06『地図と異変と』
――ティルテイア市内、帝国大使館付属ホテル"グランヒルテ"正面ロビー
ティルテイアの町には、人間界主要五カ国に割り当てられた大使館が存在する。
存在するというよりも、この日を迎えるために建造されたというのが正しいか。
王国、公国、共和国、教国、帝国。
それぞれに割り当てられた大使館には勿論殆ど差異はなく、それぞれが対等であることにきわめて気を遣った造りになっている。これに文句を言う国があるとすれば、それは戦争の大義名分を求めているに過ぎないだろうというくらいには正しく"全く同じ建物"であった。
本来であればそれぞれの国が好きに出資し己が権威を象徴するための建物でもある大使館をわざわざティルテイアが予算を削って造った理由はおそらく、来たるべき魔王軍との戦いの前に下手に遺恨を残さないためなのだろう。
その辺りは徹底していた。
さて。
そのうち帝国大使館に付属して建設されたホテル"グランヒルテ"には、帝国の皇帝をはじめとした国家の重鎮を含め、数多くの従者が宿泊していた。
とはいえ、そのうちの殆どは現在このホテルの内部には居ない。
明日に迫った対魔決起集会では、形式上とはいえ全ての国のトップが顔を揃え、足並みを整えるという大切な儀式が予定されている。
本日はその前夜祭として、立食パーティが催されているとのことだった。
帝国は皇帝陛下やアスタルテを含む国家代表数人と共に、書陵部のエージェントを引き連れてその会食に臨んでいる。五カ国の主要人物が集う会ということで、無論アイゼンハルトも招待を受けていたのだが――。
夜の"グランヒルテ"ロビーに、ふらふらと入ってきた長身痩躯の男が一人。
質の細そうなさらさらとした銀髪の青年は、知る人ぞ知る帝国の切り札だ。
ホテルの職員が慌てて挨拶のために駆け寄るのを制しつつ、青年――アイゼンハルトは広いロビーに設置されたソファに座って一息吐いた。
「……あ~~~。着いたぁあ~~~……」
肉体と精神の両方に溜まりに溜まった疲労を吐き出すべく、穴の開いた風船のようにしぼんでいくアイゼンハルト。柱の時計に目をやれば、既に殆どの人は眠りについている時間だった。
と、そんな彼の前に差す影。小柄な少女の形をしたそれに、アイゼンハルトは視線を移す。
「おかえりなさい、アイゼンハルトさま。お待ちしておりました!」
「あー、アンナさん。寝てても良かったでしょうに、わざわざさーせん」
「い、いえいえとんでもないです! 上官を差し置いて眠りに就くなど!」
「二人仲良くおねんねしてたらもしもん時に危ういじゃあらんせんか」
「はっ!?」
その発想はなかったとばかりにフリーズするアンナ。
胸に手を当てて帝国流の敬礼をするや否や、「分かりました! がっつり寝ます!」とまたなんか違う方向に解釈してしまったようである。
「それはそうとアイゼンハルトさま。今までどちらに?」
「迷ってまして」
「へ」
「案内板の一つでも出てりゃ助かったんでしょうが、ぼかぁこの町はもううんざりだぁ」
ソファ後方に両手を投げ出すと、今度こそへろへろと脱力する。
「え、と。では前夜祭に行っていたわけではないんですか……?」
「や、そういうのはアスタルテさんに任せときゃあいいんじゃあらんせんか」
アイゼンハルトはランドルフと名乗る不良チックな青年と別れたあと、結局メインストリートという名の振り出しに戻されたことに気が付いた。
しかし残念ながらその時にはもうランドルフは共に居らず、またしてもあの迷路と格闘するハメになってしまったというわけだった。
結果、立食パーティになど当然参加できるはずもなく。
「……あの、アイゼンハルトさま」
「なんでしょうや」
「通行人の方に聞けばよかったのでは」
「……」
「……」
「……や、それは」
「思いつかなかったんですか」
「違う、そんなこたぁあらんせん、ぼくだってその気になりゃあ人に道の一つや二つ」
疑わし気な視線を向けるアンナは、人差し指を唇に当てると。
「ひょっとして」
「なんでしょうや」
「人見知り……?」
「そそそそんなわけないじゃあらんせんか!! ぼかぁ、誰かがぼくのために時間を割くのがちょっとアレかなあなんて思うだけで」
「あ、新しいタイプの人見知りなんですね!」
「だからなんのフォローにもなってないでしょうや!」
「す、すみませんすみません!」
「なんで両ひざ着いてちょ、そこまでしろなんて誰も言っちゃいないでしょうが!!」
「すみませんすみません!!」
「頭上げて頼むから周りの方々が見てらっしゃる!」
ゴン! ゴン! とカーペット越しとはいえ鈍い音をさせて頭を下げ続けるアンナを必死でアイゼンハルトはなだめ続ける。
ようやく土下座連打を辞めたアンナは、また真っ赤っかな額をそのままに「許して貰えて良かったです……」なんて笑顔で笑っているからたちが悪い。
この話題が続けば続くほど、墓穴をスコップえんやこらだと気が付いたアイゼンハルトは一つ咳払い。
カウンターの方から、第二席さまがご乱心……? などと不名誉なひそひそ声すら聞こえてくる始末なのだ、これ以上余計なことを言いたくはなかった。
「そういやアンナさん、あんさんはぼくと別れたあとどこで何をしてたんで?」
「ほ? じゃない失礼いたしました! え、ええっとですね。その……」
何か言えないことでもあるのだろうか。
アイゼンハルトから目を逸らし、軽く頬を染めて髪の毛を指でくるくるしている様を見ているとなんだか聞いたことが申し訳なくなってくる。もしかしたらこの町に彼氏でもいたのだろうか。……ただ、実際気になっていることも事実であった。勿論彼氏の有無などではなく。
ロビーの方から、「土下座させた副官を言葉責め……?」等とまたしても不名誉な扱いを受けているが、今は気にしている場合ではない。
「そんなに隠すことでもないんですけど……えっと」
「なんでしょうや」
「ち、地理の把握に努めておりました!」
「……ってえと、この町の面倒臭い裏路地の?」
「はい」
ふむ、とアイゼンハルトは腕を組んだ。
今のところ、目の前の少女について気になっているのは一つだけ。
本来知り得ないだろう情報を知っているという一点だ。
アイゼンハルトの上司アスタルテが、現人神と呼称される人間為らざる者である事実は、書院の中でも知っているのはごく少数のはず。
もしかしたらアスタルテと同じく長い時を生きている第三席辺りがうっかり喋っちゃいましたっ、という可能性もなくはないのだ。
そこまで、尋問するほどではない。
しかし、地理の把握か。
「……諜報部の任務か何かで?」
「い、いえ、独断です!」
ウソを吐いているわけではなさそうだ。
諜報部の任務とはいえ、市国の調査などであれば帝国書院そのものの幹部でもあるアイゼンハルトの元にも話は来ているはずだろう。……直接聞いてみるのが良いのか。しかし、それで変に藪を突く結果になるのだとしたら。
「独断ってえと?」
「帝国書院本部諜報部員としては、やはり有事の際に備えて、新天地ではあらかじめ地図の作製をしておくべきだと思った次第です!」
「なるほど」
有能だとアスタルテが推挙するわけだ。
ひとまずアイゼンハルトは彼女の言葉を信じることにして。
「よろしければアンナさん。ぼくにも作った地図を見せて貰う訳にはいきませんでしょうか」
「ああもうそれは全然!! 元々お渡しする予定でした!」
「あ、さいで」
はい、こちらです! と、彼女は抱きかかえていた資料のうちの一枚をアイゼンハルトに手渡した。受け取ってまじまじと眺めてみれば、町の全体像とまではいかずとも具体的な規模と大まかな道筋。そして、今日歩いてきたのであろう迷路のような路地裏の地図がちょこちょこと書き込まれていた。
全てを回れたわけではないようだが、これさえあればアイゼンハルトももう迷子にならずに済みそうだった。
「ありがたく頂戴しときますわ」
「これでもう迷子になりませんよ!」
「やかましいわ!」
「ひぃ!! ごめんなさいごめんなさい!!」
「土下座やめてほんとやめて!!」
なにこの副官有能だけどめんどくさい。
やっぱり書院にはまともな真人間はいないのかと諦めにも似た達観を抱きながら、アイゼンハルトは無理やりアンナを抱き起こすのだった。
――帝国大使館付属ホテル"グランヒルテ"503号室
アンナ・F・コミット。十六歳。女。
出身は帝都グランシル市内ノースウォール地区。
一昨年の科挙を通過しそのまま諜報部を二年継続。
"不撓不屈の雑魚"の異名を持つ問題児兼優等生。
「なんで、雑魚なんでしょうや……」
アイゼンハルトは湯あみを終えたあと、コーヒーを啜りながら先ほどアスタルテに頼んで受け取った副官の資料を読み込んでいた。
経歴に特に目立ったところはない。二つ名だけが謎だが、それ以外は基本的に優秀な職員と言えるだろう。出身も問題はなく、これ以上ないほどに穴の無い優等生。
アスタルテが推挙する理由も分かるし、諜報部ではそれなりに人望もあったようだ。
……とはいえ、気にかかる。
彼女の経歴がきれいすぎる点と、アスタルテの情報に結び付くようなコネを彼女が持っていないこと。そしてこれは履歴書とは関係ないが、何故アイゼンハルトと別れる時に「この辺りの調査をしてくる」と素直に言わなかったのか。
一度疑いの目を向けてしまえば中々逸らすのは難しいというが、実際その通りだった。
「アスタルテさんが推挙したってぇんなら信用したいところではあるんですが、むしろ上司だから何かやらかしかねないという可能性もなきにしも非ず……」
怪しい奴が居たので抱え込んでみた。くらいのことは平然とやりそうな上司の顔を思い出して、アイゼンハルトは嘆息した。コーヒーを一気に飲み干すと、そのカップをサイドテーブルに戻して思考する。
今頃、アスタルテは前夜祭という名の政争を戦っていることだろう。
もしかしたら今日知り合ったランドルフやカテジナ、ヴォルフガングもいるかもしれない。
そう考えると行かなくて良かったと思う辺り、本当に彼らとこれからまともに旅が出来るのか不安にはなるが。
「不安になると言えば、やっぱり不確定要素があることなんでしょうなあ」
隣の502号室はアンナの部屋だ。
一諜報部員としてではなく魔導司書第二席の副官という形でついてきているが故にそれなりの優遇も受けている。彼女は隣でもうぐうすか寝ているのかもしれないし、何かの作業に打ち込んでいるのかもしれない。
バスローブの懐から、彼女に先ほど貰った地図を取り出した。
精巧に書きこまれたそれは、流石諜報部員と言う他なく。
そして一日で1人で仕上げたにしては余りにも完成度が高い。
走り書きのようなものではなく、きちんとアイゼンハルトにも分かるように作られていて――
「……あの子、この町に来るのは初めてだって。そんな奴が、外周の形状からここまで細かい部分まで半日で、それも一人でやれるもんなのか?」
アイゼンハルトは別段諜報に詳しいわけではなかった。
けれど、今までの彼女の言動に持った疑いと、この精巧な地図を眺めていればおのずと目は鋭くもなる。そして、さらに言ってしまえばこれは"地図"だ。ティルテイアのようにずっと市国という立場を貫いてきた要塞都市が、そう簡単に作らせるはずもないものだ。
原型など所持出来るはずもなく、たった二日の滞在期間の間に作れるはずはない。それも、一人で。
アイゼンハルトの背を冷や汗が伝う。
その次の瞬間だった。
閉ざされた木製の窓の外から、凄まじい爆音が鳴り響いたのは。
靴を履くと、愛槍二本を握りしめて窓を蹴り開ける。
煌々と赤い光が差し込んだ。それが炎のそれであると気づくのと、発火元を見つけるのはほぼ同時のこと。
燃えているのはメインストリートの方角。おそらくは商業区であろう方面。
だからと言って、アイゼンハルトはすぐさまそちらに駆けていくようなことはない。
これは襲撃だ。
なれば、この日にティルテイアを攻める理由があるに違いない。
となればまず間違いなく、相手の目的は五カ国の首脳。――つまり前夜祭の会場。
目を凝らしてみれば、東の上空から何かが雨のように降ってくるのが見えた。
無論、ただの雨があんなに大粒のわけはない。
そして降り注ぐ何かの発生源が"大穴"である時点で、何が起きているのかは明白だった。
即ち、魔王軍の襲来。
アイゼンハルトは廊下に飛び出し、隣の部屋からアンナを呼び出そうとして留まった。
彼女の部屋の前に、扉に貼られていた張り紙。
『避難誘導に行ってきます!』
「……ああもう!! 何が起きているのか、さっぱりだ!!」
廊下を駆けていく足音など、この数分間聞いた覚えがない。
なれば彼女はいつから外に出て行っていた?
混乱が脳を揺さぶる中、アイゼンハルトは外へ駆け出した。