第六話 宝永の濁流
【宝永四年(一七〇七年)秋】
荒川の流れが大きく江戸へと向きを変える、武蔵国葛飾郡の東の外れ。そこに、水瀬村と呼ばれる小さな集落があった。
江戸の市中からは丸一日かかるかどうかの距離。村高百石。肥沃とは言えないまでも、先祖代々受け継いできた田畑を耕し、葛西浦の新鮮な魚の恵みを受け取りながら、人々はささやかな暮らしを営んでいた。
夜明け前。東の空が白み始めるわずか前、村の中心にある水瀬神社の神主、水瀬正信は既に境内にいた。季節は秋に入り、朝晩が冷え込むようになってきている。まだ星が瞬く冷気の中、彼は手にした箒で、落ち葉ひとつないように掃き清められた玉砂利の上を、さらに丁寧に掃いていく。それは、父である先代から神職を継いで十年、一日も欠かしたことのない日課だった。掃き清めるのは物理的な塵芥だけではない。自らの心の澱をも払い、清浄な気持ちで神前に向かうための大切な儀式なのだ。
三十代半ばの正信の顔には、誠実さと年齢以上の落ち着きが滲んでいた。決して裕福ではないが、この小松川ほとりの水瀬村で神職として、そして一人の村人として満ち足りた日々を送っていた。
神社は村の外れの高台にあり、村を一目で見渡すことができる。彼は掃き清めた境内から見渡す村の景色が好きだった。朝靄の中に浮かび上がる茅葺屋根の家々、その向こうに広がる田畑、そして村を抱くようにゆったりと流れる小松川。
決して楽な暮らしではない。川や海は時に牙を剥き、作物の出来不出来は天候に左右される。だが人々は互いに助け合い、自然の恵みに感謝し、ささやかながらも懸命に生きていた。正信はそんな村と、そこに住む朴訥で心優しい村人たちを、心から愛していた。
「あなた、お早いですね。今朝は一段と冷えますから、無理なさらないでくださいね」
背後から、穏やかな声がかかった。妻の千代だ。彼女はいつの間にか起きてきて、夫のために白湯を用意してくれていた。
「ああ、千代か。ありがとう。もうすぐ夜が明ける。今日も一日、皆が息災でありますように、とな」
正信は、妻が差し出す湯呑みを両手で受け取り、温かさを感じながらゆっくりと口にした。千代は、黙って夫の隣に寄り添う。多くを語らずとも、二人の間には深い信頼と愛情が流れていた。
「とと様! かか様!」
母屋の方から、小さな足音が駆けてくる。数え五つになる一人息子の信太郎だ。寝間着のまま、眠そうな目をこすりながら二人に抱きついてきた。
「こら、信太郎。まだ寝ていていいのだぞ」正信は言いながらも、息子の柔らかい髪を優しく撫でた。この小さな存在が彼の何よりの宝であり、力の源だった。
「だって、とと様がいないと寂しいんだもん」
「そうかそうか。では、もう少ししたら、一緒に朝餉にしよう」
千代が微笑みながら息子を抱き上げる。ささやかだが、温かい家族の時間がそこにあった。正信はこの何気ない日常が、永遠に続くかのように感じていた。そして、それを守ることが自分の務めだと信じていた。
日中、正信は神職としての務めを果たす。祝詞をあげ、神棚を整え、村人たちの相談に乗る。この日も年老いた母親の病の平癒を願う男や、日照り続きで作物の心配をする百姓が、次々と神社を訪れた。正信は一人ひとりの話を丁寧に聞き、親身になって言葉をかけた。彼にできるのは神に祈り、人々の不安を和らげることだけだ。それでも村人たちは彼を頼りにしていた。正信の無欲で誠実な人柄、誰に対しても分け隔てなく接する利他的な姿勢は、村中で尊敬を集めていたのだ。
「神主様がお祈りしてくだされば、きっと大丈夫だ」
村人たちは、そう言って安堵の表情で帰っていく。正信は、その言葉に恐縮しながらも、彼らの期待に応えたいと強く願った。
だがその年の秋は、どこか様子がおかしかった。空には不気味な色の雲が流れ、富士の山からは、時折、腹の底に響くような低い地鳴りが聞こえてくる。井戸の水が濁ったり、川の魚が異常な動きを見せたりするといった噂も、村人たちの間で囁かれ始めていた。
「神主様、これは、何か良くないことの前触れじゃねえでしょうか…?」
年嵩の村人が、不安げに正信に尋ねる。
「…山の神様が、少しお怒りなのかもしれんな」正信は、努めて落ち着いた声で答えた。「しかし、我々が日々の務めを怠らず、真摯に祈りを捧げていれば、きっと大きな災いからお守りくださるはずだ。心配しすぎるな」
そう言って人々を安心させようと努めたが、彼自身の胸の内にも、拭いがたい不安が広がっていた。西の空に聳える富士の、あまりにも完璧で静謐な姿が、かえって嵐の前の静けさのように感じられてならなかった。
そして、それはいきなりやってきた。
旧暦神無月四日の昼過ぎ、昼八ツ(午後二時)の鐘が鳴る前の時分。正信が社務所で書物を広げていると、突如として大地が揺れ出した。地震だ。建物全体が激しく揺さぶられる。立っていられないほどではないが、その横揺れは生まれてこの方経験したことないほど、長い時間続いた。庫裏の方から何かが倒れ、陶器の割れる音が響く。
とはいえ、家が倒れるほどの揺れではなさそうだ。
「とと様! 」
揺れが収まりかけた頃、信太郎が社務所に飛び込んできた。
「おお!信太郎。なんともないか?」
「揺れてる!怖いよ!」
「はは。じきに収まる。ととの側におれ」
飛びついてくる信太郎を抱きしめながらも、正信の胸には暗雲が立ちこめていた。
数分続いた揺れは収まり、村には大きな被害もなかった。安心する村人たち。翌朝明け六ツ(午前六時)頃にも余震とみられるやや大きな揺れがあったが、それもすぐに収まった。
それから数日たつと、江戸城下は東海道や畿内から伝わってくる地震の噂で持ちきりになった。遠江から三河、河内、土佐の辺りまで大きな海嘯(津波)に襲われ、数万人の死者が出ているというのだ。後世、宝永地震と呼ばれることになる、和歌山県沖の南海トラフを震源とするマグニチュード九級の大地震だった。翌朝に起こった余震も、駿河、甲斐で大きな被害を出していた。
しかし、それは始まりに過ぎなかったのだ。霜月に入ると、江戸城下でも微かに山鳴りの伝わる日が出てきた。
そして旧暦霜月二十三日の朝方。
戸外の騒がしい様子に正信が外に出てみると、村人たちが西の空を指して口々に叫んでいるのが見える。そちらに視線を向けて、彼は言葉を失った。
富士の山肌が、爆ぜていた。
巨大な白煙が、天を衝く勢いで噴き上がり、空を瞬く間に覆い尽くしていく。
ゴォォォォ―――ッ!!
腹の底まで震わせるような低い振動が、世界を満たした。それは神の怒りか、あるいは大地の断末魔か。あまりにも禍々しく恐ろしい光景だった。
「お、お山が…お山が噴いたぁぁぁっ!!」
村人たちの絶叫が響き渡る。
「千代! 信太郎!」
正信は我に返り、母屋へと駆けた。妻と息子は食卓の下で固く抱き合い、震えていた。
「あなた…!」涙目で夫を見上げる千代。
「大丈夫だ! しっかりしろ! すぐに神社へ! 皆もだ! 神社へ避難するんだ!」
正信は二人を抱きかかえ、村人たちに叫びながら神社へと駆け込んだ。
その日から世界の色は変わった。噴火は師走まで十数日間続き、関東一円に膨大な量の火山灰を降らせた。
水瀬村も例外ではなく、数日で景色は一変する。屋根も道も大切な田畑も、全てが二寸(約六センチ)近い白い灰で覆われ、数日すると灰は黒へと変わった。村が墨絵のようなモノクロームの世界へと変貌していく。
灰は驚くほど細かく、風が吹けば容赦なく舞い上がって目や喉を刺す。呼吸すら苦しい。太陽の光も遮られ、昼でも薄暗い日が続いた。
噴火が終息しても苦難は終わらない。むしろそれからが始まりだった。降り積もった灰は、人々の生活を根底から破壊する。作物は全滅し、井戸水は飲めなくなり、家畜も次々と倒れた。幕府のお救米も焼け石に水だ。
人々は食糧難と病に苦しみ始めた。そして正信が最も恐れていた事態が、刻一刻と近付いていた。
川の変化だ。
大量の火山灰が、雨と共に川へと流れ込み、みるみるうちに川底を押し上げていく。人々が生きるため、田畑を埋めた灰をかき集めて、川に流したこともそれに拍車をかけた。水は黒く濁り、流れは淀み、不気味な静けさを湛えている。
「神主様、こりゃあ、いけません…川が死んでしまいやす…」
古参の村人が、やつれた顔で呟いた。
「ああ…。このままでは、来年の梅雨は…」
正信は、言葉を呑んだ。想像するだけで、背筋が凍る思いだった。
冬の間、村人たちは絶望的な状況の中で、必死に灰の除去作業を続けた。正信も神職としての務めの傍ら鍬を手に取り、村人たちと共に汗を流した。彼は、持ち前の辛抱強さと利他的な精神で、疲れ果てた人々に声をかけ励まし続ける。千代もまた少ない食料を分け合い、病人の看病にあたり、懸命に夫を支えた。
だが自然の猛威の前には、人間の努力などあまりにも微力だ。降り積もった灰の量は、人の手でどうにかできる規模を遥かに超えていたのだ。後世の調査では、深刻な降灰被害を受けた小田原藩において、石高が噴火以前の水準に戻るのに百年近い年月を要したことが分かっている。
そして、翌年の宝永五年(一七〇八年)夏、悪夢は現実のものとなった。
梅雨前線が関東地方に停滞し、記録的な豪雨が何週間も続いた。大地は溢れる雨を吸収しきれず、至る所で冠水が始まった。そして村の外れを流れる新川、小松川の水位は、日毎に危険なレベルへと上昇していった。火山灰で浅くなった川は、増え続ける水を呑み込みきれない。濁流は轟音を立てて荒れ狂い、今にも堤防を乗り越えようとしていた。
「堤がもたんぞ!」
「土嚢をもっと!」
村の男衆は、ずぶ濡れになりながら必死で堤防にしがみついていた。正信も千代と信太郎を安全な高台の神社に残し、現場に駆けつけていた。だが、堤防のあちこちから水が噴き出し、亀裂が走るのを見て、彼は最悪の事態を覚悟せざるを得なかった。
「皆! もういい! 神社へ逃げろ! 早く!」
彼は力の限り叫んだが、その声は狂ったような風雨の音に掻き消される。
その、直後だった。
ゴゴゴゴゴ……!!
地響きと共に、足元の堤防がまるで生き物のように大きく揺れた。あっと思う間もなく、すぐ目の前の一角が轟音と共に内側へ崩れ落ちたのだ。
決壊――。
瞬間、茶色い水の壁が、全てを薙ぎ倒す圧倒的な暴力となって、村へと襲いかかった。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!!」
人々の絶叫が、濁流の轟音に呑み込まれていく。家々が赤子の手を捻るように簡単に破壊され、木っ端微塵になって流されていく。人も家畜も家財も、全てが濁流の餌食となった。阿鼻叫喚。この世の地獄が、そこに出現していた。
「千代っ! 信太郎っ!!」
正信は、絶叫しながら神社へと駆け戻ろうとした。しかし彼の足元にも、すでに激流が牙を剥いていた。立っていることすらできないまま、必死で妻子の名を叫び続ける。その時、背後から押し寄せた第二波、第三波の濁流が、彼の身体を軽々と呑み込んだ。
冷たい水の衝撃。息が詰まる苦痛。激しい流れの中で、身体が木の葉のように翻弄される。何かに激しく打ちつけられ、意識が遠のいていく。
(……ここまで、か……)
家族の顔が、脳裏をよぎった。千代の優しい笑顔。信太郎の無邪気な寝顔。守りたかった。この手で、守りたかったのに…。無念と後悔が、彼の意識を暗闇へと引きずり込もうとしていた。
だが、その時。彼の伸ばした手が、奇跡的に水面を漂う太い梁に触れた。無我夢中でしがみつく。激しく咳き込みながら、なんとか顔を水面に出す。
周囲は、想像を絶する光景だった。家屋の残骸、家財道具、そして…助けを求める人々の姿。だがその声も、次々と濁流の中に消えていく。彼は必死で家族の姿を探したが、見つかるはずもなかった。
(すまない…千代…信太郎…すまない…!)
熱い涙が、濁流と共に頬を伝った。神職でありながら神に祈ることしかできず、結局は愛する村を守れなかった。激しい自己嫌悪と絶望感が、彼の心を完全に打ち砕いた。もう、どうなってもいい。そう思った。
どれほどの時間が流れたのか。雨はいつしか小降りになっていたが、濁流は依然として全てのものを押し流していく。正信の体力は尽き果て、意識も朦朧としてきた。もうこれまでか、と諦めかけたその時だった。
「……うぇ…ん……かか、さま…とと、さま……」
すぐ近くから、か細い子供の泣き声が聞こえた。はっとして、そちらを見る。小さな木の板にしがみつき、顔を水面から出そうと必死にもがいている、幼い少女の姿があった。年の頃は信太郎と同じくらい。泥水に濡れそぼり、恐怖と寒さで全身を震わせている。
(……!)
その瞬間、正信の心の中で、何かが強く弾けた。消えかけていた生命の炎が、再び燃え上がったかのように。この子の命だけは。この小さな命だけは、絶対に死なせてはならない。それは、理屈を超えた、魂からの叫びだった。
彼は、最後の力を振り絞り、梁から手を離すと、少女の方へと泳ぎ着いた。
「大丈夫だ! もう大丈夫だからな!」
彼は、少女をしっかりと抱きかかえた。少女は怯えた瞳で彼を見上げたが、やがてその胸の中に顔を埋め、堰を切ったように泣きじゃくり始めた。
「こわい…こわいよぉ…」
「ああ、怖かったろう。だが、もう大丈夫だ。わしがついておる」
正信は、少女の冷え切った小さな身体を抱きしめながら、再び流木を探してしがみついた。腕の中の温もりと重みが、彼に「生きる意味」を思い出させてくれた。
夜が明けて空が白み始めた頃、濁流の流れは幾分勢いを弱めていた。正信は意識を失った少女を抱いたまま、奇跡的に岸辺近くの小高い場所に流れ着いていた。辺り一面は泥と瓦礫に覆われ、かつての水瀬村の面影はどこにもない。荒れ果てた大地が、延々と広がっているだけだった。
彼は疲れ果てた身体を引きずるようにして、陸地へと這い上がる。腕の中の少女は、幸いにもまだ息があった。冷え切った身体を少しでも温めようと、自分の破れた着物で包み込む。
見渡す限り、破壊の爪痕。家々は跡形もなく流され、田畑は泥に埋もれている。生存者の姿はほとんど見えない。正信はその絶望的な光景を前に、茫然と立ち尽くした。家も村も、全てが失われた。昨日まで確かにあった愛おしい日常が、跡形もなく消え去ってしまった。
(千代……信太郎……どこだ……どこにいるんだ……)
茫然自失としながらも、彼の足は本能的に動き始めていた。気を失っている少女を背負い、瓦礫と泥濘の中をよろめきながら進む。妻子の姿を求めて。まだ生きているかもしれない。どこかで助けを待っているかもしれない。そんな万に一つの可能性に、彼は必死ですがりつこうとしていた。
正信は、かつて神社があったであろう高台の近くまで辿り着いた。だが、そこには土台の石がわずかに残るだけで、母屋の痕跡はなかった。こんな高さまで水が来たのか…!
周囲を狂ったように探し回る。瓦礫をかき分け、泥の中に手を突っ込み、何度も何度も名を呼んだ。
「千代! 信太郎! 返事をしてくれ! どこだ!」
だが返ってくるのは、風の音と、遠くから微かに聞こえる村人の誰かのすすり泣きだけだった。
どれくらい探しただろうか。太陽が昇り始め、荒れ果てた大地に光が差し始めた頃。彼は、神社の裏手、比較的流れが緩やかだったと思われる場所で、それを見つけてしまった。
泥にまみれて痛々しく折れ曲がった大木の枝に、何かが引っかかっていた。それは見覚えのある色の、着物の切れ端だった。正信は震える足で近付いていく。そして、その下に横たわる二つの亡骸を認めた瞬間、彼の膝は崩れ落ちた。
「……あ……あぁ……」
声にならない呻きが漏れた。変わり果てた姿。だが間違いなく、彼の愛する妻千代と、一人息子の信太郎だった。千代はまるで息子を庇うかのように、その小さな身体を固く抱きしめたまま、息絶えていた。信太郎の小さな手には、彼がいつも大事にしていた、手作りの木の駒が握りしめられている。
「ちよ……しんたろう……う、うわぁぁぁぁぁぁっ!!」
正信はその場に突っ伏し、獣のように慟哭した。涙が後から後から溢れ出し、泥まみれの地面に吸い込まれていく。
なぜだ。なぜ二人を守れなかった。なぜ、自分だけが生き残ってしまったのか。神職として、夫として、父として、自分は何をしていたのだ。後悔と自責の念が、彼の心を千々に引き裂いた。
彼は二人の亡骸にすがりつき、何度も何度もその名を呼び続けた。しかし、冷たくなった身体が彼に応えることはない。温かかったはずの妻の手も、柔らかかったはずの息子の頬も、今はもう感じることができない。愛おしかった日常の全てが永遠に失われたことを、彼は絶望的なまでに理解した。
どれほどの時間、そうしていただろうか。慟哭は嗚咽に変わり、やがてそれも途絶え、彼は虚ろな目で空を見上げた。雲の切れ間から、朝日の陽射しが容赦なく降り注いでいる。
(神よ……!)
彼は心の中で叫んだ。
(なぜです! なぜこのような仕打ちを! 我々が何をしたというのですか! 日々、真摯に祈りを捧げ、慎ましく生きてきただけではありませんか! なぜ、この者たちから命を奪い、そして、なぜ…なぜ私だけを生かしたのですか!!)
答えなど返ってくるはずもない。ただ静かに照らす太陽と、広がる荒廃した大地があるだけ。自然の力は、人間の祈りも善悪も一切考慮しない。ただ気紛れに猛威を振るい、全てを奪い去る。その絶対的なまでの理不尽さが、彼の心をさらに深い絶望へと突き落とした。
…とその時。彼の背で小さな気配がした。背負っていた少女が小さく身じろぎし、うっすらと目を開いたのだ。その虚ろな瞳が、正信の顔を捉えた。
「……うぅ……さむ、い……」
か細い声が、彼の耳に届いた。
(……!)
正信は、はっと我に返った。そうだ。自分は一人ではない。まだかろうじて生きている命があるのだ。親も家も失い、たった一人でこの過酷な現実に放り出された小さな命が。
彼は少女の顔をまじまじと見つめた。その瞳には、まだ恐怖の色が残っている。だが同時に、生きようとする微かな光も宿っているように見えた。この子の温もり、この子の息遣い。それが今、彼の手の中にある唯一の現実だった。
(…そうか…)
彼の脳裏に、一つの考えが雷に打たれたかのように閃いた。
(神は、私に死ぬことを許さなかったのではない。私に「生きろ」と命じたのだ…)
この子を守り、育み、未来を繋ぐために。失われた多くの命の代わりに、この小さな命を守り抜くこと。それが生き残ってしまった自分に課せられた、唯一の使命なのではないか。そして、ただ守るだけではない。二度とこのような悲劇が繰り返されないために、命を懸けること。全力を尽くすこと。たとえそれがどれほど困難で、非情な道であったとしても。そのための礎となるために、神は自分を生かしたのではないか…?
それは苦しみの中で見出した、一条の光だったのかもしれない。あるいは絶望から逃れるための、必死の自己正当化だったのかもしれない。だがその瞬間、正信の中で何かが確かに変わった。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。変わり果てた妻子の亡骸を地に下ろして整えてやり、深く、深く頭を下げる。
「千代…信太郎…すまない…。お前たちを守ってやれなかった、ふがいない父であり、夫だった…。だが、どうか見ていてくれ。お前たちの死を、決して無駄にはしない。この命に代えても、未来を守ってみせる。それが、生き残った私の、唯一の償いだ…」
涙はもう流れなかった。代わりに、彼の瞳には鋼のような硬い決意の色が宿っていた。彼は背中にしがみつく少女を、まるで宝物を背負うかのように抱え直す。この子の温もりが彼の覚悟を支えてくれる。
「さあ、行こう」まだ意識が朦朧としている少女に、彼は優しく語りかけた。「まずは、生きるんだ。そして、未来を創るんだ」
荒れ果てた大地に、朝の光が満ちていく。それは、破壊の跡を白日の下に晒す無慈悲な光であると同時に、新たな一日、新たな始まりを告げる再生の光でもあった。
水瀬正信の、そしてこの土地の数百年にも及ぶ長く困難な闘いが、この瞬間静かに幕を開けたのだった。




