03『その男、頂点につき』
魔導司書。
それは、帝国最高機関『帝国書院』における特殊部隊、"書陵部"の保有する切り札である。
人間界の主要五カ国の中でも随一の国力を誇る帝国を、裏から支えてきたエージェント。
たった十人で構成され、それぞれが単独で軍隊に匹敵する文字通りのジョーカー。
即ち、精鋭。帝国で魔導を志す者なら誰もが一度憧れる存在。
固有にして最高峰の魔導を駆使して戦う彼らが居ればこそ、他国は帝国と事を構えることを嫌がった。
中でも。
魔導司書第二席の肩書を持つ男は司書の中でも最も強く、最も理不尽な力を持ち、未だその戦歴に傷がついたことのない猛者だと噂されている。
その名も――
――パメラ村長の家、バルコニー
魔導灯の気配を一切感じない、一ウェレト先すらも見えない暗闇の中。
ランタンを外に持ち出したアイゼンハルトは、ぼんやりと星空を眺めていた。
パメラ村長宅の二階、外に設置されたバルコニー。どちらかといえば屋根付きのガレージの上を歩けるようにした、というのが近いだろうか。いずれにせよ、空を眺めるにはちょうどいい場所。青空ほどではないけれど、アイゼンハルトは星のある空も好きだった。
「意外と、何事もなかった。さぁて、これはどういうことなんでしょうや」
「おそらくはこの夜と。ヴェルダナーヴァさまはおっしゃっておりましたが……」
「……」
欄干に両手をだらりと掛けて、邸宅に背を向けていたアイゼンハルトにかかる声。
胡乱げな目を隠さずに振り返れば、村長がランタンを持ってそこに立っていた。
「……アスタルテさまから、何を口止めされてたんで?」
「やはりお見通しでしたか」
「お見通しというかなんというか……あんたがアスタルテさんを出し抜ける訳もないってぇ消去法でさぁ」
村長はアイゼンハルトの前までやってくると、深々と頭を下げた。ランタンに照らされて、その少々寂しくなってきた頭頂がまざまざと見える。
この前アスタルテに言われた10ガルド禿げのことを思い出して、アイゼンハルトは居たたまれない気分になりつつも。どうにもこの老人が今なら全てを話してくれそうな気がして、黙って言葉の続きを待った。
帝国書院書陵部魔導司書第二席を自由に動かすことが出来る人物はこの世にたった一人アスタルテ・ヴェルダナーヴァのみだ。あの上司が許可しない限り、いかに皇帝陛下であろうともアイゼンハルトを戦線に出すことなど出来ない。
そして、アスタルテ・ヴェルダナーヴァはアイゼンハルトのような欠陥品とはわけが違う名実ともに最高の魔導使いで、神蝕現象も誰一人として比肩することのない性能を持つ。
そんなアスタルテが片田舎の老人に、ましてや帝国民でもない人間のためにわざわざアイゼンハルトを置いていくとは考えられない。
あとは、アスタルテが何を思ってここにアイゼンハルトを残していったのかというそれだけだった。
「……まあ、頭は上げて貰っていいんで。ぼかぁ、何をさせられるんでしょうや」
「ありがとう、ございます。……私どもには、アイゼンハルトさまへの依頼は愚か何かを乞うことも許されてはおりませなんだ。帝国民でもない人間が、魔導司書のお手を煩わせた日には帝国からどれほどの要求をされるか。アスタルテさまからは、
『アイゼンハルトが己の意志で戦う時のみ、おこぼれで助けて貰うと良い』と。その条件で、アイゼンハルトさまのご逗留を許可いただけたのです」
「ちぃと要領を得ないんですが、まぁアスタルテさんの言いそうなことだ。っつーこたぁあの人は、今日ここで何かが起こることを読んだうえで、村の破滅を預言し、それを鵜呑みにしたあんさんが……あの牛二頭と引き換えにぼくに露払いを望んだ」
「正確には、助けていただけるというお言葉をいただきました。アイゼンハルトさまのご逗留という形になったのはひとえに、アスタルテさまのお考えで」
「……ってことは」
その先は、口に出すことをしなかった。
アスタルテがわざわざアイゼンハルトを置いていった理由など、そう幾つも思いつくものではない。
書陵部の職員ではなく、わざわざ"魔導司書"を配置した。それはつまり、それほどの事態だと案じてのこと。
アイゼンハルトならば一掃できるが、書陵部の職員たちでは余分な犠牲者が出てしまう。そう考えてのことなのだろう。
帝国書院書陵部といえば、他の国で言えば軍隊の精鋭部隊に相当する選りすぐりの者たちだ。彼らをもってしても戦いにおいて不足になる。それは、つまり。
「……アスタルテさんは帰ったらもう一回殺すとして」
ゴウン、ゴウン、と地面が唸るような音が周囲に響き渡る。
音の発生源は暗くてよく見えないが、おそらくは北――自分たちが来た方角から。
感じるのは強烈な魔素の気配。公国のAランク冒険者が群れを成してやってきたとしても、ここまで強いものは発しないだろう。
「……こ、この、気配、は」
「村長さんや」
「は、はい!」
一歩一歩、重い何かが大地を踏みしめて向かってくるのが嫌でも分かる。
ランタンを掲げてみれば、深夜の空にぽっかり空いた黒い大穴。
そして、そこからぽつぽつと落下してくる、言いようもない濃い魔の瘴気。
人間に非ざる存在、魔族にして、今この人間の大陸を脅かさんとする連合軍。
すなわち、魔王軍。
「部屋に戻ってくれやしませんか。死なれちゃ目覚めが悪いんで」
「ひぇ、は、はい!! で、でもアイゼンハルトさまは!?」
言葉の通りに身をひるがえした村長は、そこで慌てて踏みとどまる。
恐怖に抗う人間としての最後の矜持なのか、自分の命がかかっているというのに他者を心配する。形だけでもそれが出来るだけ、村長は肝の据わった人物だった。
アイゼンハルトは空を睨みながら、呟く。
「まあ、そう、……もって一刻ってぇところか」
「そんなっ」
「そういうわけで、宜しく頼みまさぁ。……出来れば、うちの副官のことも気にかけておいてやってくださると、助かるってもんで」
「それはもう! はい!」
言うが早いか、村長はバルコニーの方へ引っ込んでいった。
アイゼンハルトは横目で彼を見送ると、一呼吸。
傍らに立てかけてあった蓑を担ぎ、欄干に足をかけて。
「……魔王討伐の前哨戦と、洒落込みましょう」
そのまま、まるでブレたように姿を消した。
――パメラ森林
パメラの村に向かう道中、白銀の街道と呼ばれる一本の整備された道を挟むように、大きな森林が存在する。
そのままパメラ森林と呼ばれるその森は、昼間は比較的陽光の差し込む穏やかな森だった。
木こりや狩人の姿が散見され、しまいには子供たちも遊ぶほど。
しかしこぞってパメラの村に住まう人が言うのは、夜の森には入るべからずとのことだった。
なんでも、夜になれば魔獣の類が動き出し、昼行性の獣も鳥も全てが巣に隠れるという。
故に入っても旨味はなく、魔獣はとてもではないが魔導の心得もない人間に太刀打ちできるものではない。入れば、それは死を意味する。
そんな森に、うごめく幾つかの影があった。
魔獣、クチイヌ。
強靭な顎で肉骨を裂くその凶暴性を露わにして、威嚇するように唸っている。
しかし、どこか様子がおかしい。
彼らのその唸り声は普段のような獲物を前にしたときのようなそれではなく、まるで何かに怯えているようなものであった。
そして、次の瞬間。
「ギャインッ!?」
「ぐぎゃっ!」
薙ぐように振るわれた太いこん棒によって、吹き飛ばされるまでもなく熟れたトマトのように押し潰された。
のし、のし、と、下手人は何事もなかったかのように歩みを進める。
目的地は既に目前。
パメラの村と呼ばれるこの村も、ついでに蹂躙してしまおう。
「トロール隊に村は任せるか。あの村には食料の臭いがぷんぷんしやがる。だいたい確保したうえで、ティルテイアの前に帝国を潰さなきゃならん」
「ようやくあの帝国の馬車共に追いつけそうだしな……ここらで少し休憩しておこうぜ」
「対魔決起集会、だったか? 大仰なことをほざいちゃいるが、五カ国のトップが集まるなんて随分と間抜けなことをしてくれたもんだぜ」
進軍するトロールが二十頭。
その後ろで、二人の男が軽口を叩きあっていた。
彼らは魔王軍の先遣隊。魔王軍幹部四天王より"帝国の者をティルテイアに入る前に排除せよ"との命令を受け、一日前に捕捉した馬車隊を追いかけてきた者たちであった。
予定では、彼らの進軍速度なら明日には帝国の馬車を叩ける。
トロールというのは見かけ以上に俊敏で、尚且つ歩幅が一歩で十メレト。
巨人は巨人というだけで、人間に対しての大きなアドバンテージになるのだ。
食料の補給ついでに一つ村を潰して功績を立てる。
それが今回、このパメラの村を襲いに来た理由だった。
「つっても確か、帝国にゃ魔導司書っつーヤベぇのがいるとかなんとか聞いたが」
「はっ、ヤバいものか。帝国書院なんて仰々しい名前掲げて、その一番のエリート様である書陵部の入部資格に"クチイヌを単体で殺すこと"なんてある程度のレベルだぜ? このトロール共に敵うはずもねえよ。人間なんざを恐れんな」
「そっか。……そうだよな」
今まさにトロールが纏めてくびり殺した、パメラの森に潜んでいた魔獣クチイヌ。彼らの凶暴性は本来なら凄まじく、人間であれば手数を駆使して戦うしかない相手だったはず。
それをあっさりと倒せるトロールが二十。
その後ろには魔王軍幹部候補である男たち二人。
なんの心配もいらない。
心配していた方の男は、自分に言い聞かせるように納得して。
何の気なしに、星空を見上げた。
「……ん? なんだアレ」
「どれのことだよ」
「ほら、あの、見えるか? 赤と、青の光が――」
「おめえ見てえに夜目が利く種族じゃねえんだぞ俺ぁ。……あ、ようやく見え」
「こっちに落ちてくる!! 避けた方が良いんじゃねえのか」
「馬鹿野郎、あんなもん降ってきたところで、あれ、人間――?」
心配性の男は、慌てて一歩下がった。
気軽な方の男は、その場で魔導障壁を張った。
それが、命運の別れ目だった。
爆音。
一呼吸遅れて周囲に波紋のように広がる風圧は木々を根こそぎ吹き飛ばそうかと言うほどの轟風。何かが突き刺さったのか、揺らぐ大地はまるで何者かのマグニチュードの呪文かと思うほど。まともに立っていられなくなったトロールが次々と仰向けに倒れる中、心配性の男は本能的に空を舞った。
「な、なんだ!? トロール共! 起きろ! おいヴォイド、無事か!?」
巻き上がる土煙に、何が起こったか分からないようなこの状況。
男はもう一人――ヴォイドという魔族に声をかけたが、返事はない。
その代わり。
「申し訳ないんですが、今日一日この村の用心棒をさせて貰ってまして。お前さんら――魔王軍で間違いは無ぇな?」
爆風の中心に立っていた、銀の髪をした男が。
赤と青の二本の槍を携えて、男を睨んで立っていた。
槍の穂先には、ぐったりと脱力したヴォイドの喉が突き刺さったまま。
――白銀の街道
停車した馬車の中で、アスタルテはワインを傾けながら書物を読みふけっていた。
後方に控えた職員の男が、小さく問いかける。
「第二席一人を置いてきて、宜しかったのですか」
彼の言葉は、アスタルテにとっては予定調和に等しいものだったのだろう。
特別な反応は一切示さず、ランタンに灯った火を頼りに書物の頁をめくりながら。
「今頃、昨日から我々を追っていた愚かな魔王軍の手先を相手に蹂躙でもしている頃だろう。あの村の人間も、アイゼンハルト――ひいては帝国書院に感謝しているに違いない」
「……つかぬことをお伺いしますが、結局アイゼンハルトさまは何者なんですか。神蝕現象すら見たことがありませんし」
「そうだな……きみは例えば魔王軍の魔導使いと事を構えることになったとして、どうすれば勝てると思う?」
「え、や、それは」
「これはテストでも何でもないから心配しなくていい。ある者は、仲間の力を借りると答えた。ある者は、弱点を突くと答えた。ある者は、持久戦に持ち込むと。皆それぞれの答えがあるだろう。そして僕であれば、そのさらに上を行く魔導で蹂躙すると答える」
「……はあ」
そりゃ強いもんなあんたは、という意味合いを含んだ副官の困惑した声をよそに、アスタルテはワイングラスを回して温度を調節しながら。
だが、と一呼吸おいて続ける。
「アイゼンハルトは違う。あいつほど卑怯で、あいつほど正々堂々とした奴は他に居ない」
アスタルテすら認知しないところで、たった今アイゼンハルトがトロールと魔族を相手にしているとは知らず、しかし敗北など全く考えていないアスタルテは笑う。
「奴はどこまで行っても頼るのは己の武技のみ。その類稀な才能を活かした、卓越した二槍流を駆使して敵を穿つ。それだけだ」
でも、それでは、と部下が口を挟むより先にアスタルテは言う。
「あいつは魔導が使えないと言ったが、あれは語弊がある。たった一つ使えるものがあるとすれば、それは奴の神蝕現象を簡易化したもの。そして奴の望みそのもの」
「望み、ですか」
「どんな人間にも、魔族にも、多かれ少なかれ魔素がある。魔族の場合は保有量が多く、それゆえ見てくれよりも強い腕力や魔導を扱える。分かるな」
「はい」
「しかし奴の前では尽く無意味。奴の魔導は全ての魔導へのカウンターとなり得る神域の魔導。全ての魔族を、全ての人間を、"魔素の恩恵を一切受けられない"自分と同等の存在へと引きずり下ろす広域魔素停止結界」
「っ……じゃあ、魔族も人間程度の力しか。でもそうしたら第二席も」
「言ったろう? あいつが頼るのは己の武技のみ。あいつ以上の武者はこの世に存在せず、用いるのは敵の持ち味全てを封じる能力。故に最強、故に無敗、それが帝国書院において最高の魔導司書、アイゼンハルト・K・ファンギーニ。そして、その神蝕現象――」
神蝕現象【国士無双】
「あれに勝てる者など、魔王軍にあってもそうは居ないだろう」
「なるほど、全て理解いたしました。……あの、そういえば」
「うん?」
どうかしたか、とアスタルテは手元の書物に目を戻しながら問いかけた。
副官の方は未だ困惑した表情で、一つだけの心残りを吐き出す。
「……なんで、コミット諜報員も残したので?」
「ああ、それは――」
――パメラ村長の家(夜)
窓から見える光景に声を失っていたのは、何もアンナだけの話ではなかった。
先ほどの地震と、弾けるような爆音はパメラ森林の方角から聞こえたもの。
そしてこの窓は直接パメラ森林を眺められる位置にあり――つまるところ、何が起きているのかを見ることが出来る特等席だった。
星々の下に、何かが噴き上がった。
それがトロールであることに気が付いたのは、アンナともう一人――村長の息子であるドラフ。比較的目が良いのか、それとも仲間を率いるだけあってポテンシャルは高いのか。
アンナにとってそのあたりはどうでも良かったが、勝手に怖気づいているところを見ると煩わしいという気持ちが先行する。
「と、トロール!? 馬鹿な、なんでこんなところに!? あんなもんが村に来たら俺たち全滅だ!!」
「全滅するのはトロールたちですよ」
「はあ!?」
アンナの言葉に一瞬の混乱、しかし彼女が窓から一切目を離していないところを見るや、ドラフも目線を夜闇に戻す。
跳躍したように見えたトロールの体勢が、変だ。
まるで背中から突き上げられたように――そう気づいた瞬間、新たな影が上空に映る。
二本の槍を携えた男。
右手に持った槍を振り払うと同時、トロールは地面に叩きつけられるように落下していく。
と、よろよろと翼の生えた男が上空に浮かぶのが見えた。
なんだか足取りもとい翼取りもおぼつかない、おそらくは魔族。
ここからでは声も何も聞こえないが、それでもなんだか必死に逃げているのではないかというのだけは窺えた。しかし、その背中に下から飛んできたトロールがぶつけられて落下していく。
「……あのトロール、もう死んでるんじゃないか」
「別の個体です。少なくとも二体のトロールが居たみたいですね」
「一体でもこの村程度十分なのに、二体だと!?」
「それに魔族も居ます」
「ま、まさか……魔王軍……?」
「を、一人で蹂躙していらっしゃるのがアイゼンハルトさまです!」
「じょ、冗談じゃねえ! 魔王軍相手に、帝国書院っつったって勝てるわけがねえだろ!」
ふんす、と胸を張るアンナ。予想外にそこそこ大きいなどと考えている余裕は今のドラフには無い。下手を打てば、この村が壊滅するかもしれない状況だ。
アイゼンハルトがどの程度の強さなのかなど全く分からない現状、ドラフに残された道は一つだ。
「と、トロールがこっちに来るかもしれねえんだ、おい、逃げるぞ!」
「あ、ちょ、ドラフさん!?」
「待ってくださいよお!!」
待つか馬鹿野郎、と悪態を吐こうにも口の中が枯れて言葉が出ない。
扉を出て、バルコニーから地面へ飛び降りる。
もし二体以上トロールが居たら、今この村に来てもおかしくはないのだ。
村一番の怪力と言われているドラフだって、トロールと腕相撲なぞしようものなら一瞬で腕がちぎれるだろう。
冗談ではない。
こんなところで死ぬつもりは毛頭ない。
パメラ森林の方で騒ぎを起こしているのであれば、その逆へ向かうしかなかった。
そこでドラフは自らがランタンすら持ってきていないことに気付く。
彼に魔導の心得はないし、この村は豊かとはいえ、魔導灯を配備できるほどではない。
真っ暗だった。
それでも、方向がいまいちわからずとも、耳だけは聞こえる。
破砕音や、時折聞こえる何者かの悲鳴と反対の方角へ進めばいいだけ――
そう考えながら村長邸の前をずらかろうとするドラフの元に響く声。
どこに行ったんですかー! ドラフさーん!!
とぽつぽつ声が聞こえ始めて、心の中で"辞めろ"と叫ぶ。
トロールに見つかっちまったら終わりだ。それを理解しているからこその叫びだった。
だが、現実とは非情なものである。
ドラフを探していた男たちよりも先に、何かが地響きを立ててこちらへとやってくる。
重い何かが走ってきているような音。
冷静にトロールの歩数を考えれば、あのタイミングで逃げ出したところでたかが知れていた。パメラの村まで入ってきたトロールに、ドラフは第一村人としてこんにちは。
「ああああああああああああああああああああああああ!!」
顔をあげた。
黒いシルエットだけでも、その巨躯、それから先ほど窓から見た光景を重ねて目の前のモノがトロールであることくらい、自分ではどう足掻いても戦えない相手であることくらいは理解が出来る。
「ひっ! い、いやだ死にたくない死にたくない死にたくない!! く、来るなぁ!!」
半狂乱になって叫んでしまったのが運の尽きだったか。
走ってきたシルエット――トロールとドラフの目が合った。
「ひぁっ……!」
トロールは、どこか安堵したような顔をして。まるで、そうだよ人間はこうして怯えるものだ、と納得したような表情で、持っていたこん棒を振り上げた。
「う、うわあああああああああああああああああ!!」
「二十」
肉を穿つような鈍い音。
頭を抱えていたドラフの眼前にはためくのは黒のコート。
あまりの暗闇で本当に黒いのか、蒼なのか緑なのかは判別がつかないが、それでもはっきりと分かるのはその背中に刻まれた二本の筋だった。
II
その数字が何を意味するのか、今のドラフには見当がつかない。
だが、横倒れに崩れ落ちていくトロールの表情は印象的だった。
まるで今の自分のように、何かに怯えたその歪んだ顔。
「……ふう。……おや、確かあんさんは」
「あ、あああ……」
「可哀想に。そりゃ真夜中にこんなところでトロールと出くわしたら無理もあらんせんか」
ふう、と一つ息を吐いて。槍に着いた血を振り払うと、返り血一つない身体でアイゼンハルトは村長邸の方を振り向いた。
ランタンのおかげか明るい二階の窓から、アンナが顔を出して大手を振っている。
「おかえりなさいアイゼンハルトさま!! 流石です!!」
トロールが出てきたというのにも関わらず何の心配もしていなさそうな彼女のことは、信頼されていると思えばいいのか、果たして。
だが彼女の言葉に答えるなら、言うことは一つだ。
アイゼンハルトは笑って言った。
「――ただいま」
ところで。
「あの、アンナさんや。……素肌が、その」
「みぎゃあああああああああああああああああああああああああ!!」
先ほどのドラフの悲鳴とはくらべものにならないほど大きな絶叫が、周囲に響き渡った。
――白銀の街道
「彼女を置いていったのは、というよりも、そもそもアイゼンハルトの副官にした理由はね、勿論有能だからというのもあるけれど……それ以上に、きな臭いからさ。彼女が」
「きな臭い、ですか」
「ああ。運命の糸が、そう言っている」
アスタルテは最後にそう言って、ワイングラスを空にした。