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掌編小説集

片足

掲載日:2026/02/02

 

 雨は降っていなかった。

 けれど地面は濡れていて、

 たぶん昨日からずっと、誰かが泣いている。

 それがこの土の色を決めている。

 そんな気がした。


 僕は靴を片方なくしたまま、

 歩いていたのか、立ち尽くしていたのか、もう思い出せない。

 ただ、かかとの内側に沈んだ布のやわらかさだけが、

 まだ僕の形を覚えていた。


 形を失った足は、

 ぬかるみの中で、ただじっとしている。


 泥は足の指のあいだへゆっくり入り込み、

 押し合いながら重なり、親指だけが、かろうじて前に出ていた。

 ほかの指は互いの境を失い、同じ場所にあるように感じられた。


 足の指が何本あるかなんて、生きているあいだ、意識したことはなかった。

 一本くらい欠けていたとしても、いまの僕にはわからない。

 そもそも、本当に五本そろっているのかどうかも、

 この泥の中では確かめようがなかった。


 数えようとすると、

 触覚のほうが先に崩れてしまう。

 指は触れ合っているはずなのに、

 一本、二本、と心の中で置いた数字だけが、

 ぬるりと横にずれていく。


 それに比べて、泥は僕よりも誠実だった。

 泥は、僕の形をよく覚えている。


 引き抜くと、五つ分のくぼみが残り、

 そこに雨粒の代わりに、あなたの血が流れ込む。

 ゆっくりと溜まり、色を深くしていく。

 それを見下ろしながら、

 この世界にまだ赤があったことを、僕は思い出していた。


 この赤は、あなたの体のどこから出てきたのだろう。

 胸か、腹か、喉か、それとも、あなたの膣か。


 わからないまま、僕はしゃがみ込み、

 泥に浮かんだ血の膜へ指を沈めた。


 泥は僕を拒まない。

 指先の輪郭に沿って自然に割れ、

 中へ、中へと導いていく。

 温かく、柔らかい。かつてあなたの膣に指を入れたときの感触。


 それが、僕がずっと欲しかったものなのだと思った。


 でも、それを認めたら終わる。

「終わる」という言葉が胸を裏返し、

 足の底から、熱いものがせり上がってくる。


 とにかく、どうしても嫌だった。

 あなたがいる、この世界が。


 あなたがいるから、

 世界はこんな形をしている。

 雨はただ落ちているだけなのに、

 僕が勝手に、あなたの涙と重ねてしまう。

 世界のあらゆる動きが、

 あなたを中心に配置されてしまう。


 あなたが生きている世界で、

 僕はいつだって余分だった。

 そこに、僕が僕のままでいられる理由はなかった。

 誰にも触れられないまま、内側だけで回っていた景色は濁り、

 積み上げてきた孤独の輪郭を、あなたは足元から踏み崩し、

 すべてを別のものに塗り替えてしまう。


 こんな世界、

 壊してしまいたかった。

 あなたが、許せなかった。


 世界を奪ったのはあなたで、

 僕の世界を壊したのもあなたで、

 僕という形を最後まで否定したのも、あなたなのに、

 あなたはいつも、正しい位置に立っていた。


 正しい。

 いつも、正しい。

 あなたは間違っていない。


 あなたが僕を理解できないのも、

 あなたが僕を愛さないのも、

 あなたが正しいからで、

 僕にとっては正しいという言葉の意味さえも曖昧なままだけれど、

 あなたはその二本の足で歩き続けていた。


 追いかけても、追いつかない。

 声をかけても、届かない。


 あなたの足を切り落とし、

 歩くことを奪えば、

 あなたは初めて、

 僕を見るのだろうか。


 あなたは下を向き、

 体重の行き場を探し、

 一歩というものの重さを、

 知るのだろうか。


 そんなことを考えた時点で、

 僕はもう、あなたを人として見ていなかったのかもしれない。


 そう。


 あなたを殺して、

 世界は嘘をやめた。


 世界が悪いとか、

 あなたが正しいとか、

 そんな話ではない。

 そう考えること自体が、ここでは余計だった。


 足元を見る。

 泥がある。

 指は埋まり、引き抜けば形が残る。


 あなたの割れた頭から血が流れ、

 頬を伝い落ちる速さは一定で、

 あなたの意識とは関係なく続いている。

 泥に触れると、色が混ざる。


 それだけのことが、

 前から起きている。


 僕の世界は、

 誰かを中心に回る必要がなかった。


 濡れた地面は、理由を持たない。

 色は、説明を要らない。

 誰かの涙という物語は、

 もう必要なかった。


 世界は中心を失い、

 正確になる。


 その正確さの中で、

 僕の世界は、確かに、僕の手に戻る。


 僕の世界のなかで、

 あなたはいつも美しかった。

 それは、あなたの意思じゃない。


 そう見えてしまう配置に、

 僕が世界を組み立てていただけだ。


 あなたは間違っていない。

 正しい位置に立ち、

 正しい足運びで、

 正しい方向へ進んでいく。


 その正しさが、

 僕の世界では光になった。


 光の届かない場所に、

 僕はいつも落ちていた。


 あなたが正しいから、

 僕は歪んだ。

 あなたが美しいから、

 僕は形を失った。


 でもそれは、

 あなたの罪じゃない。

 僕の世界の癖だ。


 だから言う。

 愛しているよ。


 この言葉が誰に向いているのか、僕にはもうわからないけれど、

 マリア、あなたを失った世界も美しいんだ。


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