第四話 次なる目的
彼女の姿が神社の深い杜へと完全に消えてしまってからも、浩介はその場に立ち尽くしていた。風が堤防の上を吹き抜け、枯れ草の掠れる音と、遠くから聞こえる子供たちの歓声とが、微かに耳に響く。
つい先ほどまで、すぐそこで交わした言葉、感じた視線、彼女が纏っていた清冽な空気の全てが、夢の中の出来事だったかのように、急速に現実感を失いつつある。それでも彼の胸に残った動揺と、新たに芽生えた強い感情は、それが紛れもない現実であったことを証明していた。
(……いったい、何者なんだ?)
その問いが再び頭の中を支配する。
水瀬神社の巫女。落書きについて尋ねた瞬間の硬い表情、全てを見透かすかのような深い瞳。脳裏に焼き付いて離れないその仕草は、彼女が間違いなく、あの奇妙に変化する落書きについて何かを知っていることを物語っている。恐らくは、それを他人に知られてはならない重大な理由があるに違いなかった。
浩介は、先ほどの会話を頭の中で何度も再生していた。彼女の言葉。「さあ……わたくしには、皆目見当もつきません」「ただの悪戯書きが、また別の悪戯で上塗りされた、ということではないでしょうか」。
その声は鈴を転がすように涼やかで透明だったが、同時に抑揚がなく、予め用意された台本を読み上げるかのように無機質。
感情を押し殺した平坦な声色こそが、逆に彼女の内心の動揺を滲ませていた。彼女は嘘をついている。それも、何かを守るために必死で。
(守る…? いったい、何を?)
落書きの秘密か、あるいは彼女自身の抱える何かか。あるいは、もっと大きな…?
そこまで思索を深めた浩介は、自分がとてつもなく大きな謎の、ほんの入口に立ったばかりなのではないかということを実感していた。そしてその謎の核心には、間違いなくあの巫女がいる。
彼は思索の赴くまま、自分が彼女に感じた強烈な引力の正体について思いを馳せていく。
もちろん彼女は美しかった。透き通るような白い肌、大きな瑞々しい瞳、風に揺れる艶やかな長い黒髪。だが、彼が心を奪われたのは、単なる外見の美しさだけではなかった。
その儚げな佇まいの奥に垣間見える揺るぎない意志の強さ。全てを諦めているかのような深い憂いと、それでも何かと対峙し続けているような気高さ。それら全部が危ういバランスの上で成立して、彼女という魂を具象化させている。そんな存在そのものに、彼は心を揺さぶられたのだ。
守ってあげたい、と心から思った。同時に彼女が抱える秘密を解き明かしたい、とも思った。その二つの相反した感情が、冬の川辺に立ち尽くす彼の心の中で、激しく渦巻いていた。
陽が傾き始め、堤防の上を吹き抜ける風が一段と冷たくなってきた。浩介は我に返り、リュックからカメラを取り出す。レンズを向けたのは川越しに見える落書きではなく、緑濃き水瀬神社の杜だった。ファインダー越しに見える、どこか人を寄せ付けないような佇まいの静かな神域。彼は何かを感じ取るかのように、ゆっくりとシャッターを切った。それは記録というより、この出会いを忘れないための、一種の儀式のような行為だったかもしれない。
堤防を下り、西葛西の整然とした街並みを駅へと歩く。来た時とは、見える景色がまるで違っていた。巨大なマンションも子供たちの声が響く公園も、全てがあの謎めいた神社や巫女へと繋がっているような気がする。この穏やかな日常風景のすぐ裏側に、全く別の、秘密に満ちた時間が流れているのではないか。そんな妄想じみた考えさえ浮かんでくるのだった。
帰りの東西線は、行楽帰りの家族連れや若者たちで賑わっていた。混み合った車内で浩介は一人、改めて深い思索に沈んでいる。窓の外を流れる夕暮れの景色も目に入らない。彼の頭の中では、今日得られた新たな情報を元にして、あの落書きに関する仮説の再構築が始まっていた。
あの落書きは、特定の集団に向けた何らかの暗号・メッセージなのではないか。
そして「特定の集団」とは、水瀬神社を中心とした組織である可能性が高い。あの巫女は、その組織の重要な一員なのだ。ではメッセージの送り先は誰で、その内容は何か? 彼女のあの憂いを帯びた表情を思い出すと、それが決して穏やかな内容ではないことだけは確かだった。
西船橋駅のホームに滑り込んだ電車から、浩介は吸い出されるように降りた。楽しげに語り合う群衆の中に一人、彼の意識はまだ、あの川のほとりに取り残されたままだった。
浩介はホームのベンチに腰掛けると、リュックからカメラを取り出して撮影履歴を開いた。そこに並ぶのは、今日川越しに撮影したばかりの落書きの写真。
その中の一枚を指で広げて拡大してみる。青い背景に浮かぶ、白い円。ただのペンキの塊のはずなのに、そこには先ほど出会った巫女の、あの深い憂いを湛えた瞳が重なって見えた。
今やこの落書きは、彼にとって単なる不可解なサインではない。彼女が守ろうとしている秘密そのものであり、心の象徴のようにも感じられる。この色彩の変化一つ一つが、彼女の運命を暗示しているのではないか。そんな非科学的で感傷的な考えさえ、頭をよぎるのだった。
西船橋の自宅マンションに帰り着く頃には、短い冬の陽は落ちて黄昏時になっていた。部屋の電気をつけると、いつもの殺風景な空間が現れる。だが浩介の心は、もはやこの日常の空間にはなかった。帰り道で買ってきたコンビニ弁当を温めるのも忘れ、PCの電源を入れる。
そしてすぐに、今日撮影した写真データをPCに取り込んだ。今日の日付でフォルダを作成すると、その中に先ほど撮影したばかりの落書き、水瀬神社の杜の写真を保存していく。
保存し終わるとテキストエディタを開き、今日の出来事を詳細に記録し始めた。時刻、場所、天候。巫女との出会い。彼女の容姿、服装、言葉、表情の微細な変化。会話の内容。自分の推測。それはかつて彼が研究室で行っていた、フィールドノートの作成そのものだった。あの頃の情熱が全く別の形で蘇ってきているのを感じる。
週が明け、月曜日。オフィスでの浩介は、どこか上の空だった。仕事に集中しようとしても、週末の出来事が頭から離れないのだ。PCのモニターには、河川の流量データが表示されているが、彼の思考は、水瀬神社や巫女のことでいっぱいだった。
オフィスでの仕事にも、以前のようには没頭できなくなっていた。PCのモニターに映る河川流量の複雑なグラフや堤防の構造計算の無味乾燥な数値が、ふとした瞬間に、あのカラフルで混沌とした落書きのパターンと重なって見える。報告書の文章をタイプしていても指が止まり、思考は勝手に荒川のほとりへと飛んでしまうのだ。
「高杉君、ちょっといいかな」
背後からの声に、浩介は軽く肩を揺らしながら振り返った。鈴木課長がやや不機嫌そうに立っている。
「例の富士山のレポート、まだなのかね? 国交省から催促があったぞ。素案の提出期限は昨日だったはずだが」
「あ…はい、申し訳ありません。最終チェックに少し時間がかかっておりまして…。今日中には必ず提出します」
「頼むよ。最近、どうも集中力を欠いているように見受けられるが、何かあったのかね?」
課長の探るような視線に、浩介は内心で舌打ちした。何かあったのか、だと? あなたたちがリスクから目を逸らして体裁ばかり取り繕おうとしている間に、足元では得体の知れない何かが動いているのかもしれないのだ。そう叫びたかったが、もちろん口には出せない。
「いえ、特に何も。少し疲れが溜まっているだけです。すみません、急ぎます」
浩介は当たり障りのない返事を返し、再びモニターに向かう。鈴木はそれを見て、不満そうな顔を隠しもせずに立ち去っていった。この世界では、疑問を持つことや本質を探ろうとすることは歓迎されない。求められるのは、従順さと波風を立てない処世術だ。大学の研究室の自由な雰囲気とは、あまりにもかけ離れている。
彼は仕事の合間に、ブラウザの別ウィンドウで水瀬神社について調べていた。やはり得られる情報は限られている。祭神、由緒、簡単な歴史。それだけだ。もっと何か、手がかりはないか。彼は、地図サイトを開き、神社の周辺の地理的特徴を改めて確認していた。
「高杉さん、また地図ですか? 本当に好きなんですね」
昼休みに入り、隣りの席の田中さんが、持参した弁当を広げながら話しかけてきた。
「…ああ、まあな」浩介は、慌てて会社の業務に関連する地図のウィンドウに切り替えた。「この辺りの地形は、昔と今でかなり違うからな。防災計画を考える上でも、参考になる」
「へえ。そういえば、高杉さんが調べてる葛西の方って、香取神社が多いんですよね? レポートの地域概況でちょっと調べたんですけど」
「ああ、そうだな。江戸川区側は、だいたい香取神宮の信仰圏だ」浩介は、少し面倒くさそうに、しかし口は滑らかに動いた。自分の専門領域に触れられると、つい饒舌になってしまう癖があった。
「関東の古い神社は、昔の川の流れと関係が深いんだよ。大雑把に言うと、荒川を境に東側の下総国は香取系、西側の武蔵国は氷川系の神社が多くなる。氷川神社は大宮が本拠地で、昔の荒川や入間川の流域に強い。まあ、例外もあるし、もっと言えば利根川の東遷事業が絡んでくるから複雑なんだがな。埼玉の方に行くと、久伊豆神社みたいにまた別の水系に由来する神社もある」
「へえ!面白い! 川の流れが、神様の縄張りまで決めてたんですね。じゃあ荒川の向こう側とこっち側じゃ、昔から全然違う文化だったってことですか?」
「…まあ、そういうことになるな」浩介は田中さんの純粋な質問にはっとした。
そうだ。違うのだ。川を挟んで西と東では、歴史も文化も、そして恐らくは人々の気質さえも。
「仕事には関係ない豆知識だけどな」彼はそう言って話を打ち切ったが、彼の頭の中では新たな思考が始まっていた。
その日の夜、帰宅した浩介は再び、自宅のPCで荒川周辺の地図を広げていた。田中さんとの会話が彼の視点を大きく広げていた。
(そうだ…俺は、まだ物語の半分しか見ていない)
水瀬神社も巫女も、全ては荒川の左岸にある葛西の出来事だ。しかし当然ながら、川には二つの岸がある。そしてその二つの岸は、歴史的にも文化的にも明確な境界線で隔てられてきた。
(もし、あの落書きが、何らかのメッセージだとしたら…)
そのメッセージは、誰に対してどこに向けて発信されているのか? もしかしたらそれは川の反対側、右岸にある砂町側に向けられたものではないのか? あるいは右岸にも、左岸と呼応するような別のサインが存在するのではないか?
彼はPCの地図を開く。左岸に水瀬神社がある。では、対岸は? もしこれが川を挟んだ何らかのサインのやり取りだとしたら、対岸にも呼応する存在がいるはずだ。
彼の次の目標が、砂町の調査に定まった。




