気づくの、遅いです
「課長」
呼ばれて、佐伯はキーボードを打つ手を止めた。
斜め前の席から、水城紗季がこちらを見ている。
「はい」
「その返事、嫌な予感しかしないんですけど」
「まだ何も言ってないよ」
「資料、できました?」
佐伯は画面を見る。
つられて紗季も見る。
作りかけの報告書。
半分近くがまだ空欄だった。
画面右下の時計は、午後三時十二分。
紗季が何も言わなくなる。
「……今日だったっけ」
「今日です」
「明日じゃなくて?」
「今日です」
「五時?」
「四時半です」
佐伯はもう一度時計を見た。
「まずいな」
「はい」
「水城さん」
「嫌です」
「まだ何も頼んでないよ」
「顔に出てます」
「そこを何とか」
紗季はしばらく佐伯を見たあと、小さく息を吐いた。
「データください」
「ありがとうございます」
「お礼は完成してから聞きます」
「はい」
「あと、課長」
「何?」
「前回の資料をそのまま使って、数字だけ変えようとしてません?」
佐伯の手が止まった。
紗季の目が細くなる。
「……してません」
「フォルダ開いてください」
「はい」
「今すぐ」
隣の席で小川が噴き出した。
「課長、水城さんには絶対勝てないですね」
「勝負した覚えないんだけど」
「毎日負けてますよ」
紗季は取り合わず、自分の椅子を佐伯の横へ持ってきた。
「ここ」
モニターを指さす。
「この数字、先月です」
「あ、本当だ」
「ここも」
「本当だ」
「こっちも」
「……全部?」
紗季が横を向く。
「何を見て作ったんですか」
「前の資料」
「それは見れば分かります」
近い。
佐伯は椅子をわずかに引いた。
紗季は気にした様子もなく、その分だけモニターへ身体を寄せる。
「課長」
「はい」
「聞いてます?」
「聞いてます」
「じゃあ今、何て言いました?」
佐伯は答えられなかった。
「……すみません」
「何考えてたんですか」
「いや、別に」
佐伯が視線を逸らす。
紗季はその横顔を一度見てから、画面へ戻った。
「そうですか」
「何?」
「何でもありません」
今度は、ほんの少し声が柔らかかった。
「続けますよ」
「お願いします」
その日の資料は、四時二十二分に完成した。
*
「水城さん」
提出を終えた佐伯が、席へ戻る途中で声をかけた。
「はい」
「助かった。ありがとう」
「次からは自分でやってください」
「努力します」
「先月も聞きました」
「じゃあ、お礼にコーヒー奢るよ」
紗季の指がキーボードの上で止まった。
「コーヒーですか」
「ケーキでもいいけど」
「……覚えておきます」
「今日行く?」
紗季が顔を上げる。
「今日ですか」
「うん」
すぐに返事はなかった。
「今日は予定があります」
「そっか」
「はい」
「じゃあまた今度」
「……はい」
佐伯はそれだけ言って、自分の席へ戻った。
紗季もパソコンへ向き直る。
けれど、しばらく画面を見たままだった。
「水城さん」
隣から小川が声を潜める。
「今日、何かあるんですか?」
紗季はゆっくり顔を向けた。
「あります」
「何です?」
「帰る予定です」
「それ予定って言うんですか」
小川が笑う。
紗季は真顔だった。
「言います」
「課長と行けばよかったのに」
「……急だったので」
「ふうん」
「何ですか」
「いや、別に」
小川は笑いを堪えながら自分の画面へ戻った。
紗季も仕事へ戻る。
少し離れた席で、佐伯だけが何も知らずにメールを開いていた。
*
翌日。
昼前のコピー機の前で、佐伯は紙詰まりと格闘していた。
蓋を開ける。
閉める。
もう一度開ける。
「なんで取れないんだ、これ」
「課長」
背後から声がした。
振り返る。
「水城さん。ちょうどよかった」
「紙詰まりですか」
「分かる?」
「見れば」
紗季が隣に立つ。
「そこじゃないです」
「え?」
「こっち」
コピー機の側面にあるレバーを押す。
簡単にカバーが開いた。
佐伯は黙った。
「何ですか」
「いや……そんなところ開くんだなって」
「説明書、一度くらい読んだ方がいいですよ」
「水城さんがいるから大丈夫」
紗季の手が止まった。
「……そういうこと、さらっと言うんですね」
「何が?」
「何でもありません」
詰まった紙を抜き取り、差し出す。
佐伯も手を伸ばした。
指先が触れた。
「あ」
佐伯の手が止まる。
紗季も離さなかった。
紙の端を挟んだまま、二人の指だけが触れている。
佐伯が顔を上げた。
視線がぶつかる。
「……水城さん?」
「何ですか」
「いや」
佐伯が先に手を引いた。
紗季は紙を持ったまま、じっと彼を見る。
「課長」
「はい」
「今、何で手を引いたんですか」
「普通に取ろうと思って」
「触ったから?」
「まあ……それもあるけど」
「嫌でした?」
「そういう意味じゃないよ」
「じゃあ何ですか」
「近いから」
紗季が一度だけ瞬きをした。
「へえ」
「何?」
「課長って、そういうの苦手なんですね」
「そういうの?」
「女の人と近いの」
「まあ……得意ではないかな」
「そうですか」
紗季は紙を佐伯へ差し出し直した。
「はい」
今度は指が触れないように端を持っている。
「ありがとう」
「どういたしまして」
紗季が歩き出す。
二、三歩進んだところで、ふと思い出したように振り返った。
「課長」
「ん?」
「さっきくらいでも近いんですか」
「……近いよ」
紗季は一瞬だけ佐伯を見つめた。
「そうですか」
それだけ言って、今度こそ自分の席へ戻っていった。
*
昼休み。
佐伯が財布を手に立ち上がったところで、小川の声が聞こえた。
「水城さん、今日お昼どうします?」
「まだ決めてません」
「駅前に新しい店できたんですけど、一緒に行きません?」
佐伯はその横を通り過ぎようとした。
「課長」
小川に呼び止められる。
「課長もどうです?」
「僕も?」
「三人で」
佐伯が紗季を見る。
紗季もこちらを見ていた。
「ああ。いいよ」
「じゃあ決まりですね」
小川が笑う。
紗季は何も言わなかった。
会社を出る。
小川が紗季の隣を歩き、佐伯は半歩ほど前にいた。
「水城さん、あの店行ったことあります?」
「ないです」
「じゃあ今度、夜も行きません?」
「夜?」
「はい。二人で」
佐伯はそのまま歩く。
聞こえないふりをした。
別におかしくない。
小川は独身。
紗季も独身。
年齢も近い。
後ろから紗季の声がした。
「二人でですか」
「嫌です?」
間があった。
やがて足音が近づき、紗季が佐伯の横へ並ぶ。
「課長」
「ん?」
「何食べます?」
「僕?」
「はい」
「小川が誘ってくれた店でいいんじゃない?」
「課長は何が食べたいですか」
「何でもいいよ」
「一番困る答えです」
「じゃあ……和食」
「分かりました」
「決めるの早いね」
「課長が決めたので」
後ろから小川が声を上げる。
「僕の意見は?」
紗季が振り返る。
「あ」
「あ、じゃないですよ」
「忘れてません」
「今絶対忘れてたでしょ」
「そんなことないです」
小川が笑う。
佐伯もつられて笑った。
紗季は何も言わず、佐伯の隣を歩き続けた。
*
数日後。
取引先へ向かうため、佐伯と紗季はエレベーターホールで待っていた。
佐伯がスマホで電車の時間を確認していると、隣から視線を感じる。
「何?」
「動かないでください」
「え?」
紗季が一歩近づいた。
佐伯の背筋が反射的に伸びる。
「何?」
「ネクタイ」
紗季の手が胸元へ伸びた。
「曲がってます」
「ああ」
「朝、鏡見ました?」
「見たと思う」
「思う、じゃなくて」
結び目を指先でつまみ、ゆっくり位置を直していく。
ほんの少し顔を下げれば、紗季の髪に触れそうだった。
佐伯は廊下の先を見る。
「課長」
「はい」
「こっち向いてください」
「何で?」
「まっすぐか分からないので」
「水城さんが見れば分かるでしょ」
「姿勢が悪いです」
「はい」
仕方なく顔を向ける。
近い。
思っていた以上に。
目が合った。
紗季の指はまだ、ネクタイの結び目に触れている。
一秒。
二秒。
どちらも何も言わなかった。
「……何ですか」
紗季が先に口を開いた。
「いや」
「顔、赤くないですか」
「近いんだよ」
紗季の指が止まった。
「私が?」
「うん」
「他の人でも?」
「え?」
「他の女の人に同じことされたら、そうなるんですか」
「どうだろう」
佐伯が曖昧に笑う。
紗季は笑わなかった。
結び目から手を離す。
それでも、一歩下がるまでにわずかな間があった。
「……もういいです」
「ありがとう」
ちょうどエレベーターが到着する。
二人で乗り込む。
佐伯が行き先のボタンを押した。
「でも、水城さん」
「何ですか」
「よく気づくね。ネクタイまで」
「目に入っただけです」
「そこまで部下が見る?」
紗季は前を向いたまま答えた。
「課長がだらしないと、私が困ります」
「水城さんが?」
一拍。
「……部下が困ります」
言い直した。
佐伯は横顔を見る。
紗季は数字が変わっていく表示だけを見ていた。
*
その日の夕方。
紗季が資料を確認していると、佐伯が隣へ立った。
「水城さん」
「はい」
「ここ見てほしいんだけど」
佐伯が机に手をつき、画面を覗き込む。
今度は、佐伯の方が近かった。
「ここ」
「……はい」
「この計算で合ってる?」
「合ってます」
「本当?」
「はい」
「珍しく一発で合った」
「自分で言うんですか」
佐伯が笑う。
紗季は画面を見たままだ。
「水城さん」
「何ですか」
「今度は僕が近い?」
ようやく紗季が顔を上げた。
「……近いです」
「やっぱり」
佐伯が半歩下がる。
その動きを、紗季の目が追った。
「何?」
「何でもありません」
「近いって言ったから離れたのに」
「離れてとは言ってません」
「そうなの?」
「事実を言っただけです」
「じゃあ戻ろうか?」
紗季が黙った。
佐伯も黙る。
「……仕事してください」
「はい」
自分の席へ戻りかけて、佐伯は一度だけ振り返った。
紗季はもう画面を見ていた。
ただ、耳だけが少し赤かった。
*
金曜日。
定時を過ぎると、営業部に残っている人間もまばらになった。
佐伯は会議室から戻る途中、給湯室の前で足を止めた。
中から小川の声が聞こえた。
「水城さん」
「はい」
「やっぱり一度、二人でご飯行きません?」
佐伯の足が止まる。
聞くつもりはなかった。
そのまま通り過ぎればいい。
そう思ったのに、紗季の返事が聞こえてこない。
「この前も言いましたよね」
やがて紗季が言った。
「はい」
「どういう意味で誘ってます?」
「それ聞きます?」
小川が笑う。
「ちゃんと聞いておきたいので」
短い沈黙。
「僕、水城さんのこと気になってます」
佐伯は息を止めた。
胸の奥に、今まで感じたことのない引っかかりが生まれる。
「そうですか」
紗季の声はいつも通りだった。
「迷惑でした?」
「迷惑ではないです」
「じゃあ」
「でも、ごめんなさい」
紗季の声が重なる。
「そういうつもりはありません」
今度は小川が黙った。
「ああ」
やがて、苦笑する声。
「やっぱり駄目か」
「すみません」
「好きな人いるんです?」
返事がない。
佐伯は無意識に続きを待っていた。
「……います」
その一言で、胸の奥がまたざわついた。
「社内?」
「答えません」
「それ、ほぼ答えじゃないですか」
「違います」
「僕の知ってる人?」
「小川さん」
「はい」
「しつこいです」
「すみません」
小川が笑う。
そこで佐伯はようやく歩き出した。
自分の席へ戻る。
椅子に座り、メールを開く。
一通読む。
内容が入ってこない。
もう一度読む。
それでも駄目だった。
好きな人。
誰だ。
社内なのか。
そこまで考えたところで、佐伯は手を止めた。
「……何で僕が気にしてるんだ」
小さく呟いた。
*
週明け。
紗季は何事もなかったように仕事をしていた。
「課長、十一時から打ち合わせです」
「分かってます」
「本当に?」
「今日は大丈夫」
「資料は?」
「あります」
「名刺」
「持ってます」
「スマホ」
「あります」
「財布」
佐伯がポケットを触る。
止まる。
「あ」
紗季は何も言わずに見る。
「……机だ」
「取ってきてください」
「はい」
佐伯が財布を持って戻ると、紗季は腕時計を確認した。
「あと三分です」
「間に合う」
「エレベーターがすぐ来れば」
二人で廊下を歩く。
佐伯は何度か紗季を横目で見た。
「水城さん」
「はい」
「好きな人いるんだって?」
紗季の足が止まった。
佐伯も立ち止まる。
口にしてから、まずかったと思った。
「……何で知ってるんですか」
「いや」
「小川さんから?」
「違う」
紗季がじっと見てくる。
「聞いてたんですか」
「たまたま」
「どこからです?」
「途中から」
「どの辺です?」
「好きな人がいるってところ」
紗季の目が細くなる。
「ごめん」
「……別にいいです」
再び歩き始める。
佐伯も追いつく。
「社内?」
紗季の足がまた止まりかけた。
「課長まで聞くんですか」
「ちょっと気になって」
「どうして?」
「どうしてって」
「どうして気になるんですか」
佐伯は答えられなかった。
紗季は前を向かない。
答えを待っている。
「……部下だから?」
やっと言う。
紗季は数秒、佐伯を見た。
「そうですか」
それだけだった。
歩く速度が少し上がる。
「水城さん」
「急いでください。遅れます」
今度は追いついても、何も聞けなかった。
*
昼休み。
「課長」
顔を上げると、小川が立っていた。
「何?」
「この前のこと、聞きました?」
「この前?」
「水城さん」
佐伯は一瞬だけ黙った。
それだけで、小川は察したらしい。
「あ。聞いたんだ」
「たまたまね」
「そうですか」
小川はそれ以上追及しなかった。
「僕、水城さんのことは諦めます」
「……そっか」
「はい」
「残念だったな」
「まあ、仕方ないです」
小川はそう言って笑う。
帰りかけて、振り返った。
「ただ、課長」
「何?」
「もうちょっと周り見た方がいいですよ」
「仕事の話?」
小川は一瞬ぽかんとしたあと、吹き出した。
「……もういいです」
「何だよ」
「何でもないです」
そのまま行ってしまった。
佐伯は首を傾げる。
席へ戻る途中、紗季と目が合った。
いつもなら、先に目を逸らすのは佐伯だった。
その日は紗季の方だった。
佐伯はしばらく、その横顔を見ていた。
*
夕方から雨が降った。
仕事を終えた佐伯が窓の外を見ると、かなり強い。
「最悪だな」
「傘ないんですか」
隣から紗季の声。
「ない」
「天気予報見なかったんですか」
「朝は晴れてたから」
「夕方から雨って出てました」
「水城さん、傘ある?」
「あります」
「さすが」
佐伯は窓をもう一度見る。
「コンビニまで走るかな」
「入ります?」
「え?」
紗季が折りたたみ傘を持ち上げる。
「駅までなら」
「二人で?」
「嫌ならいいです」
「いや。助かる」
会社を出る。
傘は二人で入るには、少し小さかった。
佐伯が外側を歩く。
歩き始めてすぐ、右肩に雨が当たった。
紗季が傘を佐伯側へ寄せる。
「課長、濡れてます」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないです」
「水城さんが濡れるよ」
「じゃあ、もう少しこっち来てください」
言われるまま半歩寄る。
肩が触れた。
次の一歩で離れる。
また触れる。
佐伯は前を見る。
「課長」
「何?」
「また赤くなってます?」
「見ないで」
紗季が笑った。
「本当に弱いですね」
「何が」
「近いの」
「水城さんが近すぎるんだよ」
「私は普通です」
「普通じゃないよ」
「そうですか」
雨音だけが続く。
しばらくして、紗季が口を開いた。
「課長」
「うん」
「私が近いの、嫌ですか」
さっきまでとは違う声だった。
佐伯は横を見る。
紗季は前を向いたまま。
ふざけて聞いているわけではない。
それくらいは、佐伯にも分かった。
「嫌じゃないよ」
考えるより先に答えていた。
紗季がこちらを見る。
佐伯も今度は視線を逸らさなかった。
数秒だけ。
先に前を向いたのは紗季だった。
「……そうですか」
持ち手を握る手が少し動き、傘がさらに佐伯側へ寄った。
二人の肩は、それから駅まで離れなかった。
*
翌朝。
佐伯の机に缶コーヒーが一本置かれていた。
付箋には、
『昨日のお礼です』
とだけ書いてある。
佐伯は缶を持ち上げた。
まだ温かい。
「逆じゃない?」
紗季が顔を上げる。
「何がですか」
「傘に入れてもらったの、僕だよ」
「でも課長、肩濡れてたので」
「それくらいで?」
「それくらいです」
佐伯が缶を開ける。
「ありがとう」
「はい」
一口飲んだ。
「おいしい」
「缶コーヒーですよ」
「知ってる。でもおいしい」
紗季の視線が、缶から佐伯へ移る。
すぐにパソコンへ戻った。
「……そうですか」
佐伯は缶をもう一口飲んだ。
昨日までと同じ味のはずなのに、不思議と今日は少し違った。
*
その日の午後。
佐伯は紗季の席へ行った。
「水城さん」
「はい」
「今日、仕事終わったあと時間ある?」
紗季の手が止まった。
「ありますけど」
「コーヒー」
「え?」
「奢る約束してたでしょ」
紗季が佐伯を見る。
「覚えてたんですか」
「さすがに」
「……今日ですか」
「駄目?」
一瞬の間。
「二人で?」
佐伯は笑った。
「そのつもり」
紗季は佐伯の顔をじっと見た。
何かを確かめるように。
「行きます」
返事は早かった。
*
駅前のカフェ。
二人で向かい合って座る。
会社では毎日話している。
一緒に昼を食べることもある。
それなのに、会社を出て二人きりで向かい合うと、いつもとは空気が違った。
「好きなの頼んで」
佐伯がメニューを渡す。
「本当にコーヒーだけじゃないんですね」
「ケーキもどうぞ」
「じゃあ頼みます」
「遠慮ないね」
「課長が言ったんです」
紗季がメニューへ目を落とす。
口元がかすかに緩んでいた。
注文を終える。
コーヒーが届くまで、二人は仕事の話をした。
提出資料。
来週の予定。
取引先。
いつも会社でするような話。
佐伯は何度か別の話を切り出しかけて、そのたびにやめた。
三度目で、紗季が先に口を開いた。
「何ですか」
「え?」
「さっきから何か聞きたそうです」
「分かる?」
「分かります」
「水城さんには何でもバレるな」
「課長が分かりやすいだけです」
コーヒーが運ばれてくる。
紗季は砂糖を一つ入れた。
ゆっくりスプーンを回す。
「好きな人のことですか」
佐伯の手が止まった。
「……うん」
「そんなに気になります?」
「気になる」
「どうして?」
また、その質問だった。
佐伯はカップへ目を落とす。
「分からない」
「またそれですか」
「考えてるんだけど」
「答え、出ました?」
「まだ」
紗季はスプーンを置いた。
「じゃあ教えません」
「え?」
「課長は分からないで済ませるのに、私だけ言うのは嫌です」
「ずるくない?」
「課長に言われたくありません」
佐伯が笑う。
紗季もつられるように口元を緩めた。
けれど、すぐにカップへ目を落とした。
「じゃあ、一個だけ」
「何ですか」
「社内?」
「答えません」
「僕の知ってる人?」
「答えません」
「同じ部署?」
「答えません」
「年上?」
紗季が顔を上げる。
「尋問ですか」
「気になるんだよ」
「だから、どうしてですか」
佐伯は言葉を失った。
紗季は急かさない。
ただ、答えを待っている。
「……小川に言われたんだ」
「何をですか」
「もうちょっと周り見ろって」
「小川さんが?」
「うん」
紗季の眉がわずかに寄る。
「余計なこと言ってませんよね」
「何も教えてくれなかった」
「そうですか」
紗季がカップに手を伸ばす。
佐伯はその横顔を見ながら続けた。
「それで考えた」
「はい」
「ネクタイ直してくれた時とか」
紗季の手が止まる。
「傘とか」
「……はい」
「僕が近づいた時の水城さんとか」
「何ですか、それ」
「ちょっと変だった」
「課長ほどじゃありません」
「それは認める」
佐伯が笑う。
今度は紗季は笑わなかった。
「それで?」
「それで……」
佐伯は一度、息を吐いた。
「もしかしてって思った」
紗季の指先が、カップの取っ手にかかったまま止まる。
「何をですか」
佐伯はもう逃げなかった。
「僕なのかなって」
店内の音は変わっていない。
隣の席から笑い声がする。
食器の触れ合う音もする。
それなのに、その瞬間だけ、二人の間が妙に静かになった。
紗季がゆっくりカップから手を離した。
「遅いです」
佐伯は瞬きをする。
「え?」
「気づくの」
紗季が目を逸らした。
頬が赤くなっている。
「普通、もう少し早く気づきません?」
「じゃあ、本当に?」
「まだ何も言ってません」
「今ほぼ言ったよ」
「言ってません」
「水城さん」
「何ですか」
「僕?」
紗季は答えなかった。
唇を結び、窓の外を見る。
佐伯は待った。
ここで答えを迫るのは違う気がした。
しばらくして、紗季が小さく息を吐く。
「課長」
「うん」
「私が、小川さんと二人でご飯に行くって言ったらどうします?」
「嫌だと思う」
答えはすぐに出た。
紗季が振り返る。
「どうして?」
「……まだ分からない」
「またですか」
「でも、嫌なのは分かる」
紗季は黙った。
「水城さんに好きな人がいるって聞いた時も」
佐伯は続ける。
「嫌だった」
今度は「ちょっと」をつけなかった。
紗季の表情が変わる。
「誰なんだろうって、ずっと考えてた」
「……ずっと?」
「うん」
「仕事中も?」
「結構」
「仕事してください」
「はい」
紗季が笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
代わりに視線が下がる。
「課長」
「うん」
「私、こんな感じで言うつもりじゃなかったんです」
「うん」
「もっと普通に」
言葉が途切れた。
テーブルの下で、紗季の指が重なる。
「もう少し余裕ある感じで言えると思ってました」
佐伯は何も言わなかった。
紗季が顔を上げる。
会社ではほとんど見たことのない顔だった。
困っているような。
恥ずかしそうな。
それでも、逃げるつもりはない顔。
「無理みたいです」
「水城さん」
「私」
一度だけ息を吸う。
「課長が好きです」
佐伯は答えられなかった。
予想していた。
たぶん、そうなのだろうとも思っていた。
それでも本人の口から聞くと、全く違った。
紗季が数秒待つ。
「……何か言ってください」
「あ」
「それ以外でお願いします」
「ごめん」
「だから、それ以外です」
「びっくりしてる」
「そんなにですか」
「うん」
紗季が視線を落とした。
「……そうですよね」
その声で、佐伯はようやく我に返った。
「違う」
「何がですか」
「困ってるわけじゃない」
紗季が顔を上げる。
佐伯は言葉を選んだ。
今だけは、曖昧にしてはいけない気がした。
「むしろ嬉しい」
紗季の目が少し大きくなる。
「ただ」
佐伯は続ける。
「僕、自分が水城さんをどう思ってるのか、ちゃんと言葉にしたことなかったから」
「……はい」
「今日まで、水城さんに好きな人がいるって考えるだけで嫌だったのに、それがどういう意味なのかも考えてなかった」
紗季は何も言わない。
「だから、少しだけ考えさせて」
「……少し?」
「明日まで」
「短いですね」
「もう結構考えてるから」
そこでようやく、紗季の口元が少し動いた。
「じゃあ」
「うん」
「明日、仕事終わったら時間ください」
「分かった」
「二人で」
「うん」
「絶対ですよ」
「忘れないよ」
「課長なので信用できません」
「ひどいな」
「実績です」
佐伯が笑った。
紗季も笑う。
張り詰めていたものが、ようやく少しほどけた。
紗季がカップへ手を伸ばす。
一口飲んで、眉を寄せた。
「……冷たい」
「長く話しすぎたね」
「誰のせいですか」
「僕かな」
「そうです」
「ごめん」
紗季が佐伯を見る。
「今日は、それでもいいです」
「何が?」
「謝っても」
佐伯はまた笑った。
*
店を出る。
駅まで並んで歩いた。
行きと同じ道。
同じ街。
なのに、今は隣にいる紗季を妙に意識した。
何を話せばいいのか分からない。
紗季もいつもより口数が少なかった。
それでも、気まずくはなかった。
改札の前で紗季が立ち止まる。
「課長」
「ん?」
「明日」
「覚えてるよ」
「本当に?」
「忘れない」
「ならいいです」
紗季が一歩離れる。
「じゃあ」
「うん」
「また明日」
背を向ける。
二歩。
三歩。
「水城さん」
紗季が振り返った。
「何ですか」
呼び止めたくせに、佐伯は一瞬迷った。
それでも口にする。
「明日、昼も一緒に食べない?」
紗季の目が少し大きくなった。
「……二人でですか」
「できれば」
今度は紗季が黙る番だった。
ほんの数秒。
やがて、その表情がゆっくりほどける。
「はい」
それだけ言って、改札へ向かう。
佐伯はその背中を見送った。
明日伝える言葉を、もう一度考える。
けれど。
たぶん、考える必要はほとんど残っていなかった。




