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prologue 思い出せないあのひと

ご覧いただきありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけますように。

 もう、どれくらい走っただろう。


 激しく上下する心臓は、しきりに限界を訴えかけてくる。でも、今は走り続けるしかない。


「きゃっ……!」

 何かにつまづいた。

 彼女の身体は、咲き乱れる青紫の花の中へと、なす術なく投げ出される。

 立ちあがろうとしても、とうに力を失った足は言うことを聞いてくれない。

 焦りとともに、後ろを振り返る。

 けたたましい声とともに迫りくる、牙をむく野犬。彼女を見据える、血走った獣の目。


 ああ、こんなところに来なければ……

 恐怖か、苦しさか。

 それとも、後悔か。

 押し寄せる感情が、彼女の瞳から涙を落とさせる。

 にじむ視界には、今にも飛びかかろうとする野犬の姿が。

「ごめんなさい、お姉さま……」

 誰にも届かない謝罪を口にして、彼女はぎゅっと目を閉じ、来るであろう衝撃を覚悟する。


 でも、それは来なかった。

 風を切る音。金属が何かを打つ音。獣の声。

 草を荒々しく踏む音が近づいては、遠ざかる。

 誰かが、戦っている……?

 何時間にも思えた、何秒かののち。

 おそるおそる目を開ければ、そこには肩で息をするひとりの少年。その背後には、逃げていく野犬。

「お怪我はありませんか?」

 剣を握るその手が、小さく震えていたのを覚えている。

 

 ふたたび目を開ければ、そこは見慣れた自分の部屋。

 目の前には、心配そうに見つめる父と兄、泣き腫らした顔の姉。

「もう! 心配したのよ!」

 怒りながら、姉は優しく彼女を抱きしめる。

 あたたかくてやわらかなその感触にほっとして、彼女はわんわんと泣いた。

 泣いて、泣いて、涙が尽きたころ。彼女は顔を上げた。

「……あのひとは?」

「え?」と、姉が首をかしげる。

「わたしを助けてくれた、あのひと。怪我してたから、ちゃんと手当てしてあげたいの」

「助けてくれた……?」

 父も兄も、顔を見合わせる。父が口を開いた。

「ああ、近くにいた衛兵が駆けつけたそうだが……」

「衛兵じゃないわ。男の子で……」


 そこで彼女の言葉はとまる。

 目を閉じれば、確かに思い出せる。

 剣の音。震える手。まっすぐな声。

 そして手の甲に残る、やわらかな感触。

 それは、とてもあたたかくて、胸の奥がじんとするようで……とても大切なことだとわかるのに。

 でも、その顔だけが、どうしても思い出せない。


「……思い出せないの。顔も、名前も」

 一瞬顔を曇らせた父は、それでも彼女を安心させるように言う。

「熱のせいで混乱しているのだろう。もう、気にしないほうがいい」

 彼女は大きく首を横に振る。

「いいえ、絶対にいたの。本当なの……!」

 夢の中で、何度も聞こえた。


 ――お守りします。この命にかえても……


 その声と、風に揺れる青紫のブルーベルが、何度も夢に現れた。

「本当よ、本当にいたの……!」

 彼女は必死に訴えかける。

「マリエル。大丈夫だから、落ち着いて。また熱が上がってしまうわ」

 やがて、姉がそっと彼女の髪を撫でた。

「あなたを助けてくれたひとなんでしょう? あなたにとって大切なひとなら……きっと、また会えるわ」

「だから、今はゆっくり休んで」そう言って姉は彼女のからだをそっと横たえる。

 枕もとの花瓶には、一本のブルーベル。萎れかけていたけれど、それでも美しく咲いている。


 姉の優しい手を感じて、彼女は重いまぶたを閉じた。

 だんだんと暗くなって、静かな眠りに落ちる。


 あなたは、誰なの?


 そう思いながら。

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