第七話 川辺の地蔵たち
季節は春を迎えていた。
春とはいえ、まだ三月上旬。肌寒い日が続いている。からりと晴れ上がった日が途切れ、ときどき季節外れの雪が舞ったり、冷たい春雨がしとしと降ったりする日が混じり始めると、東京の冬も終わりが近い。
先週末、浩介はついに首都高高架橋の橋脚に描かれた壁画を間近に眺めることができた。荒川と中川の境に聳え立つ橋脚に描かれたそれは、もはや単なる落書きではなく、まさに壁画と呼ぶにふさわしいものだった。
そして、間近で子細に観察することで、何らかの意図を込めたサインであるという思いが心の底から理解できたのである。彼は壁画の表現に、ある種の畏敬の念さえ感じ始めていた。
この一週間の間、デスクで仕事をこなしながらも、浩介は壁画のこと、出会った巫女のこと、そして砂町商店街で老婆から聞き出した両岸の諍いについて考え続けていた。
行政をクライアントとして年度末締めの案件を多数抱える関東ジオ・リサーチも、年間の最繁忙期を迎えている。
鳴り響く電話、飛び交う専門用語、クライアントである官公庁の意向という名の、見えざる圧力。彼は土木コンサルタントとして日々膨大なデータと格闘し、鈴木課長と衝突を繰り返しながらも、複数の報告書を並行して作成していた。その中でも最大の案件である富士山噴火時のリスク評価報告書は、リスクをありのままに表現しようとする浩介の意見は通らず、国土交通省が年度内予算で対策が可能と思われる、無難な表現に落ち着くことになった。
そんな灰色の世界と比べると、荒川にまつわる謎に満ちた世界は、彼の日常の中に彩りを与えていた。
通勤電車から見える橋脚の壁画は、やはり不定期にその表現を変えていた。間違いなく何者かが、何らかの目的を持って定期的に更新しているサイン。浩介の確信は深まるばかりだ。
しかしその確信は、同時に彼をさらなる疑問の迷宮へと誘うだけだった。誰が、一体どうやってあの場所に近付き、あれだけの規模の壁画を定期的に描き変えているのか? そして何よりも、その目的はいったい何なのか?
(…やはり、現場に何度も足を運んで、深く調べるしかないか)
彼は、葛西側に足を運んだ最初の調査で、あの巫女と出会った。彼女の存在は、謎を解き明かすどころか、さらに深い謎を彼に突きつけた。
そして先週末。次に彼が足を運んだ砂町側の調査では、荒川と中川を挟んだ両岸に何らかの対立がありそうな情報を得て、さらには壁画を間近で観察できるルートを見つけた。
しかし、得た情報は断片的で一つ一つの点でしかない。繋がりがない。これだけではまだ、何の類推も判断もできない。
彼は三月に入った今週末、再度葛西側を訪れることを決めた。前回は巫女との予期せぬ出会いに動揺して、周辺を十分に観察することができなかった。今回はより冷静に、かつ体系的に、あの土地が持つ情報を拾い集めるつもりだった。
土曜日は曇った肌寒い日だった。南岸低気圧のもたらした雪雲が、時折吹く強い風に小雪を舞わせていた。しかし、大雪になることはないとの予報だ。
浩介はいつものように西船橋から東西線各駅停車に乗り込んだ。天気のせいか、乗客は少なかった。シートに腰掛けた数人の若者が、黙ってスマートフォンを触っているか、眠りについているかだ。浩介も、遅い帰宅が続く毎日の中、暖房の効いた電車で心地よい揺れに身体を預けていると、自然と眠りに引き込まれていく。浦安を過ぎる頃まで、彼は短い時間ではあるが、深い眠りに落ちていた。
少しぼんやりした頭を抱えて西葛西駅に降り立った浩介は、まっすぐ中川沿いの遊歩道へと向かった。ひんやりした空気の中、少しずつ頭が冴えてくる。
歩くのは前回と同じ道だが、今回は彼の視点が違っていた。道の起伏、水路の跡、古い家屋の基礎の高さなど、土地の微地形に注意を払いながら歩く。この辺りは、江戸期の新田開発で生まれた土地だ。つまり、元々は海に近い湿地だった場所。水との闘いの歴史が、この街の至る所に刻印されているはずなのだ。
川沿いの遊歩道に到着すると、中川を隔てた向こうの中洲に、目的の落書きを視認する。彼はカメラと双眼鏡で前回同様の観察を短時間で終えると、今日の主目的である、周辺の物理的な調査を開始した。
まず、彼はあることに気付いた。遊歩道沿いの植え込みの中や道の脇に、古い石仏が点在しているのだ。そのほとんどは、風化が進んだ地蔵菩薩だった。最初に一体見つけた時は、特に気にも留めなかった。こうした水辺の地蔵は、水難事故の犠牲者を弔ったり、水害からの守護を願ったりするために、昔からよく建てられるものだからだ。
だが、二体、三体と見つけるうちに、彼はその数の多さに気付いた。偶然そこに祀られたというレベルではない。明らかに意図的に、この川沿いに配置されているように見えた。
(…水送り地蔵、か)
彼は、その言葉を思い出した。洪水の際に水の流れを鎮め、あるいは安全に地域の住民を避難させてくれるようにと願って建てられる地蔵のことだ。この地域が、いかに水害に苦しめられてきたかの証でもある。
浩介の研究者としての本能が疼き始めた。これは調査する価値がある。彼はスマートフォンの地図アプリを起動し、GPS機能を使って、地蔵を見つけるたびに、その位置を正確にプロットしていくことにした。学生時代のフィールドワークで、古墳や遺跡の分布を調査した時と、全く同じ作業だった。
一体一体、丁寧に観察し、前後左右から写真を撮影する。それぞれの地蔵は、作られた年代も大きさも、表情さえもが微妙に異なる。あるものは穏やかな笑みを浮かべているように見え、またあるものは、風化してのっぺらぼうに近い。誰かが供えたのだろう、色褪せた花や、ワンカップの酒が置かれているものもあった。この土地の人々の、ささやかな祈りの痕跡だ。
「うわっ!」
その時、子供の叫び声とボールが地面を跳ねる音がした。見ると、近くの広場で遊んでいた子供たちのサッカーボールが、コントロールを失ってこちらへ転がってくる。浩介が足でボールを止めると、一人の少年が息を切らしながら駆け寄ってきた。
「ありがとう、おじさん!」
「ああ、いいよ。気を付けてな」
浩介は、ボールを軽く蹴り返してやった。少年は、ぺこりと頭を下げてボールを追いかけていく。
浩介は、子供たちが遊ぶ、その平和な光景を眺めた。この日常のすぐそばに、あの不可解な謎が潜んでいる。そのギャップが、彼にはひどく奇妙なものに感じられるのだった。
彼は、地蔵の調査を再開する。広場の脇にあった地蔵に向けて写真を何枚か撮った時、先ほどの少年が、仲間たちと何か話した後で再び浩介のもとへやってきた。
「ねえ、おじさん」
「ん? どうした?」
「おじさん、何してるの? お地蔵さんの写真撮ってるの?」
少年は、好奇心に満ちた目で、浩介の首から提げたカメラを見ている。
「ああ。この辺りには、たくさんお地蔵さんがあるんだなと思ってね。何か、理由を知ってるかい?」
「うーん、よく知らない」
健太と名乗ったその少年は首を傾げた。
「でも、おばあちゃんが言ってたよ。昔、この川が溢れて、たくさんの人が死んじゃったから、その人たちが寂しくないように、いっぱいいるんだって」
「そうか…」
浩介は、胸にこみ上げるものを感じた。子供にそう語り伝えるほどに、水害の記憶は、この土地に深く刻まれているのだ。
「すぐそこの神社、いつも静かだけど、誰かいるのかい?」
浩介は、自然な流れを装って、水瀬神社の祠を指さした。
「うん、愛理お姉ちゃんがいるよ!」
健太がぱっと顔を輝かせる。
(…愛理)
浩介は、心の中でその名前を反芻した。美しい響きだと思った。
「愛理お姉ちゃん? どんな人なんだい?」
「すっごく優しいよ!」
健太の言葉に、周囲に集まっていた他の子供たちも「うんうん」と頷く。
「巫女さんの服を着ててね。時々ね、かくれんぼとか、一緒にしてくれるんだ! それに、僕がこの前、転んで膝から血が出たとき、愛理お姉ちゃんが『痛いの痛いの、飛んでけー』っておまじないしてくれたら、本当に痛いの、すぐ治ったんだよ!」
「へえ、すごいな」
「でもね」
別の少年が、少し声を潜めて言った。「時々、すっごく寂しそうな顔してる時があるよね」
「うん、あるある!」
健太も同意する。
「ベンチに座って、ずーっと向こうの橋を見てる時。話しかけちゃいけない感じなの。なんか、怒ってるみたいにも見えるし、泣きそうなのを我慢してるみたいにも見える。よくわかんないけど…」
子供たちの無邪気な言葉が、浩介の心に深く突き刺さった。遊んでくれる優しいお姉さん。そして、一人で川を見つめる、謎めいた巫女。愛理という名前を知ったことで、彼女の存在は、より具体的で、生身の重みを持って彼に迫ってくるようだった。彼女の中には、子供たちに見せる温かい「陽」の顔と、浩介が垣間見た、深い憂いを湛えた「陰」の顔がある。そしてその後者の顔が、あの壁画の謎と深く関わっていることは、もはや疑いようもなかった。
「じゃあね、おじさん!」
健太たちは、ボールを追いかけて広場の方へと駆けていった。浩介はその元気な後ろ姿を見送ると、再び地蔵の調査に戻った。しかし彼の思考は、先ほどとは少し違う段階に入っていた。ただの石仏の分布調査ではない。これは、愛理という一人の女性が抱える秘密の周辺調査なのだ。そう思うと、足元の地蔵一つ一つの存在がより重い意味を持って感じられるのだった。
彼は遊歩道をさらに上流へと歩き、地図上にピンを打ち続けていく。一体一体、丁寧に観察し、写真を撮り、特徴をメモする。その様は趣味の散策ではなく、大学院時代のフィールドワークそのものだった。風化の度合い、彫りの様式、台座の有無。専門家としての彼の目が、それぞれの石仏が持つ微細な差異を捉えていく。
十数体の地蔵をプロットし終えた頃、彼はある奇妙な規則性に気づいた。地蔵は全て、水瀬神社の祠を中心として、中川沿いの上下数百メートルという、極めて限定された範囲に集中している。まるで神社の境内が、この川沿いまで続いているかのように。あるいは、神社がこの地蔵群を管理していることの証左か。
その内に彼は、水瀬神社の祠の、すぐ目の前の川岸までやってきた。祠は遊歩道から少しだけ奥まった、こんもりとした古い松の木に囲まれた場所にある。季節外れの小雪が、その古い木造の社殿の屋根をうっすらと白く飾り始めていた。しん、と静まり返った空気は、都市の喧騒から切り離された、神聖な領域であることを感じさせる。浩介は、祠に軽く一礼し、その周辺を注意深く観察した。
(ここにも、あるな…)
彼は祠のすぐ脇、堤防に面した道に立つ数本の松の木の根元に、ひっそりと隠れるようにして、もう一体の地蔵が置かれているのに気付いた。他の地蔵と同じように、これも調査対象だ。彼は何気なく、その地蔵へと近付いていった。そしてその姿をまじまじと見て、息を呑む。
他の地蔵とは、明らかに違っていた。
まず、石の質が違う。これまで見てきた、風化しやすい砂岩でできた地蔵とは異なり、これは硬質な花崗岩でできているようだ。そのためか、全体の輪郭は、他よりも遥かにシャープさを保っている。だが明らかに、他よりも古い時代に作られたものであることが、その様式と、深い苔のむし方から見て取れた。表面には、鑿の削り跡のようなものが無数に残っている。
そして何よりも異様なのは、その顔だった。
顔の左側が、まるで巨大な力で抉り取られたかのように、ごっそりと欠けているのだ。
(…顔が、欠けている…)
それは、単なる風化や悪戯による損傷ではないようだ。もっと根源的な、暴力的な破壊の痕跡。あるいは、川を流れるうちに岩にでもぶつかって、砕けてしまったのか。欠けた断面は、地蔵の表面と同じくらい劣化しており、その破壊がおそらくは数百年もの昔に起こったことが見て取れた。
残された半分の顔は、穏やかとも、悲しんでいるとも取れる、不思議な表情を浮かべている。そのアンバランスさが、見る者に強烈な不安と畏怖の念を抱かせた。
浩介はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
なぜこれだけが違うのか?
なぜ顔が欠けている?
そしてなぜ、神社の祠のこんな目立たない場所に置かれている?
他の地蔵たちは、もっと開けた、道からよく見える場所に堂々と置かれていた。だがこの一体だけは、まるで何かから隠すかのように、木々の根元にひっそりと佇んでいる。
彼はスマートフォンの地図を開き、今しがたプロットした、この「顔の欠けた地蔵」のピンを、他の地蔵とは違う赤い色に変えた。それは彼の地図の上で、たくさんの青い点の中に浮かぶ、たった一つの異質な赤い点となった。
(これは、何か特別な意味がある…)
彼は確信した。他の多数の地蔵は、もしかするとこの一体の特異性を隠すための、カムフラージュなのではないか?
健太が言っていた「たくさんの人が死んじゃったから」。その言葉が、頭の中で反響する。もしこの顔の欠けた地蔵が、その「たくさんの人」の死を象徴する、特別な慰霊碑だとしたら? いや、それだけではない気がする。もっと別の、何らかの積極的な意味が、この異様な姿と配置には込められているのではないか。
雪が、少しずつ強くなってきた。白い綿のような雪が音もなく舞い降り、地蔵の欠けた顔の上に、静かに積もっていく。その光景はどこか幻想的で、同時にひどく哀しかった。浩介は寒さも忘れ、しばらくの間、その場から動くことができなかった。
その日の調査は、そこで終わりにした。これ以上ここにいても、新たな発見はないだろう。だが彼の頭の中は、今日得られた新たな情報でいっぱいだった。愛理という名前。川を見つめる彼女の寂しげな顔。地蔵の奇妙な配置。そして一体だけ存在する、顔の欠けた地蔵。
(もっと知る必要がある…もっと、深く…)
彼は強烈な知的渇望と、もどかしさを感じていた。これらのばらばらなピースを繋ぎ合わせるためには、決定的な情報が欠けている。それは現場での観察だけでは得られない、歴史的な背景、古文書等の文献的な裏付けだ。
帰り道、西葛西駅へ向かう足取りは重かったが、彼の心は燃えていた。灰色の日常に穿たれた亀裂は、今や彼を未知の世界へと引きずり込む、巨大な入口となっている。その先にあるのが真実なのか、それともただの妄想なのか。確かめるためには、進むしかない。
(…そうだ、図書館へ行こう)
彼の次の行動は、自然と決まっていた。この地域の歴史、特に水害と信仰に関する、より深い資料を探すのだ。水瀬神社に関する公になっていない記録。あるいは、この奇妙な地蔵群に関する何らかの記述。それらが見つかるかもしれない。明日の日曜日、朝一番で図書館へ向かうことを、彼は固く心に決めていた。




