第八話 両岸の争い
昨日の調査で得られた新たな情報とさらに深まった謎は、夜通し浩介の脳内で渦巻いていた。
寝つけないまま迎えた日曜の朝、彼はいつもより早くベッドから起き上がった。窓の外には、隣りのマンション越しに、昨日とは打って変わって澄みきった青空が広がっている。雪雲は東へと追い払われたようだった。
しかし、浩介の心は浮き立たなかった。情報がやや集まってきたことで、全貌の底知れなさに改めて気付かされる。今自分の見ている景色は全体の五割なのか、一割なのか。それさえも知る手がかりが全くない。一種の畏怖に近い感情さえも湧き起こってくる。
愛理。
彼は心の中で、その名前を反芻した。健太と名乗る少年が教えてくれた、謎めいた巫女の名前。その名を知ったことで、彼女の存在がより具体的な重みを持って彼に迫ってくる。
子供たちと遊ぶ時の、年相応の温かい笑顔。対して、川の向こうの橋脚を、まるで宿敵でも睨むかのように見つめる時の、近寄りがたいほど真剣な横顔。その二つの顔のギャップが、彼女の抱える秘密の大きさを物語っているようだ。
そして、あの地蔵。
水瀬神社の祠の脇にひっそりと隠されるように佇んでいた、顔の左側が大きく欠けた古い地蔵。川沿いに点在する、他のどの地蔵とも明らかに違った異質な存在。あれは間違いなく、この謎の中心に位置する重要なピースだと感じさせられる。だが、それが何を意味するのか、今の彼には見当もつかない。
(…もっと知る必要がある)
彼はベッドから這い出すと、コーヒーを淹れながらパソコンの電源を押した。昨日撮影した写真データを改めて確認する。
無数にプロットされた青い点の地蔵群。その中心に位置するたった一つの赤い点は顔の欠けた地蔵。これが何を意味しているのか。地図を読み解くための「凡例」が、今の彼にはなかった。
(文献だ。歴史的な裏付けが必要だ…)
現場での観察だけでは限界がある。彼は学生時代のフィールドワークで、そのことを嫌というほど学んでいた。現地は、その地に住む人々の生業の中で、時代に応じてその姿を変えていく。江戸期には不可欠な存在として、日々当たり前のように利用されていたものが、時の流れの中で不要になって消えていく。それは当然のことだった。
先日、砂町を歩いていたときに目にした親水公園の水場も、百年前は人々の暮らしを支える運河だったのだ。それも戦後、この地が東京のベッドタウンとなるにつれてその機能を失った。
その時代の情報は、意図して残された記録の中にしか存在できない。現地の物理的な痕跡と、文献に記された記録。その二つを突き合わせることで初めて、歴史の真実はその姿を現すのだ。
彼は朝食もそこそこに、外出の準備を始めた。目的地は決まっている。この地域の郷土史資料が豊富に揃っているであろう、江戸川区立の中央図書館だ。
浩介は西船橋から総武線に乗ると、江戸川を渡ってすぐの小岩で降りた。江戸川区、江東区は千葉方面から東京へと、東から西へ通勤客を運ぶための鉄道が発達している。総武線、京成本線、メトロ東西線、都営新宿線、京葉線…。
しかし、南北の移動手段が限られるのだ。公共交通と言えばバスしかない。鉄道駅から離れたところにある江戸川区役所も、バスかタクシー、自家用車でしかアクセスできないため、利便性のために移転計画が進められている。
そして中央図書館は区役所に近いところにある。彼は小岩駅前から都営バスに乗ると、区役所前のバス停で降りた。
休日の図書館は、穏やかで知的な空気に満ちていた。殺伐とした平日のオフィスとは全く異なる世界。
高い天井まで続く書架、ずらりと並んだ背表紙。ほんのりとした紙の匂いが漂い、ページをめくる微かな音だけが響く、静寂の空間。
書籍や資料に囲まれた図書館や史料館は、かつて彼が最も愛した場所であり、同時に自ら立ち去った場所でもあった。微かな感傷が胸を掠める。
浩介は図書館特有の紙とインクの匂いを深く吸い込むと、新たな謎を解決すべく、期待感を胸に郷土史のコーナーへと向かう。
彼はまず、江戸川区の公式な区史や、治水に関する行政資料から調査を始めた。膨大な記述の中から、葛西地域の新田開発の歴史、度重なる水害の記録、そして荒川放水路開削に至る経緯などを丹念に追っていく。必要と思われるページには閲覧室に用意されていた付箋を挟み、複写の手続を行う。
砂町商店街で出会った老婆が口にしていたように、昭和期まで荒川が氾濫することは珍しくなかった。数十年という時間は人間にとっては長くても、歴史という文脈ではつい最近のことだ。この地の歩みが水との闘いと切っても切れない関係であったことは、記録からも明らかだった。
江戸川区内の文化財を取り扱った区発行の資料には、水難事故の犠牲者を弔うため、あるいは水神の怒りを鎮めるために、川沿いに石仏や石碑が多数建立されたという記述があり、文化財一覧の中には水瀬神社の近隣で観察した地蔵尊もいくつか含まれていた。添えられたモノクロ写真に見覚えがある。
昨日、彼が見かけた多数の地蔵は、やはりそうした歴史の産物なのに違いなかった。
しかし、彼が探している「顔の欠けた地蔵」に関する特別な記述は、どこにも見当たらない。水瀬神社に関する記述もごくありふれたものばかりで、特別な伝承や巫女に関する言及は一切なかった。
(やはり、公の記録には残らない、何かがあるのか…)
浩介は一般向けの開架書庫では限界があると感じ、カウンターへ向かう。彼は橋脚の壁画や顔の欠けた地蔵には触れないまでも、土木コンサルタントとしてこの地の水害の歴史を紐解いているのだと、司書に来館目的を告げた。加えて閉架書庫にある一次資料の閲覧ができないかと。司書は少しの間考えると、責任者とおぼしき人物と相談した上で、彼を史料庫へ招き入れた。
史料庫の責任者と名乗る年輩の男性が、柔和な笑顔で彼に応対する。
「このたびはご来館ありがとうございます。なんでも葛西地区の水害の歴史を追っていらっしゃるとか」
「はい。月末納品の省庁案件で、地誌に基づいた荒川の水害に関する報告が必要なのですが、二次資料では限界がありまして」
「なるほど。ご用件は分かりました。しかしご存知かもしれませんが、葛西近辺の歴史資料は各地の史料館にあるものもあれば、大学に寄託して整理中のものも多いのです。ここに収蔵されているものは、江戸期以降の水瀬村や明治期に葛西村となる村々の村方文書がほとんどなのですが」
「……ありがとうございます。水瀬村の宝永期以降を中心に閲覧できますでしょうか」
「江戸期以降の水瀬村史料は、ずっと以前に整理は済んでいるのですが、遡及入力がまだでして、採録カードから申請してもらってもいいですか」
一般に歴史文書は、発見された状態で一括して〇〇文書という名が与えられ、公的機関の手で整理されることが多い。その際に一点ずつ文書番号、文書を示すタイトル、作成者、作成年、内容等を図書カードに採録して、史料目録を作成する。
それらを取りまとめてパソコンから入力してデータ化を行うと、ネット上で検索を行えるようになる。遡及入力がまだということは、整理はされて整理箱に収められており、閲覧可能ではあるが、カードから手作業で史料の概要を捉えて閲覧申請を行う必要があるということを示していた。
浩介は、史料庫の隅に設置されている木製の図書カード棚を左上から順に見ていった。件数はおそらく千点から二千点程度と多くはない。ここから水瀬村の江戸後期のものに絞ると、もっと少ないだろう。
江戸期から明治期にかけての古地図、明治および大正期の地誌、水瀬村の幕末までの村方文書、水瀬神社に関連する可能性のある文書。彼の元大学院生としての経験が、的確な史料選定を可能にした。
申請後しばらくすると、台車に乗せられた十数点の古い史料が、第一陣として運ばれてくる。全てが和紙に墨で書かれた崩し字の文書である。
彼は一つ目の巻紙を手に取った。「口上之覚」というタイトルのその書状は虫食いもなく、保存状態がよい。彼は慎重にその巻紙をほどき始めた。崩し字で書かれた難解な候文を、彼は食い入るように目で追っていく。それは最も集中でき、最も自分らしくいられる時間だった。
口上之覚
乍恐以書付奉願上候
私方去年春水害襲来之折
西宇喜田村武七方江
金参両弐分余米上ヶ越以而
貸付置申し候処
相不返申し候ニ付
度々催促仕リ候
…
天明四年甲辰七月
水瀬村 木村助右衛門
触口 船木喜兵衛様
天明四年と言えば、天明の飢饉が本格的に発生している十代将軍家治の治政。幕政は側用人の田沼意次が担っていた。
この書状を書いた水瀬村の木村助右衛門はある程度裕福な人物であったのだろう。前年春水害に困った西宇喜田村の武七へ大金を貸したが、返済されないので船木喜兵衛に仲裁を申し入れた。西宇喜田村は、現在の東葛西辺りにあった村だ。
「触口」というのは、庄屋の別名である。幕府を頂点とした行政の末端として、お上の指示や考えを村中に触れ回る役目としての呼び名だった。そして当時の庄屋は、行政の代行として年貢を取りまとめたりするだけでなく、周辺の諍いの仲裁役もこなしていたのだ。
水害というものは直接的な被害だけでなく、その後の困窮やそれに基づく人と人の不和も産むのである。それが続くと村と村の不和や騒動へと繋がっていく。それが分かる史料だった。
どれほどの時間が経っただろうか。彼がある古文書の読み解きに没頭していたその時。
ふと史料庫の入口に近い閲覧室の机で、誰かが椅子を引く気配がした。彼は、集中を乱されたことにわずかな苛立ちを覚えながら、顔を上げる。
そして、息を呑んだ。
そこにいたのは、愛理だった。
今日の彼女は、巫女装束ではなかった。白いシンプルなブラウスに、淡いピンクのロングスカート。髪は、後ろで一つに束ねられている。化粧気のないその顔は、巫女として会った時よりも幼く見え、どこにでもいる普通の大学生のように見える。しかし、彼女が纏う、静かでどこか人を寄せ付けない清冽な空気は、普段着であっても変わらなかった。
彼女もまた浩介の存在に気付き、驚いたように目を見開いている。その大きな黒い瞳は、戸惑いの色を浮かべたまま浩介を捉えていた。彼女もまさか、こんな場所で再会するとは思っていなかったのだろう。
「……」
「……」
二人とも、言葉を発することができず、気まずい沈黙が流れた。図書館の静寂が、やけに重く感じられる。先に口を開いたのは、浩介の方だった。彼は閲覧室まで出ると、ちいさな声で語りかける。
「こんにちは。奇遇、ですね」
声が少しだけ上ずってしまった。
「…こんにちは」
愛理は微かな声で答えたが、すぐに視線を逸らして、手元の分厚い郷土史の図録へと落としてしまった。その仕草に、まだ自分への警戒心が解けていないことが見て取れる。
浩介は、ここで会話を終わらせてはいけないと、必死で頭を働かせた。
「あなたも、何か調べ物ですか?」
「…はい。少し、学校の課題で…」
「学校?」
「…大学で、民俗学を」
「民俗学…!」
浩介は、思わず声を上げる。そして、すぐに周囲の視線に気付き、慌てて声を潜めた。「そうなんだ…。すごいな。実は、僕も昔、歴史を研究していて…」
「……そうなのですか?」
「はい。今は土木の仕事をしていて、荒川について調べています」
「どのようなことをお調べに?」
「荒川の水害についてです」
彼は勇気を出して、彼女の机へと一歩近付く。
「昨日、あなたを見かけた神社の近くで、これを見つけまして」
彼は、スマートフォンの画面に表示した、顔の欠けた地蔵の写真を見せた。愛理の肩が微かに強張る。
「このお地蔵様のこと、何かご存知ないですか? 」
愛理は写真から目を離し、浩介の顔を覗き込むようにじっと見つめる。こちらがどこまで知っているのか、探るような視線だった。やがて彼女は諦めたように、小さく息をつく。
「…そのお地蔵様は、水害で亡くなった方々を慰めるためのものだと、聞いております。それ以上は、わたくしも…」
やはり同じ答えだった。だがそこには拒絶だけでなく、深い悲しみと何かを呑み込んだ沈鬱な苦しみとが同居しているように、浩介には感じられた。
その時。
「お待たせいたしました。ご依頼の資料、追加分お持ちしました」
史料庫から声がして、先ほどの司書の女性が顔を出す。
「『葛西村砂村騒動之事』でございます。こちらに置いておきますね」
「あ、はい」
申請した件数が多かったので、司書が順次運んでくれているのだ。浩介は頷いたが、隣りでその会話を聞いていた愛理の顔から、さっと血の気が引いていくのを、彼は見逃さなかった。彼女は、何かに怯えるように立ち上がると、浩介に小さな声で言った。
「…わたくし、これで失礼します」
「あ、待って…!」
浩介が呼び止めるのも聞かず、彼女は足早に閲覧室を出て行ってしまった。
残された浩介は、呆然としながらも、思考を巡らせていた。あの資料。あれに、何か重要なことが書かれているのかもしれない。そして愛理は、自分がそれを見ることを恐れているのだ。
彼は史料庫に戻ると、高鳴る鼓動を抑えながら、和綴じの冊子を開いた。虫食いの跡がいくつかあるものの、保存状態はよさそうだ。表紙には、達筆な墨文字で「葛西村砂村騒動之事 明治廿三年 水瀬村」と記されていた。
(明治二十三年…)
彼は、慎重に最初のページをめくると、一文字一文字、その内容を目で追っていく。
そこに書かれていたのは、衝撃的な内容だった。
明治の中頃に発生した大水害。その際、葛西側の堤防決壊責任を巡って、川を挟んだ葛西村と砂村の間で、血の流れる激しい争いが起きたこと。多くの犠牲者が出たこと。その悲劇を二度と繰り返さないため、そして水害と諍いで亡くなった人々の魂を鎮めるため、両岸の人々が話し合い、川の神への祈りを捧げるための「水送り地蔵」を、両岸に建立したこと。
さらにはこの争いの戒めとして、中心となる地蔵の顔を、互いに反対側から見えるようにあえて「欠いた」のだと。当時の人びとはこちらと対岸の顔の欠けた地蔵を日々眺めながら、早まった行いを悔いたのだろう。
(…そういうこと、だったのか…)
浩介は、全身の力が抜けるような感覚を覚えた。全ての謎が、解けたように思える。両岸の対立の起源。多数の地蔵の意味。顔の欠けた地蔵の悲しい由来。それは悲劇的な物語だった。
砂町商店街で老婆から聞いた争いもこれだろうか。だが、明治二十三年というと百三十年以上前。老婆が生まれているはずはない。この騒動の後も、同じような諍いが何度も発生したのだろうか。そして地蔵たちは、それを何度も目にしてきたのだろうか。またそれは、両岸の神社の信仰対象となる神が異なることも、少なからず関係しているはずだった。
浩介は史料庫に戻ると、運ばれてくる全ての史料に目を通していった。葛西と砂町との争いについて記した史料がもう一件あったが、それは地域の古老たちへのインタビューを文字起こししたフィールドワークの記録で、戦後のもの。その中で水瀬神社氏子総代が語っていた。
『明治のころに対岸の砂町と大騒動が起こって、そのときに堤の切れた辺りを中心に、鎮魂の地蔵を作ったと聞いています。でもその後も、何度も揉めたんです。昭和に入ってからもね』
だが。
読み進めるうち、彼の心の隅に小さな、しかし無視できない違和感が生まれていた。
(……あの顔の欠けた地蔵、そんなに新しいか……?)
この言い伝えの通りなら、顔の欠けた地蔵が作られたのは、早くても明治二十三年以降になる。その周辺の地蔵は、江戸期から鎮魂のために建立されたものも混じっているだろうが、彼の目には顔の欠けた地蔵はもっと古い時代のものに見える。
それに、顔の欠けた地蔵と明治二十三年の大騒動を結び付ける証拠は、今のところこの史料一つしかない。表紙に水瀬村と書かれていることから、当時の役所で作成されたと思われる有力な証拠ではあるが、これが何らかの他の意図をもって作られた可能性もないとは言えなかった。できすぎた分かりやすい話には、適切な史料批判が必要だ。
浩介は顔を上げた。閲覧室の方も利用者が少なくなり、閉館の時間が迫っていた。窓の外からは、既に夕暮れの光が差し込んでいる。
(……待てよ)
彼はあることに気付く。両岸に顔の欠けた地蔵を安置したのであれば、砂町側にも顔の右半分がない地蔵があるはずだった。その裏を取ってから考えても遅くはない。
彼は、閲覧した古文書が全て手元にあることを確認すると、司書を呼んで返却の手続を行った。
図書館を出ると、まだ冷たい初春の風が、火照った彼の顔を撫でていく。彼は歩きながら、固く拳を握りしめていた。
謎はまだ終わらない。むしろ始まったばかりなのだ。その中心には、あの巫女、水瀬愛理がいる。彼女ともう一度、話さなければならない。そう強く思った。




