩れ落ちた。

「剣を下ろせ。ここは戦場ではない」

 倒れた男の前に立つエリオット。誰ひとり言葉を発せぬまま、その背を見つめていた。

 沈黙のなか、誰かの喉が鳴る。騎士たちの視線がひとつに重なった。


 ――まだ、終わっていない。


 膝をついたまま、血に濡れた剣に手を伸ばす騎士がいた。

 それを合図のように、よろめきながらも次々と地を押す。

 ひとり、またひとり。

 足元がふらついても、誰も剣を手放さなかった。


 最後の黒衣が地に沈む。

 けれど、アヴァランデの騎士たちに、誰ひとりとして歓声を上げる者はいない。

 疲労と痛み、そして体を蝕む毒の痺れに抗しきれず、次々と騎士たちが膝をついていく。握られた剣は微かに震え、視線はどこか宙を彷徨っていた。

 血と鉄の匂いが、その場を覆う。誰もがそれを吸い込んで、なお、剣を握っていた。


 その光景に、マリエルの体が震える。

 目の前で、人が自分のために命を懸けて戦う――そんな現実に、初めて触れた。

 怖い、と思った瞬間、喉の奥に冷たいものが張りつく。でも、目を逸らせば、その痛みはなかったことになってしまう。

 誰かが自分のために血を流した、事実までも。

 それは、あまりに彼らに失礼だ。王女である以前に、一人の人間として。

 目を背けずに、見届けなければならない。

 マリエルは、馬車の扉にそっと手をかけた。

 足が重い。けれど確かに地に触れていく。一段ずつ、呼吸を整えながら。

 視界に入ったのは、肩で息をするエリオットの姿。

 その場に立っているのが不思議なほど。

 それでもなお、彼は、剣を握っている。

 一歩、駆け出しそうになった足を、マリエルは強く押しとどめる。

 今は王女。

 感情のままに動くことは、許されない。

 深く息を吸って、視線を外す。

 まず、しなければならないことがある。

 マリエルは手を少しだけ握りしめた。

 すべてを見届けなければ……それがわたしに課された務め。

 その衝動を、飲みこむように。


 騎士たちの顔をひとりずつ見渡す。血に濡れ、苦痛に顔を歪めながらも、剣を手放さぬ者たち。

 その肩にそっと手を添え、視線を交わした。

 自分にできることは、ほんの少しだけかもしれない。

 けれど、それでも。

「動ける方は、負傷者の手当をお願いします……!」

 声は、震えながらも広がっていった。

 その声に、木陰や荷馬車の陰にいた人々がようやく顔を上げた。恐る恐る歩み出し、傷を抱えた騎士の傍らにしゃがみこむ従者もいる。

 アニスもまた、顔をこわばらせて包帯を誰かの腕に巻いていた。

 誰もが怯えながら、なおも歩み出していた。

 命をつなぐために。

「敵は全員拘束されました。重症者はいましたが、幸いこちらにも死者は出ておりません……これは、奇跡としか言えません」

 従者が持ってきた知らせ。その言葉は、まるで遠くから聞こえてくるようだった。

 生きている。この場に、まだ皆が生きている。マリエルは思わず目を閉じた。

「不意を突かれたものの、敵の連携が甘かったようで……こちらに有利な地形だったのも幸いしました」

 どれほど、彼らが踏みとどまってくれたのか。その重さを思うと胸が締め付けられる。

「皆さん、よく……生きていてくれました」

 マリエルの視線は騎士たちに向かう。

 彼らは勝ったのではない――ただ、生き残った。

 その背に刻まれた深い傷と、泥と血の匂いが、“奇跡”の代償を物語っていた。

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