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仕事の顔、そのあとの恋。

気づくの、遅いです

作者: 雨宮 弦
掲載日:2026/09/26

「課長」


呼ばれて、佐伯はキーボードを打つ手を止めた。


斜め前の席から、水城紗季がこちらを見ている。


「はい」


「その返事、嫌な予感しかしないんですけど」


「まだ何も言ってないよ」


「資料、できました?」


佐伯は画面を見る。


つられて紗季も見る。


作りかけの報告書。


半分近くがまだ空欄だった。


画面右下の時計は、午後三時十二分。


紗季が何も言わなくなる。


「……今日だったっけ」


「今日です」


「明日じゃなくて?」


「今日です」


「五時?」


「四時半です」


佐伯はもう一度時計を見た。


「まずいな」


「はい」


「水城さん」


「嫌です」


「まだ何も頼んでないよ」


「顔に出てます」


「そこを何とか」


紗季はしばらく佐伯を見たあと、小さく息を吐いた。


「データください」


「ありがとうございます」


「お礼は完成してから聞きます」


「はい」


「あと、課長」


「何?」


「前回の資料をそのまま使って、数字だけ変えようとしてません?」


佐伯の手が止まった。


紗季の目が細くなる。


「……してません」


「フォルダ開いてください」


「はい」


「今すぐ」


隣の席で小川が噴き出した。


「課長、水城さんには絶対勝てないですね」


「勝負した覚えないんだけど」


「毎日負けてますよ」


紗季は取り合わず、自分の椅子を佐伯の横へ持ってきた。


「ここ」


モニターを指さす。


「この数字、先月です」


「あ、本当だ」


「ここも」


「本当だ」


「こっちも」


「……全部?」


紗季が横を向く。


「何を見て作ったんですか」


「前の資料」


「それは見れば分かります」


近い。


佐伯は椅子をわずかに引いた。


紗季は気にした様子もなく、その分だけモニターへ身体を寄せる。


「課長」


「はい」


「聞いてます?」


「聞いてます」


「じゃあ今、何て言いました?」


佐伯は答えられなかった。


「……すみません」


「何考えてたんですか」


「いや、別に」


佐伯が視線を逸らす。


紗季はその横顔を一度見てから、画面へ戻った。


「そうですか」


「何?」


「何でもありません」


今度は、ほんの少し声が柔らかかった。


「続けますよ」


「お願いします」


その日の資料は、四時二十二分に完成した。


*


「水城さん」


提出を終えた佐伯が、席へ戻る途中で声をかけた。


「はい」


「助かった。ありがとう」


「次からは自分でやってください」


「努力します」


「先月も聞きました」


「じゃあ、お礼にコーヒー奢るよ」


紗季の指がキーボードの上で止まった。


「コーヒーですか」


「ケーキでもいいけど」


「……覚えておきます」


「今日行く?」


紗季が顔を上げる。


「今日ですか」


「うん」


すぐに返事はなかった。


「今日は予定があります」


「そっか」


「はい」


「じゃあまた今度」


「……はい」


佐伯はそれだけ言って、自分の席へ戻った。


紗季もパソコンへ向き直る。


けれど、しばらく画面を見たままだった。


「水城さん」


隣から小川が声を潜める。


「今日、何かあるんですか?」


紗季はゆっくり顔を向けた。


「あります」


「何です?」


「帰る予定です」


「それ予定って言うんですか」


小川が笑う。


紗季は真顔だった。


「言います」


「課長と行けばよかったのに」


「……急だったので」


「ふうん」


「何ですか」


「いや、別に」


小川は笑いを堪えながら自分の画面へ戻った。


紗季も仕事へ戻る。


少し離れた席で、佐伯だけが何も知らずにメールを開いていた。


*


翌日。


昼前のコピー機の前で、佐伯は紙詰まりと格闘していた。


蓋を開ける。


閉める。


もう一度開ける。


「なんで取れないんだ、これ」


「課長」


背後から声がした。


振り返る。


「水城さん。ちょうどよかった」


「紙詰まりですか」


「分かる?」


「見れば」


紗季が隣に立つ。


「そこじゃないです」


「え?」


「こっち」


コピー機の側面にあるレバーを押す。


簡単にカバーが開いた。


佐伯は黙った。


「何ですか」


「いや……そんなところ開くんだなって」


「説明書、一度くらい読んだ方がいいですよ」


「水城さんがいるから大丈夫」


紗季の手が止まった。


「……そういうこと、さらっと言うんですね」


「何が?」


「何でもありません」


詰まった紙を抜き取り、差し出す。


佐伯も手を伸ばした。


指先が触れた。


「あ」


佐伯の手が止まる。


紗季も離さなかった。


紙の端を挟んだまま、二人の指だけが触れている。


佐伯が顔を上げた。


視線がぶつかる。


「……水城さん?」


「何ですか」


「いや」


佐伯が先に手を引いた。


紗季は紙を持ったまま、じっと彼を見る。


「課長」


「はい」


「今、何で手を引いたんですか」


「普通に取ろうと思って」


「触ったから?」


「まあ……それもあるけど」


「嫌でした?」


「そういう意味じゃないよ」


「じゃあ何ですか」


「近いから」


紗季が一度だけ瞬きをした。


「へえ」


「何?」


「課長って、そういうの苦手なんですね」


「そういうの?」


「女の人と近いの」


「まあ……得意ではないかな」


「そうですか」


紗季は紙を佐伯へ差し出し直した。


「はい」


今度は指が触れないように端を持っている。


「ありがとう」


「どういたしまして」


紗季が歩き出す。


二、三歩進んだところで、ふと思い出したように振り返った。


「課長」


「ん?」


「さっきくらいでも近いんですか」


「……近いよ」


紗季は一瞬だけ佐伯を見つめた。


「そうですか」


それだけ言って、今度こそ自分の席へ戻っていった。


*


昼休み。


佐伯が財布を手に立ち上がったところで、小川の声が聞こえた。


「水城さん、今日お昼どうします?」


「まだ決めてません」


「駅前に新しい店できたんですけど、一緒に行きません?」


佐伯はその横を通り過ぎようとした。


「課長」


小川に呼び止められる。


「課長もどうです?」


「僕も?」


「三人で」


佐伯が紗季を見る。


紗季もこちらを見ていた。


「ああ。いいよ」


「じゃあ決まりですね」


小川が笑う。


紗季は何も言わなかった。


会社を出る。


小川が紗季の隣を歩き、佐伯は半歩ほど前にいた。


「水城さん、あの店行ったことあります?」


「ないです」


「じゃあ今度、夜も行きません?」


「夜?」


「はい。二人で」


佐伯はそのまま歩く。


聞こえないふりをした。


別におかしくない。


小川は独身。


紗季も独身。


年齢も近い。


後ろから紗季の声がした。


「二人でですか」


「嫌です?」


間があった。


やがて足音が近づき、紗季が佐伯の横へ並ぶ。


「課長」


「ん?」


「何食べます?」


「僕?」


「はい」


「小川が誘ってくれた店でいいんじゃない?」


「課長は何が食べたいですか」


「何でもいいよ」


「一番困る答えです」


「じゃあ……和食」


「分かりました」


「決めるの早いね」


「課長が決めたので」


後ろから小川が声を上げる。


「僕の意見は?」


紗季が振り返る。


「あ」


「あ、じゃないですよ」


「忘れてません」


「今絶対忘れてたでしょ」


「そんなことないです」


小川が笑う。


佐伯もつられて笑った。


紗季は何も言わず、佐伯の隣を歩き続けた。


*


数日後。


取引先へ向かうため、佐伯と紗季はエレベーターホールで待っていた。


佐伯がスマホで電車の時間を確認していると、隣から視線を感じる。


「何?」


「動かないでください」


「え?」


紗季が一歩近づいた。


佐伯の背筋が反射的に伸びる。


「何?」


「ネクタイ」


紗季の手が胸元へ伸びた。


「曲がってます」


「ああ」


「朝、鏡見ました?」


「見たと思う」


「思う、じゃなくて」


結び目を指先でつまみ、ゆっくり位置を直していく。


ほんの少し顔を下げれば、紗季の髪に触れそうだった。


佐伯は廊下の先を見る。


「課長」


「はい」


「こっち向いてください」


「何で?」


「まっすぐか分からないので」


「水城さんが見れば分かるでしょ」


「姿勢が悪いです」


「はい」


仕方なく顔を向ける。


近い。


思っていた以上に。


目が合った。


紗季の指はまだ、ネクタイの結び目に触れている。


一秒。


二秒。


どちらも何も言わなかった。


「……何ですか」


紗季が先に口を開いた。


「いや」


「顔、赤くないですか」


「近いんだよ」


紗季の指が止まった。


「私が?」


「うん」


「他の人でも?」


「え?」


「他の女の人に同じことされたら、そうなるんですか」


「どうだろう」


佐伯が曖昧に笑う。


紗季は笑わなかった。


結び目から手を離す。


それでも、一歩下がるまでにわずかな間があった。


「……もういいです」


「ありがとう」


ちょうどエレベーターが到着する。


二人で乗り込む。


佐伯が行き先のボタンを押した。


「でも、水城さん」


「何ですか」


「よく気づくね。ネクタイまで」


「目に入っただけです」


「そこまで部下が見る?」


紗季は前を向いたまま答えた。


「課長がだらしないと、私が困ります」


「水城さんが?」


一拍。


「……部下が困ります」


言い直した。


佐伯は横顔を見る。


紗季は数字が変わっていく表示だけを見ていた。


*


その日の夕方。


紗季が資料を確認していると、佐伯が隣へ立った。


「水城さん」


「はい」


「ここ見てほしいんだけど」


佐伯が机に手をつき、画面を覗き込む。


今度は、佐伯の方が近かった。


「ここ」


「……はい」


「この計算で合ってる?」


「合ってます」


「本当?」


「はい」


「珍しく一発で合った」


「自分で言うんですか」


佐伯が笑う。


紗季は画面を見たままだ。


「水城さん」


「何ですか」


「今度は僕が近い?」


ようやく紗季が顔を上げた。


「……近いです」


「やっぱり」


佐伯が半歩下がる。


その動きを、紗季の目が追った。


「何?」


「何でもありません」


「近いって言ったから離れたのに」


「離れてとは言ってません」


「そうなの?」


「事実を言っただけです」


「じゃあ戻ろうか?」


紗季が黙った。


佐伯も黙る。


「……仕事してください」


「はい」


自分の席へ戻りかけて、佐伯は一度だけ振り返った。


紗季はもう画面を見ていた。


ただ、耳だけが少し赤かった。


*


金曜日。


定時を過ぎると、営業部に残っている人間もまばらになった。


佐伯は会議室から戻る途中、給湯室の前で足を止めた。


中から小川の声が聞こえた。


「水城さん」


「はい」


「やっぱり一度、二人でご飯行きません?」


佐伯の足が止まる。


聞くつもりはなかった。


そのまま通り過ぎればいい。


そう思ったのに、紗季の返事が聞こえてこない。


「この前も言いましたよね」


やがて紗季が言った。


「はい」


「どういう意味で誘ってます?」


「それ聞きます?」


小川が笑う。


「ちゃんと聞いておきたいので」


短い沈黙。


「僕、水城さんのこと気になってます」


佐伯は息を止めた。


胸の奥に、今まで感じたことのない引っかかりが生まれる。


「そうですか」


紗季の声はいつも通りだった。


「迷惑でした?」


「迷惑ではないです」


「じゃあ」


「でも、ごめんなさい」


紗季の声が重なる。


「そういうつもりはありません」


今度は小川が黙った。


「ああ」


やがて、苦笑する声。


「やっぱり駄目か」


「すみません」


「好きな人いるんです?」


返事がない。


佐伯は無意識に続きを待っていた。


「……います」


その一言で、胸の奥がまたざわついた。


「社内?」


「答えません」


「それ、ほぼ答えじゃないですか」


「違います」


「僕の知ってる人?」


「小川さん」


「はい」


「しつこいです」


「すみません」


小川が笑う。


そこで佐伯はようやく歩き出した。


自分の席へ戻る。


椅子に座り、メールを開く。


一通読む。


内容が入ってこない。


もう一度読む。


それでも駄目だった。


好きな人。


誰だ。


社内なのか。


そこまで考えたところで、佐伯は手を止めた。


「……何で僕が気にしてるんだ」


小さく呟いた。


*


週明け。


紗季は何事もなかったように仕事をしていた。


「課長、十一時から打ち合わせです」


「分かってます」


「本当に?」


「今日は大丈夫」


「資料は?」


「あります」


「名刺」


「持ってます」


「スマホ」


「あります」


「財布」


佐伯がポケットを触る。


止まる。


「あ」


紗季は何も言わずに見る。


「……机だ」


「取ってきてください」


「はい」


佐伯が財布を持って戻ると、紗季は腕時計を確認した。


「あと三分です」


「間に合う」


「エレベーターがすぐ来れば」


二人で廊下を歩く。


佐伯は何度か紗季を横目で見た。


「水城さん」


「はい」


「好きな人いるんだって?」


紗季の足が止まった。


佐伯も立ち止まる。


口にしてから、まずかったと思った。


「……何で知ってるんですか」


「いや」


「小川さんから?」


「違う」


紗季がじっと見てくる。


「聞いてたんですか」


「たまたま」


「どこからです?」


「途中から」


「どの辺です?」


「好きな人がいるってところ」


紗季の目が細くなる。


「ごめん」


「……別にいいです」


再び歩き始める。


佐伯も追いつく。


「社内?」


紗季の足がまた止まりかけた。


「課長まで聞くんですか」


「ちょっと気になって」


「どうして?」


「どうしてって」


「どうして気になるんですか」


佐伯は答えられなかった。


紗季は前を向かない。


答えを待っている。


「……部下だから?」


やっと言う。


紗季は数秒、佐伯を見た。


「そうですか」


それだけだった。


歩く速度が少し上がる。


「水城さん」


「急いでください。遅れます」


今度は追いついても、何も聞けなかった。


*


昼休み。


「課長」


顔を上げると、小川が立っていた。


「何?」


「この前のこと、聞きました?」


「この前?」


「水城さん」


佐伯は一瞬だけ黙った。


それだけで、小川は察したらしい。


「あ。聞いたんだ」


「たまたまね」


「そうですか」


小川はそれ以上追及しなかった。


「僕、水城さんのことは諦めます」


「……そっか」


「はい」


「残念だったな」


「まあ、仕方ないです」


小川はそう言って笑う。


帰りかけて、振り返った。


「ただ、課長」


「何?」


「もうちょっと周り見た方がいいですよ」


「仕事の話?」


小川は一瞬ぽかんとしたあと、吹き出した。


「……もういいです」


「何だよ」


「何でもないです」


そのまま行ってしまった。


佐伯は首を傾げる。


席へ戻る途中、紗季と目が合った。


いつもなら、先に目を逸らすのは佐伯だった。


その日は紗季の方だった。


佐伯はしばらく、その横顔を見ていた。


*


夕方から雨が降った。


仕事を終えた佐伯が窓の外を見ると、かなり強い。


「最悪だな」


「傘ないんですか」


隣から紗季の声。


「ない」


「天気予報見なかったんですか」


「朝は晴れてたから」


「夕方から雨って出てました」


「水城さん、傘ある?」


「あります」


「さすが」


佐伯は窓をもう一度見る。


「コンビニまで走るかな」


「入ります?」


「え?」


紗季が折りたたみ傘を持ち上げる。


「駅までなら」


「二人で?」


「嫌ならいいです」


「いや。助かる」


会社を出る。


傘は二人で入るには、少し小さかった。


佐伯が外側を歩く。


歩き始めてすぐ、右肩に雨が当たった。


紗季が傘を佐伯側へ寄せる。


「課長、濡れてます」


「大丈夫」


「大丈夫じゃないです」


「水城さんが濡れるよ」


「じゃあ、もう少しこっち来てください」


言われるまま半歩寄る。


肩が触れた。


次の一歩で離れる。


また触れる。


佐伯は前を見る。


「課長」


「何?」


「また赤くなってます?」


「見ないで」


紗季が笑った。


「本当に弱いですね」


「何が」


「近いの」


「水城さんが近すぎるんだよ」


「私は普通です」


「普通じゃないよ」


「そうですか」


雨音だけが続く。


しばらくして、紗季が口を開いた。


「課長」


「うん」


「私が近いの、嫌ですか」


さっきまでとは違う声だった。


佐伯は横を見る。


紗季は前を向いたまま。


ふざけて聞いているわけではない。


それくらいは、佐伯にも分かった。


「嫌じゃないよ」


考えるより先に答えていた。


紗季がこちらを見る。


佐伯も今度は視線を逸らさなかった。


数秒だけ。


先に前を向いたのは紗季だった。


「……そうですか」


持ち手を握る手が少し動き、傘がさらに佐伯側へ寄った。


二人の肩は、それから駅まで離れなかった。


*


翌朝。


佐伯の机に缶コーヒーが一本置かれていた。


付箋には、


『昨日のお礼です』


とだけ書いてある。


佐伯は缶を持ち上げた。


まだ温かい。


「逆じゃない?」


紗季が顔を上げる。


「何がですか」


「傘に入れてもらったの、僕だよ」


「でも課長、肩濡れてたので」


「それくらいで?」


「それくらいです」


佐伯が缶を開ける。


「ありがとう」


「はい」


一口飲んだ。


「おいしい」


「缶コーヒーですよ」


「知ってる。でもおいしい」


紗季の視線が、缶から佐伯へ移る。


すぐにパソコンへ戻った。


「……そうですか」


佐伯は缶をもう一口飲んだ。


昨日までと同じ味のはずなのに、不思議と今日は少し違った。


*


その日の午後。


佐伯は紗季の席へ行った。


「水城さん」


「はい」


「今日、仕事終わったあと時間ある?」


紗季の手が止まった。


「ありますけど」


「コーヒー」


「え?」


「奢る約束してたでしょ」


紗季が佐伯を見る。


「覚えてたんですか」


「さすがに」


「……今日ですか」


「駄目?」


一瞬の間。


「二人で?」


佐伯は笑った。


「そのつもり」


紗季は佐伯の顔をじっと見た。


何かを確かめるように。


「行きます」


返事は早かった。


*


駅前のカフェ。


二人で向かい合って座る。


会社では毎日話している。


一緒に昼を食べることもある。


それなのに、会社を出て二人きりで向かい合うと、いつもとは空気が違った。


「好きなの頼んで」


佐伯がメニューを渡す。


「本当にコーヒーだけじゃないんですね」


「ケーキもどうぞ」


「じゃあ頼みます」


「遠慮ないね」


「課長が言ったんです」


紗季がメニューへ目を落とす。


口元がかすかに緩んでいた。


注文を終える。


コーヒーが届くまで、二人は仕事の話をした。


提出資料。


来週の予定。


取引先。


いつも会社でするような話。


佐伯は何度か別の話を切り出しかけて、そのたびにやめた。


三度目で、紗季が先に口を開いた。


「何ですか」


「え?」


「さっきから何か聞きたそうです」


「分かる?」


「分かります」


「水城さんには何でもバレるな」


「課長が分かりやすいだけです」


コーヒーが運ばれてくる。


紗季は砂糖を一つ入れた。


ゆっくりスプーンを回す。


「好きな人のことですか」


佐伯の手が止まった。


「……うん」


「そんなに気になります?」


「気になる」


「どうして?」


また、その質問だった。


佐伯はカップへ目を落とす。


「分からない」


「またそれですか」


「考えてるんだけど」


「答え、出ました?」


「まだ」


紗季はスプーンを置いた。


「じゃあ教えません」


「え?」


「課長は分からないで済ませるのに、私だけ言うのは嫌です」


「ずるくない?」


「課長に言われたくありません」


佐伯が笑う。


紗季もつられるように口元を緩めた。


けれど、すぐにカップへ目を落とした。


「じゃあ、一個だけ」


「何ですか」


「社内?」


「答えません」


「僕の知ってる人?」


「答えません」


「同じ部署?」


「答えません」


「年上?」


紗季が顔を上げる。


「尋問ですか」


「気になるんだよ」


「だから、どうしてですか」


佐伯は言葉を失った。


紗季は急かさない。


ただ、答えを待っている。


「……小川に言われたんだ」


「何をですか」


「もうちょっと周り見ろって」


「小川さんが?」


「うん」


紗季の眉がわずかに寄る。


「余計なこと言ってませんよね」


「何も教えてくれなかった」


「そうですか」


紗季がカップに手を伸ばす。


佐伯はその横顔を見ながら続けた。


「それで考えた」


「はい」


「ネクタイ直してくれた時とか」


紗季の手が止まる。


「傘とか」


「……はい」


「僕が近づいた時の水城さんとか」


「何ですか、それ」


「ちょっと変だった」


「課長ほどじゃありません」


「それは認める」


佐伯が笑う。


今度は紗季は笑わなかった。


「それで?」


「それで……」


佐伯は一度、息を吐いた。


「もしかしてって思った」


紗季の指先が、カップの取っ手にかかったまま止まる。


「何をですか」


佐伯はもう逃げなかった。


「僕なのかなって」


店内の音は変わっていない。


隣の席から笑い声がする。


食器の触れ合う音もする。


それなのに、その瞬間だけ、二人の間が妙に静かになった。


紗季がゆっくりカップから手を離した。


「遅いです」


佐伯は瞬きをする。


「え?」


「気づくの」


紗季が目を逸らした。


頬が赤くなっている。


「普通、もう少し早く気づきません?」


「じゃあ、本当に?」


「まだ何も言ってません」


「今ほぼ言ったよ」


「言ってません」


「水城さん」


「何ですか」


「僕?」


紗季は答えなかった。


唇を結び、窓の外を見る。


佐伯は待った。


ここで答えを迫るのは違う気がした。


しばらくして、紗季が小さく息を吐く。


「課長」


「うん」


「私が、小川さんと二人でご飯に行くって言ったらどうします?」


「嫌だと思う」


答えはすぐに出た。


紗季が振り返る。


「どうして?」


「……まだ分からない」


「またですか」


「でも、嫌なのは分かる」


紗季は黙った。


「水城さんに好きな人がいるって聞いた時も」


佐伯は続ける。


「嫌だった」


今度は「ちょっと」をつけなかった。


紗季の表情が変わる。


「誰なんだろうって、ずっと考えてた」


「……ずっと?」


「うん」


「仕事中も?」


「結構」


「仕事してください」


「はい」


紗季が笑った。


けれど、その笑顔はすぐに消えた。


代わりに視線が下がる。


「課長」


「うん」


「私、こんな感じで言うつもりじゃなかったんです」


「うん」


「もっと普通に」


言葉が途切れた。


テーブルの下で、紗季の指が重なる。


「もう少し余裕ある感じで言えると思ってました」


佐伯は何も言わなかった。


紗季が顔を上げる。


会社ではほとんど見たことのない顔だった。


困っているような。


恥ずかしそうな。


それでも、逃げるつもりはない顔。


「無理みたいです」


「水城さん」


「私」


一度だけ息を吸う。


「課長が好きです」


佐伯は答えられなかった。


予想していた。


たぶん、そうなのだろうとも思っていた。


それでも本人の口から聞くと、全く違った。


紗季が数秒待つ。


「……何か言ってください」


「あ」


「それ以外でお願いします」


「ごめん」


「だから、それ以外です」


「びっくりしてる」


「そんなにですか」


「うん」


紗季が視線を落とした。


「……そうですよね」


その声で、佐伯はようやく我に返った。


「違う」


「何がですか」


「困ってるわけじゃない」


紗季が顔を上げる。


佐伯は言葉を選んだ。


今だけは、曖昧にしてはいけない気がした。


「むしろ嬉しい」


紗季の目が少し大きくなる。


「ただ」


佐伯は続ける。


「僕、自分が水城さんをどう思ってるのか、ちゃんと言葉にしたことなかったから」


「……はい」


「今日まで、水城さんに好きな人がいるって考えるだけで嫌だったのに、それがどういう意味なのかも考えてなかった」


紗季は何も言わない。


「だから、少しだけ考えさせて」


「……少し?」


「明日まで」


「短いですね」


「もう結構考えてるから」


そこでようやく、紗季の口元が少し動いた。


「じゃあ」


「うん」


「明日、仕事終わったら時間ください」


「分かった」


「二人で」


「うん」


「絶対ですよ」


「忘れないよ」


「課長なので信用できません」


「ひどいな」


「実績です」


佐伯が笑った。


紗季も笑う。


張り詰めていたものが、ようやく少しほどけた。


紗季がカップへ手を伸ばす。


一口飲んで、眉を寄せた。


「……冷たい」


「長く話しすぎたね」


「誰のせいですか」


「僕かな」


「そうです」


「ごめん」


紗季が佐伯を見る。


「今日は、それでもいいです」


「何が?」


「謝っても」


佐伯はまた笑った。


*


店を出る。


駅まで並んで歩いた。


行きと同じ道。


同じ街。


なのに、今は隣にいる紗季を妙に意識した。


何を話せばいいのか分からない。


紗季もいつもより口数が少なかった。


それでも、気まずくはなかった。


改札の前で紗季が立ち止まる。


「課長」


「ん?」


「明日」


「覚えてるよ」


「本当に?」


「忘れない」


「ならいいです」


紗季が一歩離れる。


「じゃあ」


「うん」


「また明日」


背を向ける。


二歩。


三歩。


「水城さん」


紗季が振り返った。


「何ですか」


呼び止めたくせに、佐伯は一瞬迷った。


それでも口にする。


「明日、昼も一緒に食べない?」


紗季の目が少し大きくなった。


「……二人でですか」


「できれば」


今度は紗季が黙る番だった。


ほんの数秒。


やがて、その表情がゆっくりほどける。


「はい」


それだけ言って、改札へ向かう。


佐伯はその背中を見送った。


明日伝える言葉を、もう一度考える。


けれど。


たぶん、考える必要はほとんど残っていなかった。

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