片足
雨は降っていなかった。
けれど地面は濡れていて、
たぶん昨日からずっと、誰かが泣いている。
それがこの土の色を決めている。
そんな気がした。
僕は靴を片方なくしたまま、
歩いていたのか、
立ち尽くしていたのか、
もう思い出せないけれど、
ただ、踵の内側に沈んだ布のやわらかさだけが、
まだ僕の形を覚えていた。
形を失った足は、
ぬかるみの中で、ただじっとしている。
泥は足の指のあいだへゆっくり入り込み、
押し合いながら重なり、
親指だけが、かろうじて前に出て、
ほかの指は互いの境を失って、
同じ場所にあるように感じられた。
足の指が何本あるかなんて、
生きているあいだ、意識したことはなかった。
一本くらい欠けていたとしても、
いまの僕にはわからない。
そもそも、本当に五本そろっているのかどうかも、
この泥の中では確かめようがなかった。
数えようとすると、
触覚のほうが先に崩れて、
指は触れ合っているはずなのに、
一本、二本、と心の中で置いた数字だけが、
ぬるりと横にずれていく。
それに比べて、泥は僕よりも誠実だった。
泥は、僕の形をよく覚えている。
引き抜くと、五つ分のくぼみが残り、
そこに雨粒の代わりに、あなたの血が流れ込む。
ゆっくりと溜まり、色を深くしていく。
それを見下ろしながら、
この世界にまだ赤があったことを、
僕は思い出していた。
この赤はあなたの体のどこから出てきたのだろう。
胸か、腹か、喉か、それとも、あなたの膣か。
わからないまま、僕はしゃがみ込み、
泥に浮かんだ血の膜へ指を沈めた。
泥は僕を拒まない。
指先の輪郭に沿って自然に割れ、
中へ、中へと導いていく。
温かく、柔らかい。
かつてあなたの膣に指を入れたときの感触。
それが僕がずっと欲しかったものなのだと思った。
でも、それを認めたら終わる。
「終わる」という言葉が胸を裏返し、
足の底から、熱いものがせり上がってくる。
とにかく、どうしても嫌だった。
あなたがいる、この世界が。
あなたがいるから、
世界はこんな形をしている。
雨はただ落ちているだけなのに、
僕が勝手に、あなたの涙と重ねてしまう。
世界のあらゆる動きが、
あなたを中心に配置されてしまう。
あなたが生きている世界で、
僕はいつだって余分だった。
そこに、僕が僕のままでいられる理由はなかった。
誰にも触れられないまま、
内側だけで回っていた景色は濁り、
積み上げてきた孤独の輪郭を、
あなたは足元から踏み崩し、
すべてを別のものに塗り替えてしまう。
こんな世界、
壊してしまいたかった。
あなたが、許せなかった。
世界を奪ったのはあなたで、
僕の世界を壊したのもあなたで、
僕という形を最後まで否定したのも、
あなたなのに、
あなたはいつも、正しい位置に立っていた。
正しい。
いつも、正しい。
あなたは間違っていない。
あなたが僕を理解できないのも、
あなたが僕を愛さないのも、
あなたが正しいからで、
僕にとっては正しいという言葉の意味さえも、
曖昧なままだけれど、
あなたはその二本の足で歩き続けていた。
追いかけても、追いつかない。
声をかけても、届かない。
あなたの足を切り落とし、
歩くことを奪えば、
あなたは初めて、
僕を見るのだろうか。
あなたは下を向き、
体重の行き場を探し、
一歩というものの重さを、
知るのだろうか。
そんなことを考えた時点で、
僕はもう、あなたを人として見ていなかったのかもしれない。
そう。
あなたを殺して、
世界は嘘をやめた。
世界が悪いとか、
あなたが正しいとか、
そんな話ではない。
そう考えること自体がここでは余計だった。
足元を見る。
泥がある。
指は埋まり、引き抜けば形が残る。
あなたの割れた頭から血が流れ、
頬を伝い落ちる速さは一定で、
あなたの意識とは関係なく続いている。
泥に触れると、色が混ざる。
それだけのことが、起きている。
僕の世界は、
誰かを中心に回る必要がなかった。
濡れた地面は、理由を持たない。
色は、説明を要らない。
誰かの涙という物語は、
もう必要なかった。
世界は中心を失い、
正確になる。
その正確さの中で、
僕の世界は、確かに、僕の手に戻る。
僕の世界のなかで、
あなたはいつも美しかった。
それは、あなたの意思じゃない。
そう見えてしまう配置に、
僕が世界を組み立てていただけだ。
あなたは間違っていない。
正しい位置に立ち、
正しい足運びで、
正しい方向へ進んでいく。
その正しさが、
僕の光になった。
そして光の届かない場所に、
僕はいつも落ちていた。
あなたが正しいから、
僕は歪む。
あなたが美しいから、
僕は形を失う。
でもそれは、
あなたの罪じゃない。
僕の世界の癖だ。
だから言う。
愛しているよ。
マリア、あなたを失った世界も美しいんだ。




