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第五話 二つの岸辺

 荒川の堤防で謎めいた巫女と出会ってから、はや一週間が過ぎていた。あの日から浩介の頭の中は、完全に落書きを巡る謎に占拠されていた。平日の昼間は、土木コンサルタントとして、クライアントの意向と予算の壁にうんざりしながら報告書の修正に追われる。だが思考の片隅では常に、あの巫女の憂いを帯びた瞳と、固く閉ざされた唇、さらには彼女が守ろうとしているであろう秘密について考え続けていた。


 翌週の土曜日。

 浩介は、再び調査に出ることを決めていた。先週は荒川と並走する中川のある左岸、つまり葛西側を訪れた。しかし田中さんとの何気ない会話が、彼の視点に変化をもたらした。

 現代の荒川を境に、東西の神社で異なる神々の信仰圏が広がっている。そういったことを考えると、あの落書きの謎に取り組むにあたって、少なくとも川の片側だけで全ての情報が得られるわけではない。彼はそう確信していた。全体像を掴むためには、荒川の右岸、砂町側を調査する必要がある。



 彼はいつものように、西船橋から東西線に乗った。先週同様、冬晴れのよい天気で、午後からは気温の上がる予報になっている。東西線はカップルや家族連れで席がほぼ埋まるくらいの人出だった。西船橋のホームを滑り出した電車は、総武線と別れて左に大きくカーブしていく。

 先週と比較すると、マスクをしている人がやや増えたかもしれない。花粉症の時期か。浩介の出身地である九州北部の小さな港町は、町のすぐ側まで筑紫山地が迫り、その山肌は一面杉の木で覆われていた。小さい頃からその環境で育つせいか、町内に花粉症で困っている人がいた記憶がない。そんな小さな差異も、彼には異邦人としての疎外感を感じさせられるのだった。


 西葛西を出た電車は、いつものようにガタンガタンと荒川に差しかかる。柔らかい冬の日差しが凪いだ川面を揺らしていた。葛西側の遊歩道に目をこらしてみたが、あの巫女の姿は見えないようだ。


(…いつも来ているわけではなさそうだな)


 彼はリュックを背負い直して南砂町駅で降りた。南砂町は東西線が西船橋方面から地下区間に入る最初の駅で、駅前ロータリーといったものはない。地上への出入口まで階段を上がると、工事中の白い塀の横を荒川に向かって少し歩く。駅は東西線の輸送力増強を目的とした拡張工事の真っ最中だった。

 浩介はそのまま荒川に向けて直進することはせず、突き当たった片側二車線の都道を左に折れた。この丸八通りを二、三キロほど北上すると都営新宿線の大島おおじま駅があるのだが、その中間地点からやや大島寄りに砂町銀座商店街がある。昭和の頭からあるというこの商店街の古老に話を聞けたら、荒川や葛西についても何か手がかりがあるのではないかと、彼は考えたのだった。


 バスには乗らずに、都道をてくてくと歩く。整備された歩道沿いに背の高いマンションやアパートが建ち並び、買い物に行く家族連れや部活に向かうのであろう自転車の高校生と時折すれ違う。

 しばらく歩くと、都道は幅の狭い緑地を突っ切っていく。彼は仕事柄、この細長い緑地とそれに沿って走る水場が、大正期から昭和初期にかけて開削された砂町運河の名残であることを知っていた。

 東雲運河、汐見運河、辰巳運河…。江東区内には、同じ頃、舟運を目的として開削された運河があちこちにあり、その役割を終えた後は親水公園として利用されている。川が人々の生活と深く関わり、水が人々を絶え間なく支えてきたことを思い起こさせる風景だった。


 さらに歩くと、マンションの中に商業ビルが混じり始める。清洲橋通りを渡って十分ばかり歩くと、左手頭上に「砂町銀座」という大きな飾りつけが現れる。ここが商店街の東口で、ここから荒川と反対方向に向かって数百メートル続くのが、昔ながらの雰囲気の残る砂町銀座商店街だった。


 商店街に入ると、そこには駅近くの整然としたマンション群とは全く違う、エネルギッシュで雑然とした空気が漂っていた。アーケードはなく、冬の青空が広がっている。狭い道幅いっぱいにひしめき合うようにして、個人商店が軒を連ねていた。威勢のいい八百屋の呼び込み、香ばしい惣菜の匂い、自転車で通り抜ける主婦たちの笑い声。全てが、この土地に深く根差した、力強い生活感を放っている。


(…なるほど。これは確かに、川向こうとは気質が違うかもしれん)


 浩介はそんなことを思いながら、全長六百七十メートルに及ぶという長い商店街をゆっくりと歩き始めた。特に目的の店を決めていたわけではない。この土地に詳しい人物に話を聞くことが大きな目的だったが、この土地の空気に身を浸し、何かを感じ取ることも大切な目的の一つだった。

 彼は店先に並べられた色とりどりの漬物を眺めたり、揚げたての天ぷらの匂いに惹かれて足を止めたりしながら、古くからこの場所で商売を続けていそうな店を探した。


 やがて、彼は一軒の、年季の入った茶屋の前で足を止めた。店先では、香ばしいほうじ茶の香りが漂っている。「創業明治拾年」と書かれた古い木の看板が、その歴史を物語っていた。店の中を覗くと、カウンターの奥で、人の良さそうな白髪の老婆がお茶を淹れているのが見えた。ここなら何か古い話が聞けるかもしれない。浩介は少し緊張しながらも、店の暖簾のれんをくぐった。


「いらっしゃい」

 老婆は、穏やかな笑顔で彼を迎えた。彼はカウンター席に腰を下ろし、煎茶を一杯注文する。

「兄さん、見かけない顔だね。この辺の人じゃないのかい?」

「ええ、少し調べ物で来まして。この商店街は、活気があっていいですね」

「そうかい? まあ、昔に比べりゃこれでも寂しくなった方だけどねえ」

 老婆は、湯呑みを差し出しながら、ゆったりとした口調で言った。

「あたしは、ここで生まれて八十年、ずっとこの街を見てきたからねえ。変わったところも、変わらないところも、みんな知ってるよ」

「八十年…それはすごいですね。じゃあ、この辺りの歴史にもお詳しいでしょう? 例えば、すぐそこの荒川のこととか…」


「ああ、荒川かい」

 老婆の顔が、少しだけ曇った。

「あの川には、お世話にもなったし、ひでえ目にも遭わされたからねえ。あたしが子供の頃だって、でかい台風が来りゃあ、この辺り一面、水浸しになったもんさ。今は立派な土手ができて、そんな心配もなくなったけどねえ」

「対岸の葛西とは、昔からあまり仲が良くないって聞いたんですが」

 浩介は、核心に近づけてみた。

 途端に、老婆の穏やかだった表情が、険しいものに変わった。

「仲が良いわけないじゃないか!」

 その声には、長年蓄積された感情が籠もっていた。

「あいつらとはね、水も合わなければ、祀ってる神様も違うんだよ。こっちが橘様をお祀りしてるのに、あいつらは別の神様だ。それに、気性が違う。昔から、川向こうの連中は、どこかよそよそしくて、何を考えてるか分からなかったよ」

「何か、具体的なきっかけがあったんですか?」

「きっかけなんざ、山ほどあるさね」

 老婆は、遠い目をして語り始めた。

「あたしが嫁に来る前だから、もう六十年以上も前の話になるけど、そりゃあ大きな水害があったんだ。その時、こっちの土手が切れそうになって、村中の男衆が命がけで土嚢を積んでたのに、川向こうの連中は、見て見ぬふりして、誰一人助けに来なかったって話だよ。おかげで、こっちはひでえ被害が出た。それ以来さね、本格的に口も利かなくなったのは」


 それは、生々しい話だった。

「そうですか…そんなことが…。橘様というのは、この近くにあるんですか?」

「ああ、すぐそこだよ。うちの店の角を曲がって、まっすぐ行った突き当りさ。昔から、この砂町の土地を守ってくれてる、大事な神様だよ」


 老婆に礼を言い、浩介は茶屋を出る。背中に「川向こうの人間には、気を付けるんだよ」という老婆の声が追いかけてきた。彼は複雑な気持ちで「橘様」へと向かった。


 歩きながら、彼は田中さんとの会話を思い出していた。荒川を境にした、東西で異なる神々の信仰圏。今しがた老婆が口にした橘様は右岸の砂町側にある。とすれば、それは氷川系の神社である可能性が高い。一方で、先日巫女がいた左岸の葛西側にある水瀬神社は香取系の神社だろう。


 浩介は、自身の国史学の知識を頭の中で整理した。

 関東平野の古い神社は、古代の河川の流路と深く関係している。大雑把に言えば、現在の荒川放水路辺りを境界として、西側の武蔵国(埼玉・東京)は、出雲系の神々を祀る氷川神社や久伊豆神社の信仰圏だ。氷川神社の「氷川」は出雲の斐伊川ひいかわが転じたものとされ、祭神はスサノオノミコト。久伊豆神社の祭神は、その子孫であるオオクニヌシノミコト。つまり彼らは「国譲り」神話において、元々この土地を治めていたが、高天原たかまがはらから来た神々に国を「譲った」側の、国津神くにつかみの系譜なのだ。

 それに対して、東側の下総国(千葉)は、香取神宮を中心とした信仰圏が広がる。香取神社の祭神フツヌシノオオカミは、まさにその国譲りを実行するために、天から派遣された神。天津神あまつかみの代表格だ。

 一言で言うと、荒川を挟んだ両岸は日本の神話の根幹に関わる、譲らせた側(天津神)と譲った側(国津神)という根源的な対立構造を、今も信仰圏として残していることになる。


(だが、待てよ…)


 浩介は、ふと立ち止まった。

(今の荒川放水路が開削されたのは、大正期から昭和初期にかけて。それ以前の川の流れは全く違ったはずだ)

 彼は、頭の中の古地図を思い浮かべる。明治四十三年の大水害をきっかけに荒川放水路が開削されるまでは、荒川本流は現在の隅田川に流下していた。

 そして、かつてこの葛西と砂町の間には、新川と小松川が合流した、現在よりもやや細い川が流れていた。それが本来の境界線だったはずだ。その頃葛西を流れていた川筋は、行徳塩田の塩や葛西浦で獲れた新鮮な魚を江戸へ運ぶため、江戸初期に開削された舟運の拠点だった。

(つまり今の荒川という巨大な境界は、後からできたものだ。江戸期以前の古い対立感情が、そのまま新しい荒川放水路の両岸にスライドして、今も受け継がれている…そういうことか)

 老婆が語った六十数年前の水害の話も、その感情をさらに強化する装置として機能しているのかもしれない。この土地に刻まれた複雑な歴史の地層に、彼は改めて身震いするような思いがする。


 やがて「橘様」の前にたどり着いた。橘神社という掲額が冬の陽に照らされて、鳥居から厳かに見下ろしている。

 水瀬神社と同じように、古く威厳のあるたたずまいだ。しかし、どこか雰囲気が違う。水瀬神社が静かで内に籠るような気配を漂わせていたのに対し、橘神社はもっと開放的で力強い印象を受けた。水瀬神社にあったこんもりとしたもりが、こちらにはないせいかもしれない。

 今日の彼は、境内には入らなかった。今日の目的は商店街でのヒアリングと、荒川右岸からの落書きの現地確認だ。そのまま橘神社の前を通り過ぎ、狭い道を荒川の堤防へと戻っていった。


 砂町側の堤防は葛西側とは違い、広々とした堤防になっていた。

 荒川と隅田川に挟まれる江東区のこの地域一帯は江東デルタと言われ、海抜ゼロメートルより低い低地帯が広がる。一度ひとたび堤防が切れると濁流が街を呑み込み、数百年にわたって大きな被害を出し続けてきた。老婆が口にした六十数年前の水害もその一つに違いなかった。

 それを防ぐために、昭和期も終わりになってスーパー堤防と言われる高規格堤防が整備されるようになった。

 通常は十メートルや二十メートル程度の堤防の幅を、数十メートルから数百メートル設定するのだ。そして、堤防の上から緩やかな傾斜をつけて坂を設け、その上に道を造り、街を形成していく。堤防自体が崩れることはないため、川の水が堤防を乗り越える越水が発生しない限りは、浸水は発生しない。もちろん整備前の堤防近くに建物はあるわけで、それらが取り壊されるタイミングを見ながら整備を進めていく、費用と時間のかかる手法でもある。



 多くの人々が広い堤防の上を散歩したり、サイクリングを楽しんだりしている。浩介はその人の流れに混じって、川岸へと近付いていった。


「…遠いな」

 思わず声が出た。こちら側から見ると、落書きのある首都高の橋脚は、広大な荒川の流れを隔てた遥か彼方にある。双眼鏡を使っても、先日葛西側から見た時よりずっと小さくしか見えない。葛西側からはずっと川幅の狭い中川越しだったので、大きく見えたのだ。これでは詳細な観察は不可能だった。


(やはり、あの中洲に渡るしかないのか…)


 彼は、苛立ちながら辺りを見回した。どうすれば、あの中洲に行ける? 陸路からではどう見ても無理そうだ。その時、彼の視線が上流に架かる大きな道路橋を捉えた。


(…葛西橋)


 スマートフォンで地図を確認したところ、すぐに橋の名称が判明した。あの橋を渡れば葛西側へ行ける。そしてあの橋は、荒川と中川、そして当然ながら、その間の中洲の上を通過しているはずだ。


(もしかしたら…)


 一つの可能性が彼の頭をよぎった。あの橋の上からなら、中洲に降りられる道があるのではないか? 整備用か、あるいは緊急用の階段か何かが。

 浩介は、迷わず葛西橋へと向かって歩き始めた。堤防から下の一般道へ降り、橋のたもとへと向かう。


 橋の歩道は車道から分離されていて、二メートルほどと思ったより広くしっかりした造りだった。彼は橋を渡り始める。

 眼下に、雄大な荒川の流れが広がる。橋の中ほどまで来ると、手すりから身を乗り出すようにして下を覗き込んでみる。そして目的の中洲が真下に見えてきたその時。


「…あった!」


 彼は、思わず声を上げた。あったのだ。橋上を交差する首都高の高架の真下、橋桁の脇から中洲の地面へと続く、金属製の無骨な階段が。そこを釣り人の一団が談笑しながら降りていくのが見えた。


(行ける…!)


 心臓が高鳴るのを感じる。釣り目的の人々以外に利用者は見当たらない。彼は迷いなく、その階段へと足を踏み入れた。

 階段を降りると、そこは今までいた世界とは全く異なる異質な空間だった。頭上では、首都高速を走る車がゴウゴウと地響きのような音を立てて絶え間なく通過していく。そして目の前には、巨大なコンクリートの橋脚が、まるで古代神殿の柱のようにどこまでも整然と立ち並んでいた。両側を川に挟まれた細長い土地。風の音と川の流れの音、そして頭上の走行音だけが響く隔離された世界。


 彼は目的の落書きがある橋脚へと、その柱の列が作る回廊を下流へ向かって歩いていった。頭上の車の音がやけに大きく聞こえる。期待と僅かな恐怖が入り混じった、奇妙な高揚感があった。



 そしてついに、彼はその前に立った。


「…………」


 言葉が出なかった。電車の中、あるいは対岸から、スマートフォンやカメラのレンズ越しに見ていた落書きが、今、圧倒的なスケールで、彼の目の前にそびえ立っている。見上げるほどの大きさ。壁面のざらざらとしたコンクリートの質感。微かに漂うシンナー臭のするスプレー塗料の匂い。


 彼はゆっくりと、その全体像を目で追った。中央に鎮座する黒い王冠のようなシンボル。そして先日描き換えられた、青い背景と白い円。近くで見ると、その仕事の丁寧さがよく分かった。色の塗り重ねにはむらがなく、線のエッジは驚くほどシャープだ。これは素人の悪戯ではない。確かな技術を持った人間による計画的な「作品」だ。


 彼は壁面にそっと手を触れた。ひんやりとした硬い感触。青く塗られた部分とその下にある古い塗装との境目に、わずかな段差があるのを感じ取った。

 持ってきたカメラを取り出し、夢中でシャッターを切り始める。少し離れて全体像を、そして望遠レンズを装着して、細部の質感、塗り重ねの跡、色の境目などを克明に記録していく。


 彼は今この瞬間、間違いなく謎の核心に立っていた。だが同時に、より深い謎の淵に立たされていることも感じていた。


 なぜこんな場所に、これほどの落書きを?

 そしてあの巫女は、なぜこの存在を観察していたのか?


 彼はカメラを下ろし、もう一度巨大な落書きを見上げた。それは、もはや単なるサインやメッセージには見えない。

 もっと大きく、抗いがたい運命を象徴する巨大な壁画が、彼の前に立ちはだかっていた。

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