プロローグ 桃塚 由浩
「こないだの鮫津山の大学生六人行方不明事件、あれの生き残りって犬巻くんでしょ?」
今は政治家の横領かなんかで、ニュースに全然上がんなくなってきたけど、と。
桃塚と名乗ったその男は俺に逃げられると思ったのか、肩を組んだまま体重をぐっとこちらにかけながらそう言った。
その言い方はどこか笑っているようにも聞こえて、一気に不快感が押し寄せてくる。
「……そんなこと、この食堂どころか大学にいる全員が知ってることでしょ。探偵気取りで言うと恥かきますよ、センパイ」
「別に探偵とかじゃないよ俺」
「じゃあ冷やかしですか」
「ねえ悩みとかある?」
「え、急に?」
ひとつも意味がわからないと顔を顰めると、桃塚はちょっと待ってね、と自分のポケットに手を突っ込んでごそごそと何かを探し始めた。
同時に、殆どのしかかるようにして組まれていた肩が離れていったので、一気に体が軽くなる。
しめた、逃げるなら今しかない。
普通なら絶対にやらないし気が引けるが、食べ終えたうどんの器をその場に残したまま、走り出した。
──つもりが、シャツの首根っこをぐっと掴まれて、着ていたシャツの襟が破れた。
背が高い分、手も長いのか。
平均平凡な身長の自分とはリーチに差があるようだ。
「これ」
逃げ出そうとしたことを咎められるかと身構えたが、乱暴な引き戻し方とは対照的に俺の意思には興味がないらしい。
何事もなかったように、スマホの画面をこちらに見せた。
メモアプリらしき画面には、何やら文字が打ち込まれている。
『素うどんじゃ空腹は治らんやろ』
「……どういう意味ですか。てか、Tシャツ弁償してくださいよ」
精一杯睨みつけたつもりだったのだが、何とも思っていないらしい。口角を上げたまま、桃塚は再びスマホに文字を打ち込み始める。
そうして再びこちらに向けられた文字は、楽しげな表情とは対照的なものだった。
『お前もう人間じゃなくなってるよ』
楽しげに弧を描いていた唇が「か、わ、い、そ」と、わざとらしく動いた。
病院で目を覚ました時からずっと、腹が減って仕方がない。
何人前の飯を食おうが、一日に何食口にしようが満たされることのない食欲。
腹の中はとうに一杯になっているはずなのに、満たされない空腹。
何を食べても頭に浮かぶ言葉はひとつ。
──食べ物が食べたい。
その欲求に従って確かに「食べ物」を口にしている筈なのに、脳はこれを「食べ物ではない」と否定してくる。
どんな「食べ物」を見たところで、脳はそれを「食べ物」だと認識せず、おもちゃや粘土を食べているような感覚になっても尚、ひたすら空腹を満たすために口に詰め込み続けた。
そんな中でただ一つ、脳が食べ物だと認識するものがある。
あえて言語にしない事でずっと気付かないふりをしていたが、第三者から言われてしまうと、途端に自覚してしまった。
──俺はきっと、人間を、食べたがっている。
人間を、食べ物だと認識している。
人間に避けられているにもかかわらず、わざわざ学食で食事をとったのも、恐らく金だけが原因ではない。
有名な落語にある、鰻屋の前で白米を食うことに近しい理由だったのかもしれない。
「犬巻くん」
声をかけられて、意識を戻される。
顔を上げると、桃塚は再び唇に弧を描いて、サングラスの奥の瞳を細めた。
「俺が犬巻くんを人間に戻してあげよう」