画用紙はまだ白い
最上慎一が初めて彼を目にした時、それが山下豊であると直感的に悟った。
慎一は今年度から三城中学校に転勤してきた教師である。転勤直後から二年の担任を任された慎一は始業式の今日、担当クラスである二年四組の前に立ち、生徒たちの登校を待っていた。
集合時刻二十分前にもなると少しずつ生徒が学校に到着しだした。慎一は教室に入る生徒一人一人に大きな声で挨拶をする。生徒たちも元気に挨拶を返したり、軽く会釈をして応える。緊張しているのか、人と話すのが苦手なのか、慎一の声を完全に無視して足早に教室に入っていく生徒も数人いた。
集合時刻十分前、一人の生徒が登校してきた。勿論、慎一は挨拶をした。その生徒は一度慎一の前で足を止め、慎一の目をじっと見つめて、「おはようございます。」と呟いた。普通人間というものは、言葉を発する時、何かしらの感情が無意識に声に乗るものである。新学期最初の挨拶ともなれば、これからの新生活に対する期待や、緊張などは感じとりやすい。しかし、その生徒からはそのようなものが一切感じ取れなかった。
慎一は彼の名前が、山下豊であることを悟った。豊は今年度からこの中学校に親の仕事の都合で転校してきた生徒である。慎一は転校前に豊の母親から、普通の人には当たり前に存在している「あるもの」が豊にはないということを聞いていた。だから、豊が挨拶をした時、慎一は豊のことを直ぐに認識できたのである。
山下豊には、いわゆる「感情」というものが、生まれた時から存在していなかった。
「君が、山下豊君かな。僕も今年からこの学校に転勤してきたものだから、分からないことが多い。一緒にこの学校について知っていこうな。」
と慎一は豊の挨拶に続けた。豊はそれに対し、またも何の気持ちも感じられない口調で「はい。」と一言発した後、教室の中に入っていった。
慎一は今年で四十歳になる。感情がないという生徒に対し、自分が教師としてできることを全うしようと意気込んでいた。
集合時刻八時半丁度、チャイムが学校中に響き、今年度が始まることを告げた。
慎一は教室に入り、ドアをガラガラと閉めた後、教壇に上り、新しいクラスのメンバーたちに軽く自己紹介をした。
「こんにちは、皆さん。僕は今日からこのクラスの担任をすることになった最上慎一です。去年までは違う学校にいたので誰も僕のことは知らないと思いますが、精一杯このクラスの一年間を充実したものにしようと思うのでよろしくお願いします。今からすぐに、始業式が始まるので、廊下にこの席順、出席番号順に並んでください。皆さんが僕のことを知らないように僕も皆さんのことを知らないので、始業式が終わり次第、皆さん自己紹介をしてもらいます。何を話すか少し考えておいてください。じゃあ、並んで。」
その声を合図にクラス内はいきなり騒がしくなり、クラスメイトたちが各々教室の外に出た。グダグダになりながらも約一分後、出席番号順に並び終えると、他のクラスに続いて体育館へ向かって歩き出した。
始業式といってもこれといって特別な事をする訳ではない。校長の言葉、クラスの担当の発表、一学期の生活指導や、表彰など、ただ淡々と三十分ほど続くだけである。
始業式を終えた生徒たちは三年生から順に退出していく。早く出たいと文句を言う下級生に対し、静かにするように注意をする担当教師。よく見られる光景である。
二年四組が全員教室内に戻ると、宣言通り自己紹介が行われることとなった。クラスの人数は全部で三十六、男女比も丁度半々である。青木から順々に、名前や趣味などを一人三十秒から一分ほど語って言った。慎一も生徒が名前を言う度、覚えようとするが、勿論一発で覚えられるはずもなく、十人が過ぎた頃には、ただ何も考えず聞いているだけだった。
出席番号三十三番、山下豊の番がやってきた。豊は静かにサッと立ち上がると椅子を机に戻し、こう語り出した。
「山下豊です。この学校には今年から転校してきました。」
二秒ほど間が空き、また話し始める。
「この一年間でトラブルになったりすることがないように、この自己紹介で言っておきますが、自分には感情というものがありません。」
教室内が少しざわつく。豊は気にせずに続けた。
「楽しさ、悲しさ、怒り、好き、嫌い、これらだけではなく全ての感情、言葉は知っているのですが、それがどんなものなのか全く検討もつきません。信じてもらわなくても結構ですが、どこか頭の片隅にでも置いておいてくれると助かります。前の学校では話し方が冷たいとよく言われましたが、仕方ないのです。感情がないから。逆に暖かい話し方というものが分からないのです。皆さんには迷惑をかけるかもしれないですが、そこのところ分かっておいて貰えると助かります。取り敢えず一年間、よろしくお願いします。」
豊は礼をすることもなく椅子を引き、自席に座った。クラスメイトは先程までとは打って変わり、バラついた拍手をした。困惑している様子が教室内に漂うが、それも豊には伝わっていないのだろう。
続いて出席番号三十四番の自己紹介が始まるが、クラスメイトたちは先程の豊の印象が強く頭に残り、それ以降の話をしっかりと聞けていなかった。
全員の自己紹介が終わり、慎一はクラスの前の席に座っていた四人を指名し、一緒に新学年の教科書を取りに行く為に教室外に連れ出した。慎一が教室の外に出たかと思うと、クラスの約半数の人が豊の周りに集まってきた。
「感情ないってどういうこと?」
「今まで楽しかったことないの?」
「人に怒ったことは?」
「どんな感じなの?」
口々に豊に向かって質問を繰り広げたが、質問の数が溜まっていくばかりで豊は答えようとしない。豊が質問に答えないことを疑問に思ったのか周りのクラスメイトは質問止めると、やっと豊が口を開いた。
「そんなに沢山一度に質問されても分からない。」
クラスメイトの一人が答える。
「そ、そうだよね。みんな聞きたいことがあるのは分かるけど順番にやろう。私から聞くね。本当に感情はないの?」
そこから幾つか身のない質問と回答が続いた。
「うん、さっきも言ったように全くといってない。」
「生まれた時から?」
「うん。」
「今まで人にイラついたこととかないの?」
「ない。」
「泣いたことも?」
「感情はないけど、感覚はある、痛みで自然と涙が出てきたことは普通にある。悲しみとかで泣くことがないだけ。」
クラスメイトは次々と質問していたのに、返答が毎度質素だったからなのか、徐々に質問の勢いは減っていき、ほぼ誰も話しかけなくなった。
その時、慎一とクラスメイト四人が教科書が入ったダンボールを持って帰ってきた。
「はーい、教科書持ってきたから座れー。今から教室の前に並べるから、出席番号順に取っていけー。」
クラスメイトたちが次々に教科書を取っていく。その後は、軽い連絡をして、始業式は終わりを迎えた。
慎一は二十時過ぎに帰宅し、風呂を軽く済まして、自室のベッドに寝転がった。テレビの電源を入れ、ただボーッと見ていた。隣の県で起きた通り魔が逃走を続けているというような物騒な事件を淡々とニュースレポーターが話している。ニュースレポーターの話し方も極力客観的になりやすいよう、感情を入れないように読んではいるが、それでもやはり豊とは全然違っている。
慎一はニュースを横目に、豊について考えていた。感情がないということはどういうことなのか、今まで傍からみたら酷いことも沢山あっただろうが今まで苦しいと感じたことはなかったのか、感情を取り戻す方法はないのか、様々な事が浮かぶが、浮かんだ疑問は全て一向に解決する気配はなかった。まずは、豊のことを知るべく、極力コミュニケーションをするようにしようということだけ決意して、考えることを止め、慎一は早めの眠りに就いた。
次の日、学校では当たり前のように通常授業が始まった。昨日とは打って変わり、休み時間に豊に積極的に話しかける人はほぼ居なくなっていた。休み時間は一人で何をする訳でもなくただ一点を見つめて座っていた。そのような光景をクラスメイトは不審がっていた。
昼休みの時間、慎一は教室に行き、相変わらず一人で席に座っている豊の横でしゃがんだ。豊は丁度昼ごはんを食べ終えたところだった。
「どうだ、学校の生活には少し慣れたか?前の学校とそんなに大きく変わるところはないか?」
慎一が語りかけ、豊は水筒の水を一口飲んだあと、質問に答えた。
「まあ、転校しても先は結局中学なので、大きく変わるところはないですね。けど前の学校では昼ご飯は席で班を組んでグループで食べてたのですが、この学校では自由っていう違いはあります。どうせグループを作ったとしても話さないので、こっちの制度でも何も変わらないですけど。」
「そうか、まだ覚えてないこともあると思うからこれから色々覚えていこうな。」
「…はい。」
慎一は豊の肩を一回叩き、教室の後ろのドアを出ていった。
それからも基本的に豊は一人で過ごし、クラスメイトからの業務連絡などは、簡潔な返答で済ますという学校生活が三日ほど続いた。
しかし、始業式の日から四日後の昼休み、クラスメイトの一人が、豊に攻撃的なコミュニケーションを図った。豊がいつも通り、コンビニで購入したパンを独りで静かに食べていた時、二日前に決定した学級代表が豊に話しかけた。
「今日の放課後席替えをしようと思うんだけど、視力が悪くて前の席がいいとかの要望ある?」
「ない。」
やはり豊は簡潔に返答し、昼食の残りを頬張った。
その時、豊の近くで昼食を食べていた男子四人グループのうち一人である坂上がいきなり席を立ち上がり、足早で豊の席の前へ向かって怒ったような口調でこう言い放った。
「おい、お前、その態度どうにかしろよ。橋口がわざわざ聞きに来てくれてんだぞ。なんだよ、その質素な返事は。今日だけじゃない、この三、四日間話しかけてくれた人全員をテキトーあしらって、何様なんだよ、お前は。感情ないアピールですか?なんなんだよ、その訳の分からないイキり方。もう周りの皆、冷めてんだよ。本当に感情ないのか?今まで生きてきて、一度も怒ったことないのか?笑ったことないのか?そんな人間いないだろ、植物人間じゃあるまいし。なんか答えろよ。」
橋口とは、先程豊に話しかけた学級代表のことである。橋口は「まあまあ。」と坂上を落ち着かせようとしている。豊は持っていたパンを机の上に置き、坂上の目を一直線に見ながらこう返した。
「…うん。今まで一度も怒ったこともないし、笑ったこともない。植物人間っていう呼び方も粗方間違いじゃないかもしれない。なぜこの世界に感情がない人間がいないと言いきれる?あなたの目の前にいるじゃないか。いないとあなたが言い切れるのは、自分がそれを当たり前のように持っているから、持っていないことを考えられないからでしょう。あなたたちからしたらそれは当たり前のことで、持っていないことは異常だと考えていると思うが、僕からしたら全くの逆だ。感情があるという状態が想像できない。むしろ、あなたたちの方が異常なのではないのか?」
豊からすれば、坂上の質問に対し、わかりわすいように普通に返したつもりだったのだろうが、坂上からするとその口調や態度は、更に怒りを高めるものであった。坂上は豊の胸ぐらを掴み、豊を強制的に立ち上がらせ、みぞおちの辺りを一発殴った。
「なあ、痛いだろ、腹たっただろ?やり返してこいよ、なあ。」
坂上は叫んだ。その後豊は、外国人が全く意味を知らずに日本の文章を音読しているかのような口調で、「ああ、やり返していいんだ。」と言葉をもらし、坂上の左頬を右手で殴り返した。全くの無表情で。坂上は後ろに倒れたが直ぐに立ち上がり、「あー!」となにやら叫びながら豊を殴り返そうとした。しかし、その時クラスの男子たちが二人をそれぞれ後ろから掴み、動けないよう拘束した。教室のドア付近にいた、女子三名が足早に教室を去った。恐らく教師を呼びに行ったのだろう。
坂上は「離せ。離せ。」と叫びながら暴れていた。打って変わって豊は、ただ何も発することなく、棒立ちであった。
この時、クラスの大半が本当に山下豊という人物には感情が備わっていないのだと悟った。豊が放った「ああ、やり返していいんだ。」という一言、普通なら怒っているということが相手の顔や動きを見なくても、声の調子で分かる。人間プラスの感情よりマイナスの感情の方が大きく、より声に乗りやすくなるものだ。しかし、豊のその口調からは、感情というものが一切感じ取れなかったのである。
女子三人が教室を飛び出してから約一分後、一人の教師を連れて戻ってきた。教師は暴れている坂上に近づき、背中を摩りながら「一旦落ち着こう、一旦落ち着こう。」と語り掛けていた。
更に一分後、慎一が教室に小走りでやってきた。その頃には坂上も大分と正気を取り戻していた。慎一は先に来ていた教師に早口で、「すいません、ここ任せてもいいですか?僕は山下と少し話をします。」と言った後、豊の右手を掴み「ちょっと行こうか。」と言って、返事を待たず、半ば強制的に教室の外へ連れ出した。
慎一は豊を人がいない空いている教室に連れていった。二人は机をくっ付け、向かい合う形で座った。
慎一が先に口を開く。
「とりあえず、何があったか聞かせてくれるか?」
豊は極力簡潔に先程の状況を話した。自分を保護するようなことは一つも言わず、ただ起きた状況を的確に伝えた。
それに対し、慎一は三秒ほど考えてるような仕草を見せたあと、ゆっくり話し出した。
「なるほどな、そんなことがあったのか。普通だったらここで人を殴ったことを叱るだろうが、今はしない。それは感情がないから贔屓をしているとかではない。それよりも聞きたいことがあるからだ。俺たちはまだ出会って四日ほどしか経っていないから、俺はお前のことを何も知らない。俺はお前のことをもっと詳しくしりたい。もし話したくないなら、そう言ってくれ。深入りはしない。だが、もし話してくれるというのなら山下、お前の今までの人生を俺に教えてくれないか。前、山下の母親から話は聞いているが、あくまで断片的なものでほとんど知らないようなものだからな。」
豊は全く表情を変えることなく、慎一の言葉に応答した。
「話したい、話したくないとかそんなことすらも僕の中にはないんですよ。でもまあ、僕のことをこんなに聞きたがる人は今まであまりいなかったですね。僕が皆のことを何とも思わないように、周りも僕に興味がないから。僕の今までについて聞きたいんですね?分かりました。……僕の母親に話を聞いたと言いますが、そもそもそれは母親ではないです。僕は捨てられたんです、実の母親に。今一緒に暮らしている人は僕のことを養子として迎え入れてくれた里親です。まあ、僕にとってはあの二人が実の両親みたいなものですがね。実の両親は顔すら知らないですから。生まれて二年ほどで親に捨てられ、孤児院で一年ほど過ごしたそうです。そのあと引き取られました。今の両親は、僕を養子として受け入れる二年前に、重い障害をもった息子を三歳で亡くしているんです。その息子に通ずるところが僕にはあったようで、引き取ってもらえることになったそうです。僕に感情がないと自身で実感したのは小学校の一年か、二年生のときのことでした。算数は得意でした。それに通じて、今でも数学は得意です。与えられた問題に対して、ただその答えを導けばいいだけですから。でも、どうしても国語という教科が駄目でした。何も分からない、共感も想像も出来ないのです。あなたは、国語の教師ですから国語は得意でしょう。だから、僕の言っていることは分からないかもしれないですが、そこはご了承ください。感情がないことを知ったとしても何ら生活が変わることはありませんでした。変えようとしても何も変わらないですから。そんなこんなで小学生活を終え、中学に入りました。引越しの理由、親の転勤と言っていますが、実はいじめなんですよね。まあ僕自身、殴られたりはしましたが、中学生の絡みはこんなもんなんだなと勝手に思っていたので、いじめだとは考えていませんでした。親が体のあざに気づいて教師を追窮し、いじめが発覚したわけです。親は、念の為と言って転校することを薦めました。断る理由もないのでこの学校に転校してきたというわけです。ところで、親に同じ様にまた殴られたり、虐められたりしたら報告するように言われているのですが、今回の件はいじめに該当するのでしょうか?」
この話を慎一は「うんうん」と相槌を打ちながら、真剣に聞いていた。
「今回のは、山下も、殴り返してるわけだからな、一般的な処理としては、いじめというより喧嘩ということになるな。まあでも、これからもこんな事が続くようならそれはいじめになるかもしれないから、遠慮なく先生や親に相談するんだぞ。」
「はい。」
豊は頷く。
「それにしても、こんな人生を歩んできたんだな。今まで十年以上この仕事をやっている訳だが、本当に色々な生徒がいるな。これまでも、こんな言葉をお前に言ってきた人は山ほどいるかもしれないが、俺は、お前の力になりたい。どうだ、今週末、明後日の土曜日だな、先生とドライブにでも行かないか?普通は教師と生徒が休日などに遊びに行ったりするのは駄目なんだが、山下には人との繋がりが大切だと思うんだ。余計なお世話かもしれんがな。今まで両親以外の人とろくにコミュニケーションを取っていないんだろう?それじゃあ、出る感情も出ないだろう。例えがこれで合っているかは分からんが、リフティングが苦手な人がリフティングする事から逃げていたら絶対に上手くなることはないだろう?まあ、山下からしたら『逃げている』という感覚はないかもしれないが。」
「ドライブですか……。ドライブって車の中で話すんですよね?本当にあなたが言う通り、僕は親以外の人と話すことに慣れてないです。今だって、親以外とこんなに話したのは久しぶりです。なので、途中で言葉に詰まったり、上手く話せなくなるかもしれないですが、それでもいいのなら行きましょう。親も何かに挑戦してみることは大切だと言っていましたから。」
「よし、それじゃあ決まりだな。とりあえず一旦、教室に戻るか、もう昼休みも終わるし。坂上には謝れるか?確かに仕掛けてきたのは向こうだが、山下も殴っているわけだからな。」
「…………。」
豊は答えない。
「どうした?」
「謝るべきなのでしょうか?それは相手をより傷つけることにはなりませんか?」
「どういうことだ?」
「僕には、先程の件でいわゆる反省や申し訳なさ?というものがないのです。謝罪というものは申し訳ないと思っているからこそできるものであって、感情がない僕が言ったところで、それは中身のないただの文字の羅列と化します。それでも、謝罪はするべきなのでしょうか?」
慎一は少し考えたあと、慎重に答えた。
「謝罪も一種の挨拶だ。俺が『おはよう』と言うと、お前が『おはよう』と返すように、お互いの謝罪、これで一種の仲直りと言う工程が終了する。もし相手が先に謝罪の言葉を述べてきたならそれに応えるべきだな。例え言葉に心が乗っていなかったとしても。」
「そういうものですか。」
二人は教室に戻って行った。その間、二人の間に会話はなかった。
教室に戻り、豊が席に座ると直ぐに、坂上が豊の前に来て、謝罪の言葉を述べた。
「本当に申し訳なかった。ごめん。感情がないっていう人に今まで出会った経験がなくて、勝手にそういう人はいないって決めつけてた。きっと感情がないなんてめちゃくちゃ大変だよな。山下がどんな状態かなんて俺じゃ多分いくら想像しようとしても駄目だけど、きっと大変だと思うから、もし困ったことがあったら俺に言ってくれたら嬉しい。極力助けるから。こんなこと言っても上辺の言葉にしか聞こえないかもしれないけど、本当に悪かったと思ってる。ごめん。」
豊も謝られたので、それに応えようとしたが、謝罪の言葉を伝える前にまた坂上が口を開いた。
「ああ、山下は謝らなくてもいいよ。今回の件は俺が確実に悪いし、そもそも謝罪の感情もないんでしょ?それなのに、無理する必要は無い。俺はこれから仲良くしてくれるだけで十分だから。」
坂上はニコッと笑い、少し照れながら自分の席に戻って行った。
このやり取りを聞いていた慎一は無性に先程の自分の発言に嫌気がさした。思っていなくとも謝罪はした方がいいというのはあくまでも客観的に「普通」という枠に当てはめた場合である。中学生というのはあくまでもまだ子供。良い意味でも、悪い意味でもこの「普通」という枠には囚われない。慎一は自分に嫌気がさすと同時に、この中学生の自由奔放な感覚を心底羨ましいと思った。
それから二日後の土曜日、慎一は自家用車に乗り、豊の家の前で止まった。すでに豊は家の前で待っていた。
「今日はよろしくお願いします。」
豊が軽く礼をする。慎一は運転席から一度降り、助手席の扉を外から開き、「どうぞ。」と言った。
豊もそれに便乗するよう、軽く会釈をして助手席に静かに乗った。慎一は助手席の扉を閉めたあと、再び運転席に腰掛ける。
「よし、行くか。」
その慎一の合図と共に車は発進した。窓を少し開けると、涼しい風が入ってきて絶妙に気持ちが良い。
車は、軽く揺れながら二人を三十分ほど乗せていた。その三十分間、二人は様々な会話を交わした。今まで呼ばれたことのあるあだ名や、行ったことのある旅行先など慎一が何か質問をして、豊が簡単に答えるというものがほとんどであったが、一つの話題が終われば慎一がまた別の質問をしたので、会話が途絶えるということはほとんどなかった。時折、豊も思い出したかのように慎一に質問することもあった。慎一はその質問に対しては、内心嬉しく思いつつ、真面目にしっかりと返答していった。
しかし、その間、豊が笑顔を見せることは一度もなかった。愛想笑いすらもないことは、分かっていたが慎一にとってはやはり寂しいものであった。
質問することも減ってきたのか、慎一が豊に質問をせず、五秒ほど車の中で沈黙が走ったとき、豊が口を開いた。
「ねえ、先生。こうやって三十分くらい色々なことを話しながらドライブをしているわけですけど、楽しいですか?今。」
「……ん?」
慎一にとって全く予想もしていなかった質問なので、一瞬戸惑った。
「いや、先生は感情があるので。普通感情があるなら生活を送っていて、楽しい方が良いと聞きます。でも、僕には感情がない。人の楽しませ方というものが分からない。当たり前のことです、自分が楽しんだことすらもないのですから。僕の返答は冷たいと色々な人に言われます。一般的に、冷たい人と話していても、あまり楽しくないらしいです。正直に教えてくれませんか?それで傷付いたりすることもありませんから。今、僕といて楽しいですか?」
慎一はその質問に対し、一つも嘘をつくことなく、ただ正直な思いを話し始めた。
「うん、楽しいぞ。教師という仕事を初めてから、本当に沢山の人に出会った。でも、感情がないっていう人は初めてだ。山下も知っていると思うが、感情がないというのは一般的に見れば、レアケースだ。俺は単純に山下の事を知りたいと思った。山下豊という人間がどういう人間なのか、そして感情がないとはどういうことなのか興味があった。俺が質問をして、お前が答える。それだけで俺は山下について一つ知識がついたわけだ。山下の返答の態度がどんなものであれ、俺は山下についてどんどん知っていけるから楽しいぞ。じゃないと、そもそも休日を使ってまで、お前をドライブに誘わんだろう?」
「そうなんですね。」
「じゃあ、逆に俺からも質問させてもらうけどな、人はどうして生きていると思う?そして、山下、お前は、どういう目的で生きていると思う?これに答えはない。俺も分からない。別に答えが知りたいわけじゃない。ただ色々な考えを知りたいから聞くんだ。なあ、どう思う?」
豊は十秒ほど考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「そうですね、僕に関していえば、僕は人というより虫とかに似ている気がします。人間という箱に入っている虫なんだと。虫はただ、あれがしたい、これがしたいという訳ではなく、ご飯を食べて、成虫になり、子孫を遺し、死んでいく。ここにはきっと意味なんてない。本能でやっていることなんでしょう。僕も同じです。あれが欲しいとか、あれがやりたいとかいう欲はありません。しかし、三大欲求というものは備わっているようで、お腹は空きますから、一日三食ご飯を食べます。眠たくなりますから、毎晩就寝します。性欲も溜まりますが、子孫を共に遺す相手がいないですから、一人で済ませます。ただ意味もなく、本能に従って生きてきました。きっとこれからもそうなんだと思います。答えになっているか分かりませんが、これが僕の考えです。」
丁度車が信号待ちで止まる。
「そうか、それがお前の考え方か。それに対して俺が良い悪いを評価することはない。そもそも良い悪いなんてないから評価することすらできない。山下の考えが知れて嬉しいよ。」
車が再び発進しだした。
「よし、次コンビニが見えたらそこに入ろう。せっかくだからアイス買ってあげるよ。食べれるだろ?」
「はい、食べれます。」
「よし、じゃあ行こう。他のクラスのやつに言うなよ。」
慎一は笑いながら言い、コンビニに向かって車を走らせた。
コンビニでアイスを買い、店の前で食べた後は、豊の家の方向へ向かって走っていった。二人のドライブは約一時間半ほどで幕を閉じた。
「よし、じゃあまた明後日、学校でな。」
「はい。さようなら。」
豊にとってこんなに人と話したのは久しぶりで、疲れたのか、帰宅後、リビングのソファでいつの間にか眠りについていた。
休日の二日間なんていうものは、気がつくといつの間にか終わっているもので、直ぐにまた月曜日、学校は朝からうるさいチャイムを奏で始める。
休日の間に生徒と教師がドライブに行ったからといって、学校生活が変わることなんてなく、いつもと変わらず、毎日がまた始まっていった。
最近では、坂上を筆頭に休み時間など豊に話しかける人が少しずつ増えていき、豊が一人で過ごしている時間も自ずと減っていった。
今日も六限目の授業が終わり、軽いホームルームを済ませた後、クラスメイトの一人である、池﨑《いけざき》という一人の女子が豊に話しかけた。
「あの、山下くん。ちょっと今から時間ある?少し話したいことがあって…。」
豊は予定などなかったので「大丈夫。」と答えた。
豊と池﨑は学校の校舎の中でも、人通りがあまりない場所に移動した。池﨑は緊張しているのか、少し肩を震わせながら話し始める。
「あの、私、池﨑咲華っていいます。知ってますか?」
「うん。クラス一緒だからね、話したのは今日が初めてだけど。どうしたの?」
「実は、確証はないから全く効果ないかもしれないけど、もしかしたら山下くんの力になれるかもしれないと思って。」
「それはどういうこと?」
「私、体質なのかよく分からないけど事故とか怪我が昔から多いの。そして、三年前に階段から落ちちゃった事があって、その時に頭に衝撃がいったせいで、私も一時期、感情がなかった時期があるの。」
「あなたも僕と同じだった?」
「うーん。厳密には感情が薄れただけで、無くなったわけではないんだけど、当時は本当に何も感じなかった。今はもう治ってるんだけどね。」
「それはどうやって治ったの?」
「そう、それが山下くんを呼んだ理由なんだけど、私が感情を取り戻したのは、人と関わったからなの。親や友達、病院のお医者さんや同じ部屋だったおじいさんとか色々なことを話したことで少しずつ感情が戻って行ったの。だから、断言は出来ないんだけど、色々な人と関わっていくことが大切だと思う。」
「そうなんだ。」
「最近は先生とか、クラスメイトとかとも話してるし、今までも沢山コミュニケーションを取っていただろうから、余計なお世話かもしれないですけど、一応伝えておこうと思って。山下くんの方が大変だと思うけど、似たような経験をした身としてできる限り手伝いたいと思う。」
「僕は、今まで人と関わることをあまりしてこなかった。最近の先生やクラスの人が話しかけてくれるのは今までにないこと。だから、もしかしたらこれから少しずつ効果が発揮されていくかもしれない。」
「そうなんだ。じゃ、じゃあ、今から人とのコミュニケーションの一環として一緒に帰らない?家、正門出て左だよね?私、あんまり友達とか多くないから一緒に帰る人いないんだよ。あ、もちろん迷惑だったり別に帰る人がいるなら全然一緒に帰らなくても大丈夫だよ。」
「帰ろう。僕も一緒に帰ってる人いないし。」
「良かったー。普段こんなこと言わないから断られたりしないかとても不安だったの。じゃあ、帰ろっか。」
豊と池﨑はその日から一緒に帰ることになった。帰るといっても学校から豊の家までは徒歩十五分くらい。途中で池﨑の家と別の方向になるので、実際に話している時間は門を出てから七、八分程度だった。一緒に帰る約束をしてから最初の方は、話すのはその帰り道だけで、学校ではほとんど会話をしなかったが、そんな生活が二週間ほどがすぎた頃には、学校でも話す時間が増えていった。
転校してきてから一ヶ月以上経った五月中旬、その頃、豊の周りには今までの人生の中でも、トップクラスに人がいた。慎一とも毎日ではなくなったがこまめに話し、坂上とは四月より更に話すようになり、今では坂上と仲がいい他の三人とも話すことが増え、移動教室などはその五人で移動するようになった。池﨑も豊に心を許し、最初よりよく話すようになった。
そんなある日の金曜日の放課後、いつもと同じ様に豊と池﨑が二人で下校していると、池﨑がある提案をした。
「明日、学校休みじゃんか。暇だったらどこかショッピングとか行かない?山下くんの都合が合わなかったら明後日でも別の週の日でもいいけど。」
豊は相変わらず表情を変えず、少し考えた後、返答した。
「うん、明日暇だよ。前に坂上たちとは遊びに行ったけど、確かに池﨑とは遊んだこと無かったな。行こうか。」
池﨑は安心した様子だった。
「良かったー。じゃあ明日九時に山下くんの家の前に集合ね。」
そんなことを話していると分かれ道に来たので、「じゃあ、また明日。」と豊が言い、二人は別の道を進んで行った。
次の日の午前八時五十分、豊は家の扉を開くと、そこには、もう池﨑の姿があった。
「おはよう。」
池﨑は笑顔で豊に語りかけた。
「おはよう。」
豊も素直に返答する。
「それじゃ、行こうか。」
二人は豊の家から自転車で約三十分程の大型ショッピングモールに向かった。
休日ということもあり、ショッピングモール入口にある駐車場のボードには「満」と言う文字が並んでいた。豊はショッピングに行くことが少ない上、友達と一緒に行く経験はなかったので、少し疑問に思いながら話しかける。
「僕、あんまりショッピングとかしないからよく分からないけど、どこから行こうか?」
「昼ごはんを食べるにはまだ早いしね。とりあえず、文房具置いてある場所行っていい?付箋と修正テープ切れてて。」
「分かった。引っ越してきてからまだここ来たことないから、池﨑について行くよ。」
「分かった。」
豊は文房具店に向かう途中、何か自分も必要な物がないか考えていた。スティックのりの残りが少なかったことを思い出したので買うことに決めた。池﨑は豊の右で、半歩ほど先行しながらスキップ気味に歩いていた。
文房具店では、お互い必要なものを見て回った後、池﨑の提案でお揃いのペンを買うことにした。
文房具店を後にした二人は、次は本屋に向かうことに決めた。
「山下くんは本とか読まないの?」
「読まないな。読んでいても本当によく分からない、特に小説は。人は感情移入できる作品ほど面白いと評価するらしいけど、僕はそんな作品ほど良さが全く分からない。」
「そ、そうだったね。変なこと聞いてごめん。やっぱり本屋に行くのやめようか。」
「そう?ここの本屋大きいから欲しい本があるかもしれないんじゃないの?行った方がいいんじゃない?」
「山下くんはそれでいいの?」
「いいよ。」
「分かった、じゃあ行こうか。」
池﨑の歩くスピードがほんの少しだけ早くなった。
「ほら、めちゃくちゃ広いでしょ?」
本屋についた池﨑は楽しそうに話しかける。
「うん。広いね。学校の近くの本屋とは比べ物にならない。」
池﨑は本屋の中を迷路のようにフラフラと進んで行った。豊も足早で追いかける。十分ほどで池﨑は、目当ての本を見つけたらしく、「本当にあった。」とテンションが上がっていた。
池﨑が本を購入し終えると、本屋の前で待っている豊の元へ走って駆け寄り、肩を叩いて話しかけた。
「お待たせ。ここに来れて良かったよ。」
「そうか。」
「そろそろお昼も近くなってきたね。一つ階を上がればフードコートがあるから、そこで何か食べようか。」
「うん、そうしよう。」
二人はフードコートを目指し、再び歩き出した。
「楽しいね。……ああ、私は楽しいよ。山下くん、やっぱりまだ感情は出てきそうにない?初めて話しかけた時、感情は出てくるかもしれないとか勝手なこと言ってごめんね。」
「別にまだ実感はないけど、これからまた少しずつ出てくるかもしれないでしょ。」
「そうだね。じゃあ、これからもチャンスがあるように、沢山話そ。私も頑張るから。山下くんが楽しいっていう感情を理解できるように。」
「そうだな。」
そんな会話をしていると、フードコートに辿り着いた。池﨑は声のトーンを先程よりワントーン上げて豊に話しかける。
「さあ、着いたよ。何食べたい?色々なお店があるから選択肢はかなり多いよ。」
「思っていたよりも多いな。」
五分ほど悩んだ挙句、豊は牛丼、池﨑はうどんを注文し、残り少なくなっていた空席を選んで座った。池﨑は、少し席に料理を持ってくるのが早かったので、席に料理を置き、二人分の無料の水を汲みに行った。水汲みに池﨑が行っている間に、豊も自身の料理を机に置いた。
池﨑は豊が席についたのを確認すると、水の入ったコップを両手で持ちながら、早歩きで席に戻ろうとした。
その時だった。手が滑ったのか左手に持っていたコップが池﨑の手から離れた。そのまま落下していったプラスチック製のコップはカランカランと店の床を転がり、辺りに水を撒き散らした。近くにいた清掃員がすぐに駆けつけ「大丈夫ですか?」と池﨑に声をかける。「すいません。」と申し訳なさそうに池﨑が答えた後、床の水を拭くものを探そうと辺りを見回していると、清掃員が「水はこちらが処理しておきますので、遠慮なさらずに水を汲み直して来てください。」と言った。
池﨑は二回ほど礼をした後、もう一度水を汲みに行った。豊は、池﨑が再度水を汲みに行っているのを見て、席を立ち、池﨑の方へ早歩きで向かっていった。
水を汲んでいる所に豊が到着する。
「一つ僕が持つよ。」
「座ってくれてて良かったのに。ごめんね、わざわざ。」
「一緒に持っていった方が安心だしね。」
そう言うと、豊は池﨑の右手の水を持ち、席に向かって歩き出した。
「私は本当にドジだな。」
池﨑が照れ笑いをしながら呟いた。その言葉の通り、池﨑には少しそういうところがあった。豊と二人で帰っている時も、一週間から二週間に一回程度、何も無い道路でつまづいたりすることがあった。
ご飯を食べ終わった後は、二人ともあまり興味のないファッションの店に行ったりしながら時間を潰し、あっという間に時刻は十七時を迎えた。
「もうこんな時間か。あっという間だね。大体店内は回り切ったし、そろそろ帰ろうか。」
先程食料品売り場で買ったドリンクを飲んでいる豊に向かって池﨑が言った。
「そうだな。ここから家までまた三十分くらいかかるしね。」
二人は店を出て、少し暗くなってきた空の下で自転車を漕いだ。向かい風が自転車の速度を少し落とす。
自転車で横並びになりながら道を進む。
「今日はいきなり誘ったのに遊んでくれてありがとうね。」
そう言った池﨑の声は少し緊張しているような声だった。
「大丈夫だよ。休日はすることもなく、ただボーッとしているだけだし。」
「暇なんだったら、また遊ぼうよ。今日は本当に楽しかったし。」
「うん、いいよ。」
「…本当に楽しかった。山下くんは分からないかもしれないけど、人と一緒に居て、楽しいって感じられる事は本当に幸せなことなんだよ。だからこそ、私は山下くんに楽しいっていう感情を知ってもらいたい。そのために協力したい。感情がない人に、感情があることは良いみたいに言うと嫌味っぽく聞こえるかもしれないけど、そんな気はないから許して。」
「最近、本当に大きく環境が変わった。池﨑もその原因の一人だよ。この一ヶ月で今までにはないくらい沢山の人と関わった。普通の人からしたら少ないかもしれないけど、僕からしたら本当に沢山の人と。それで、僕はまだ楽しさとか何も分からないし、想像すら出来ないけど、僕以外の人が僕と居ることで楽しいと思ってもらえるなら、楽しくないと思われるより、良い?って思えている……かも。本当に気がするだけだけど。」
「本当に?それはめちゃくちゃいい事だよ。その『かも』っていう半信半疑な感覚からどんどん広がっていくと思う。じゃあ、もしかしたら本当に少しずつ改善されているかもしれないね。」
「そうかな?」
「うん。山下くんの周りの環境が変わったって言ってたけどさ、それで言うと私も大きく変わったよ。私は人と関わるのが苦手で、気を許して心から楽しめる人って周りにあんまりいなかった。でも、山下くんと仲良くなってからそれは変わった。山下くんには気を許せるし、一緒に話している時は他の誰と話している時よりも楽しい。」
池﨑はそう言うと、豊の返答を聞く前に、立ち漕ぎで自転車の速度を上げた。
二人はその時、道路橋の下を自転車で通っていた。道路の左右は道路橋を支えるためのコンクリートで覆われており、その橋の下を抜けると交差点がある。
速度を上げた池﨑は、豊よりも先に道路橋を抜けて交差点に出る。その交差点に出る直前で、池﨑は自転車を漕ぎながら豊の方を振り返り、恥ずかしそうに笑顔でこう言い放った。
「私にとって、山下くんは本当に……」
その瞬間、豊の体に悪寒が走った。今までに感じたことのない感覚が豊の全身に広がる。そんな感覚を何故感じたのか、豊は一瞬分からなかった。しかし、ドカンッという大きな音が豊の目の前で鳴り響いた直後、その理由は明らかとなった。
池﨑は後ろを向いた状態で交差点に出たせいで、反応が出来なかった。交差点の右側からバイクが走ってきていたのだ。タイミング悪く、バイクと池﨑は衝突してしまう。池﨑は自転車諸共吹き飛ばされた。周りにいた通行人がすぐに事態を察知し、百十九番通報をした。バイクの運転手もすぐにバイクのブレーキをかけて、池﨑の方へ歩み寄っていく。
豊は道路橋の下で自転車にブレーキをかけ、ただその場で立ち尽くしていた。変な感覚が、豊の身体を襲う。心臓の動きが早くなっていく。
豊は涙を流していた。
この事故のせいで豊の身体に莫大なストレスがかかった。その反動なのか、真相は分からないがこの時、豊の中に今までなかった感情というものが芽生えたのだ。
豊はどうしていいか分からなかった。どうすることも出来なかった。いきなり手に入れた感情は、豊の身体を襲った。誰かが大声で話していることは分かった。しかし、何と言っているのか脳が処理できなかった。その場でただ涙を流しながらその場で立っている、それが今豊にできる精一杯の事だった。
少しすると、豊の目の前に人が現れた。恐らく四十代で、白髪まじりの少し清潔感のない男性であった。その男が、豊に話しかけてきた。
「すいません、さっき私が轢いてしまった女の子の知り合いですか?」
豊は頑張ってその男が言っていることを理解し、言葉を振り絞った。
「……は、はい。」
男性が続ける。
「本当に申し訳ございませんでした。僕の過失で。今救急車を呼びました。血が出ていて、意識も失っていますが、まだ息はしています。本当に申し訳ないです。」
男性は、深く礼をした。
その瞬間、豊の身体は、先程とはまた別の感情に襲われた。
「おい!」
豊は大声で叫んだかと思うと、いきなり男性の腹辺りを右足で蹴った。男性は「うっ」という声を上げてコンクリートの壁に打ち付けられた。それでは終わらず、次は男性の頭を右手で殴った。男性の頭は、豊の右手とコンクリートに挟まれた。後頭部がコンクリートにぶつかることで激しい衝撃が走り、出血した。周りにいた大人が急いで豊の体を抑える。
豊は大人たちに抑えられながら「うわー!うわー!」と大声で泣きながら叫んでいる。
まるで言葉も分からない本能のままに行動をする赤子のようである。
自転車とバイクの衝突事故では、過失はバイクにあることになる。しかし、今回のケースでは池﨑が交差点の通行を確認せずに飛び出したので、バイクが確実に悪いわけではない。しかし、そんなどちらが悪いかなど、その時の豊には判断することが出来なかった。
数分後には救急車とパトカーが到着した。池﨑と後頭部を負傷した男性は救急車に運ばれていき、豊はパトカーに乗せられた。周辺にいた通行人対する事情聴取が済むと、豊は警察署へパトカーで向かうこととなった。
同日の夜、十九時頃、慎一はリビングのソファでくつろぎながら、レンタルしてきた映画を見ていた。親戚の反対を押しのけてまで愛し合う二人の物語であった。慎一は独身で現在は一人暮らしをしている。普段生活していて接する人間の大半は、まだ成人も迎えていない中学生であり、恋心が芽生えるはずもない。命より大切な人に出逢う、これは慎一の憧れであったので、休日の夜に、このような恋愛映画を観ることも多かった。
そんな風にリラックスをしていると、突然机の上にある携帯が音を上げた。着信音であったが、休日のこんな時間に電話がくることはあまり無かったので少し疑問に思い、相手を確認すると、校長の名前が画面に写し出されていた。
仕事での失敗が発覚したのかと不安に思いながら、恐る恐る電話に出た。
「はい、もしもし。」
「三城中学校の校長の酒井ですが、最上さんの携帯であっていますでしょか。」
「はい、最上です。」
「いきなりこんな時間に電話して悪いね。」
「大丈夫です。何かありましたか?」
「悪いニュースなのだけど、最上さんが担当しているクラスに池﨑咲華と山下豊がいるでしょう?」
「はい、います。」
慎一はゾッとした。悪いニュースであると述べられた上、豊の名前が出てきたからである。校長は話を続けた。
「結論から申し上げると、その二名が事件の被害者と加害者になった。」
「え…。」
その場で硬直した慎一は言葉に詰まってしまい、何も答えることが出来なかった。
「詳しく言うとだね、この二名は今日一緒に買い物に行っていたらしく、その帰り道で、池﨑咲華がバイクに跳ねられるという交通事故が起こった。その時は、意識を失い、出血もあったそうだが、幸い大事には至らず、命に別状はなく、後遺症も残らないそうだ。そして、次に山下豊の話だが、彼はバイクの運転手に暴力を奮った挙句、怪我をさせてしまったらしい。大切なクラスメイトが事故に遭い、怒ってしまったのかもしれいね。」
「……。」
「最上さん?聞こえてるかい?」
「……はい。ちょっと待ってください。池﨑の件は分かりました。後遺症が残らないようで何よりです。それより気になるのは山下の方です。校長先生も知っての通り、山下には感情がないんです。怒りで誰かに暴力を奮うようなことはないんです。」
「しかしな、事実として連絡があったんだ。それに一ヶ月ほど前に生徒と喧嘩になり、暴力を奮ったのだろ?ありえない話ではないだろう。」
「あれは怒りとかの感情は乗っていない、説明は難しいですけど……。少し山下本人から話を聞きたいんですけど、面会などは出来ないんですか?」
「彼は現在取り調べを受けていてね、最初の十日ほどは保護者であっても面会が許されないらしい。教師と面会となると、かなり先になりそうだね。」
「……そうですか。」
「とりあえず、池﨑咲華は一週間の入院の後、学校に復帰する。山下豊はまだどうなるか分からない。」
「同じクラスの生徒にはどう説明を?」
「池﨑咲華は事故、山下豊は家庭の事情と一旦説明をつけておこう。」
「分かりました……。」
電話を終えた慎一は、ソファにぐったりと倒れ込んだ。クライマックスに突入していた恋愛映画も見る気を失っていた。一ヶ月半、豊と深くコミュニケーションを取っていたからこそ、やはり暴力を奮うということが考えられなかった。すぐにでも豊と話をしたいと思ったが、それも出来ないようで、それから一時間ほどはずっと目を開けたままボーッと天井を眺めていた。
ハッとして、壁にかかっている時計を見る。時刻は四時二十三分、いつの間にかソファで寝てしまっていたようである。慎一はもう一度寝ようと考えたが、眠気は完全に無くなっていた。
頭の中で先程の電話の内容を何度も反芻しながら、風呂に入ったり、寝てしまって食べていなかったご飯を口にしたりした。
そんな調子で何となく生活をしていると日は昇り、いつの間にか昼前になっていた。慎一はとりあえず池﨑の病院にお見舞いに行こうと思い、身支度を済ませた。
病院内は静かで自分の足音がよく響いた。受付で言われた部屋番号の前に着き、横開きのドアを開いた。部屋にはベッドが四つあるようで、入口から見て左奥で、池﨑は入院しているようである。
慎一は恐る恐る池﨑のベッドへ近づいた。池﨑は本を読んでいた。なにやら聞いたことも無い五百ページはありそうな文庫本である。
「池﨑、調子はどうだ?」
慎一は池﨑に話しかける。池﨑は驚いたような表情をして慎一の顔を見つめた。
「あれ、先生。わざわざ来てくれたんですか?後遺症とかも残らないそうなので全然大丈夫です。まだ痛むところは沢山ありますが。」
手際よく手に持っていた本に付箋を挟み、机の上に置きながら池﨑は返答した。
「そうか、それなら良かった。俺は少し様子を見に来ただけだから直ぐ帰ろうと思う。ずっと居ても池﨑が気を使うだけだと思うから。クラスメイトには怪我をしたと伝えておくよ。退院したらまた一緒に勉強しよう。」
慎一が病室を離れようとすると、池﨑は「待って。」と声を上げる。続けて「聞きたいことがあります。」と言ってきた。慎一は立ち止まり「なんだ?」と答えた。豊のことだということは分かってた。慎一はその話題にならないように極力早めに切り上げようと思っていた。しかし、池﨑からこの話題が出てしまうと、慎一からは止めることができず、何も知らない風に聞き返すしかなかった。
「私が事故に遭った日、山下くんと出かけてた帰り道だったんです。山下くんは無事ですか?」
慎一は三秒ほど固まった後、振り返り言った。
「ああ、とりあえずは無事だ。事故にも巻き込まれてないし怪我もない。」
「良かったー。」
池﨑は安堵の溜息を漏らす。しかし、慎一は続けて言った。
「でも、家庭の事情で暫くは学校に来れそうにない。」
池﨑は不安そうに返す。
「え?どういうことですか?やっぱり何かあったんですか?」
「俺も詳しくは分からない。でも、怪我していないのは本当だから、またあいつが学校に来た時、詳しく聞いてくれ。」
「いつ来れそうなんですか?」
「すまん、俺も情報が足りなくて分からないんだ。お前と同じく山下と会って話をしたいが、今はまだできないそうだ。申し訳ないが、そういうことで理解しておいてくれ。」
慎一は顔を下げ、静かに病室を出ていった。池﨑はあまり人と関わるタイプではなかった。慎一も教室で池﨑が一人でいるところをよく見かけていた。しかし、ここ一、二週間は休み時間など豊と楽しそうに話している姿を慎一は見ていた。池崎にとって豊は特別な存在で、想いを寄せている人物なのだろうと慎一は勝手に思っていた。
池﨑の立場になってみると酷い話である。いきなり教師が話をしにきたと思うと、大切な友達は事故に巻き込まれてはいないが、会うことは出来ないと言われるのである。意味が分からないだろう。慎一は本当に申し訳ないと思いつつも、これが現時点では最善であると判断した。
次の日には普通に学校が始まった。池﨑は怪我をして、豊は家庭の事情で学校に来れないことを伝えると、何人かの生徒はやはり疑問を持った。しかし、慎一が詳しくは分からないと言うばかりなので、生徒たちも不満そうではあったが、追求するのをやめた。
さらに次の日、火曜日にもなると、殆どの人が豊と池﨑の話をすることは無くなっていたので、慎一も特に気負う必要もなく学校生活を送ることが出来た。とはいえ、頭の中ではずっと豊のことについて考えていた。
二人が学校に来なくなってから丁度一週間、池﨑は松葉杖をつきながら授業に復帰した。左足を骨折したようである。
クラスメイトたちも大丈夫だったかと心配の声をあげるが、豊が来ない理由とは別件だと思っているので、豊の話題がそこで出ることはなかった。
授業が全て終わり、放課後になると、池﨑が慎一の前に立ち、「話したいことがある。」と言ってきた。慎一は池﨑を人のいない教室に移し、話をすることにした。
「先生、山下くんはまだ学校に来れそうにないですか。」
慎一は静かに答えた。
「ああ、そうだな。まだだ、俺も一度も会えてない。」
「ねえ、先生。本当に何も山下くんについて知らないんですか?先週からの山下くんの情報について、私と先生が持っている情報量は同じですか?些細なことでもいいんです。何か教えてくれませんか?私最近その事ばかり考えてしまって、夜も全然眠れないんです。」
「本当に申し訳ない。俺も全く状況が掴めないんだ。だが、今も健康な状態であることは間違いない、事故で何か怪我をした訳でもない、無事だ。それだけは信じてくれ。詳しいことがわかり次第、直ぐに池﨑に伝えるから、どうか分かってくれ。」
「……すいません。不安なのは先生もおなじなんですね。」
池﨑は席を立ち上がり、とぼとぼと松葉杖をつきながら、教室を出ていった。その後ろ姿は本当に寂しそうであった。
それから長い時間が経った。月はもう六月を迎え、どんどん暑くなっていった。本日は六月十六日、あの事故から約一ヶ月も月日が流れたのである。
その間、池﨑以外に、坂上たち仲良しグループからも一度豊について言及された。池﨑と同じように、慎一も何も知らされていないこと、何か情報が入り次第教える事を伝え、なんとか引き下がって貰うことが出来た。
時間の流れというものは恐ろしいもので、慎一も、豊の席が空いている生活に慣れてしまった。最初の頃は本当に四六時中、豊の事が頭から離れなかったのが、今では豊について考える時間もかなり減っていった。
慎一は今日も三十五人の前で学校の始まりと終わりのホームルームを行い、現在十九時前、職員室での業務を終え、帰宅しようとしていた時だった。
突然、コンコンと職員室を二回叩く音が聞こえた。ドアが開き、「失礼します。」という声が聞こえた。その時、慎一は直感的に顔を上げ、その生徒の方を見た。
そこには制服姿の豊が立っていた。豊は「最上先生いらっしゃいますか。」と続ける。
慎一は帰る準備をしていた手を止め、豊の方へ走っていった。
「お久しぶりです。」
そう言う豊を目にして、慎一は驚きの表情を隠せなかった。慎一に声をかけたときの豊の顔が笑顔だったからである。
「山下、まさか……。」
慎一は泣きそうになりながら豊に語り掛ける。
「先生、大切な話があります。二人で話したいです。」
豊は切り出す。慎一は頷きながら、職員室横にある会議室に豊を案内した。
二人は正面を向き合って座り、慎一は食い気味に豊に話しかけた。
「おい、お前、さっき笑ってたよな。お前と過ごしていた学校生活、一度も見たことがない表情だったぞ。まさか、お前、感情手に入れたのか?」
焦っている慎一に対し、豊は冷静に先程の笑顔をもう一度見せ、話し始めた。
「落ち着いてください、先生。一から全て話しますから。僕は土曜日、池﨑と一緒にショッピングに行っていました。その帰り道、池﨑が交通事故に遭ってしまいました。今はもう元気に学校に通っているそうで、何よりです。その瞬間、身体に今まで感じたことの無い衝撃が走ったのです。池﨑が事故に遭ったことが何かのトリガーになったのでしょう。僕はその瞬間、感情を手に入れたのです。涙が勝手に溢れてきました。訳が分からなかったです。あの時の感情は何なのでしょう。感情を手に入れた喜び、感動の末に流れた涙だったのでしょうか。分からないですが、その次また別の感情が現れました。僕の前に、池﨑を轢いた人が来た時です。彼は真剣に僕に謝っていました。しかし、訳の分からぬ感情がその時僕の身体を支配して、いてもたってもいられず、本能的にその人に暴力を振り、怪我をさせてしまいました。それから今までは、警察などに取り調べなどをされて、今日解放されました。」
慎一は豊の話を聞きながら涙を流した。豊が傷害罪を犯したことよりも、感情を手に入れたことを聞き、本当に良かったと純粋に思ったのである。
「良かったな、山下。本当に良かった。原因は何であれ、感情を手に入れたことに変わりはない。不幸中の幸い、その男性も池﨑も怪我だけで済んだ。」
「今はもう感情があります。でも、まだどれがどの感情か全然分からないです。この一ヶ月、警察と話したくらいで、感情が出る場面がなかったですから。男性も許してくれました。これから色々な人と関わり、感情というものを理解していこうと思います。」
「うん、それが良い。どんどん人と関わっていけ。勿論俺も協力するぞ。」
「僕が感情を手にできたのは、確実にこの学校の人達がいたから、特に坂上たちと、池﨑、そして先生がいたからです。僕は今まで、一緒に住んでいる親以外のことを『あなた』と言っていました。親以外の人はただの他人でしかなく、区別する必要もなかったからです。でも、先生のおかげで変わりました。先生は、僕が親以外に『あなた』じゃない呼び方で呼んだ世界初めての人です。先生は、僕にとって特別で、他の人と区別するに値すると思ったからです。思えばこの時から少しずつ僕は感情を手に入れていたのかもしれません。更に、坂上、池﨑とどんどん特別な人が増えていき、最終的に池﨑のことがきっかけで感情を手に入れました。本当にこの学校での出会いには感謝しています。今僕が抱いている感情は多分だけれど感謝です。今なら、感情が乗っているから言えます。本当に今までありがとうございました、先生。」
豊は深く礼をした。慎一は泣きながら笑ってこう言い放った。
「何言ってんだよ、先生だから当然のことだ。何も特別なことはしていない。それにまだありがとうなんて言われる筋合いはないぞ。まだ六月だ。お前にはこの学年で過ごす時間がまだ沢山ある。中学卒業までならまだ一年半以上も時間がある。これからだろ。」
豊は数秒黙り込み、寂しそうな表情をしながら慎一にこう言った。
「……先生。僕がこの学校に来るのは今日で最後です。」
「え…?」
慎一は困惑した。
「先程、僕は解放されたと言いましたが、少し語弊があります。刑務所や少年院に行くことはなかったですが、今、僕は短期の保護観察処分を言い渡されています。仮釈放的な感じです。」
「……だとしても、保護観察なら学校は通えるだろう。」
「確かにそうです。でも、親と真剣に話し合った結果、新しい学校で新しい生活を送ることに決めました。」
「どうしてだ?ここにはお前と本当に仲良くしてくれる友達が沢山いるだろう。」
「本当にみんなには感謝…しています。でも僕がみんなと関わった時期に、僕の感情はありませんでした。だから、みんなに対してなんの感情も持っていないのです。僕は、みんなとどう接していいのか分かりません。それにもう決定したことです。明日からこの学校に僕の席は無くなり、向こうの学校での入学手続き、引越し準備が始まります。」
「もう明日から一切ここには来ないのか。坂上や池﨑にはもう会わないのか、特に池﨑は本当にお前に会いたがっていたぞ。」
「勝手なことをしているとは思います。分かっています、でも先程も言った通り、接し方が分からないんです。お願いです、先生から僕についてのことを言っておいてくれませんか。事件のことも話していいです。池﨑や坂上たちのおかげで感情を手に入れたことは絶対に言って欲しいです。」
もう一度、豊は深く頭を下げた。何を言っても、もう決意を変えない、そんな思いが慎一には伝わってきた。慎一はしっかりと考え、数回深呼吸をする。涙を拭き取り笑って言った。
「もう、お前の中で固まったことなんだろう?俺がいくら何を言ったところで変わらないくらいに。正直俺は寂しいよ、お前ともうお別れなんて。そして、俺からあいつらに説明してもきっと誰も納得しないぞ。でも、お前が感情をしっかり持って自分がそうしたいと思ったのなら、山下が初めて俺に伝えてくれた感情と受け止めてそれを尊重しようと思う。……俺もお前に会えて良かった。ありがとう。お前はまだ一部の感情しか体験してない。もっと楽しい、気持ちいい、心地いい感情がこれから人と関わっていく中で体験していくだろう。それを大切にしろ。きっとその先に光はあるから、体に気をつけて。頑張れよ、人生。」
「ありがとうございます。」
豊はもう一度笑顔を見せ、会議室を後にした。
慎一はその後すぐに帰りの準備をし、家に帰った。軽く風呂に入り、夕食を済ませた後、すぐに眠りにつくことにした。
しかしどうしたことか、全く眠れなかった。どっと疲れて眠たいはずなのだ、あくびも先程から何度も出ている、けれど何故か全くもって眠れないのだ。
気がつくと、もう夜中の三時だった。一睡もできず、ここからもできないと感じたので、諦めてキッチンで珈琲を淹れた。
辺りはまだ暗い。ソファに深く座り、珈琲を味わった。先程から豊のことが頭から離れない。事件のことを聞いた夜のように。
豊は感情を手に入れた時、泣いた理由を感情を手に入れた感動だと言っていたが、恐らくそれは、大切な人を傷付けられた悲しみだろう。豊は本当に感情がなんなのか分かっていないようだ。慎一たちに感謝の気持ちがあると言っていたが、それも感謝じゃないかもしれない。申し訳なさかもしれないし、男性に対する怒りだったかもしれない。
そんなことを考えていると慎一はとても豊のこれからが心配になった。
その次に慎一は、今日からの、豊の席がなくなった教室を想像した。一つ席が無くなっただけなのに、とても教室が寂しくなったと感じるだろう。豊が転校したと伝えられた池﨑や坂上は怒って慎一に文句を言うだろう。それを発端として教室内はきっと騒がしくなる。
「今日のクラスは荒れそうだな。」
そんなことを思いながら、慎一はコップに入っていた残り少ない珈琲を飲み干した。