再会
◆
床に薄く降り積もった冷たい絨毯を踏みしめる。空虚な道をまっすぐに進み続けると、鼻先に温かい空気が触れた。試練が終わろうとしているのだ。彼女が目を覚まし、起き上がる。身が引き剥がされると、今まで全く感じなかった冷気が襲ってきて、体がぶるぶると震えた。
四角い縁取りに三角のアーチがついた通路の出口が見えてくる。あそこを越えれば次の館が待っている。しかしどこまで行くのだろうか。彼女は俺をどこへ導こうとしているのか。嫌な予感がしてならない。俺は何故、地上を彷徨っていたのだ。思い出せない。
今の俺は戦士ですらない。俺は何者なんだ。
■
銀の助けのおかげで試練を乗り越えることができた。一人では今頃、冥界の住民になっていただろう。
後ろからついてくる銀を振り返って、その姿を見つめる。つぶらな瞳は鋭いけれど愛嬌たっぷり。鼻の両側はふっくらと盛り上がり、細かく柔らかそうなヒゲが生えている。その下には鋭い牙が見え隠れして、絶対的な強者であることを誇示している。小さくとも彼は間違いなく戦士。戦いを糧として生きる者。尻尾の先が焼け焦げて、美しい毛並みがむしり取られてしまったかのように痛々しい。私を助ける為に負った傷だ。
こんなにも怖ろしい場所にいるのに、不思議と心は平静を保っている。きっと銀が一緒だからだ。彼が私を導いてくれる。私はそう信じる。
とにかく進まなくては。今更引き返しても、もう暗闇の試練を越えることはできない。マッチ箱は失くしてしまった。あったとしても、もう一度彼の尻尾に火をつけるなんてまっぴらごめんだ。
しばらくすると、またアーチが見えてきた。その先にある少し開けた空間から獣の匂いが漂ってくる。銀とは違う、もっと獰猛さを帯びた香り。それは次の試練の到来を意味していた。
ジャガーの館。部屋に足を踏み入れると、強烈な視線が一斉に私を射抜いた。思わず数歩後退ると、銀が私の前に出てくる。ジャガーたちが銀と私を見比べるように首を微かに動かすと、語り掛けるような鳴き声を発した。銀もそれに答えを返しているようだ。
銀の声は弱々しく、今にも消え入りそうだった。それに対してジャガーたちの声は押し付けるような傲慢さを帯びていて、嘲弄しているような響きすらあった。
私は鞭を構えて銀を庇うように足を踏み出した。鞭を振ると、空気が唸る。床を打つと、鋭い音が室内にこだました。数匹のジャガーが飛び退いたが、怖れている風ではなく、威嚇するように牙を剥く。巨大なジャガーたちは私の体など爪のひと薙ぎで薄布同然に引き裂けそうだった。盛り上がった分厚い筋肉が、くすんだ黄金に斑模様が刻まれた毛皮の下で躍動し、四肢に力が込められる。
一触即発といった雰囲気の中、取り囲むジャガーたちよりも、更に大柄なジャガーが群れの奥から現れた。群れの長と思えるそのジャガーがひと吠えすると、他のジャガーたちは部屋の両側に下がった。長も私たちに道を開ける。先に進め、と言うように。
訳が分からぬまま、急いで危険なジャガーの館を通り抜けようとしたが、銀はすっかり足を止めてしまっていた。私はここが銀の居場所なのかもしれない、と思った。しかし、そのしょげた表情を見ると、ここに置いていくなんて、とてもじゃないができなかった。
抱き上げるとずっしりと重い。銀は驚いたように私の顔をじっと覗き込んだ。両手がすっかり塞がってしまって、今ジャガーたちに襲われたらひとたまりもなかったろうが、彼らはそうはしなかった。私を先に進ませようとしている。
望むところだ。進んでやるとも。きっと父が待っている。父と銀を連れて冥界から脱出してやる。
◆
悪趣味な奴らだ。俺は憤慨していた。
奴らは言った。俺は翡翠を呼ぶ為に地上へと遣わされた。けれど地上の空気にあてられて、かつての記憶が混濁してしまったのだろう、と。
地下に戻りはっきりと思い出した。俺は戦士だった。だが戦士としては死ねなかった。宇宙樹の木陰にある楽園へ行くことができるのは、神官、贄、お産で死んだ女、首を吊って死んだ者、そして戦死者。戦士として俺は戦場で死なねばならなかった。だが俺の戦場は奪われた。侵略者によって。俺は戦う前に負けていた。楽園への道は永久に閉ざされた。行くべき場所は冥界だけ。そこに住まう十二の王たちに従うしかなかった。人としての姿も失い、囚われる他なかったのだ。
王たちは残酷だ。翡翠に彼女の父親の死体を見せつけようとしているのだ。そうすることで死者を辱め、生者をいたぶり、どす黒い喜びを得ようとしている。彼女は俺を抱え、足早に進んでいく。行ってはダメだと忠告してやりたいが、俺の言葉は彼女には通じない。それに引き返すことができないのも事実。前にしか道は残されていない。
俺は彼女が羨ましかった。彼女は贄になれる。だが俺はどうだ。戦いは失われ、この体ではまともに首に縄を回すことすらできやしない。神官の代役を務め、彼女を贄として捧げれば、俺もまた救われるものと信じていた。天上から垂れ落ちた太い縄が俺の首に掛かり、吊り下がることができるものと。だがこれが死の女神の導きではなく、冥界の王たちの手招きだとすれば、無為な願いに過ぎなかったということだ。
暗い大空間に辿り着いた。瓦礫が散乱し、物陰から無数の息遣いが聞こえてくる。うず高く積み上がった瓦礫はまるで祭壇のようにも見えた。その山の傍に何かが吊り下げられている。彼女は俺を床にそっと下ろして、それが何か確かめようと目を凝らした。
ぼうっ、と闇に浮かんだ四本の棒が力なく地を示す。その先端から赤い雫が滴って、規則的なリズムで床を叩く。真っ赤な水溜まりの中央には、もはや骸骨と化している血濡れの頭。それには彼女が被っているのと同じ帽子が、固まった血でへばりついている。
暗闇をつんざく悲鳴が上がった。慟哭にも似た叫び。彼女の悲しみが痛いぐらい伝わってきた。首のない死体を見上げ、呆然としている。死体は脇に下に通された蔓で天井から吊るされている。ここは冥界の球技場。死の蝙蝠の縄張り。残忍極まりない蝙蝠たちの主は、冥界の王たちの為、死者で球技場を彩るのだ。