第三話 水際の巫女
通勤電車の中から見かける、首都高の高架橋に描かれた落書きが変化しているという衝撃的な事実に気付いてから、高杉浩介の日常は確実にその色合いを変えていた。
土曜日に現地を訪問しようと決めてから数日の間、彼の頭の中は二つの全く異なる世界の間を、振り子のように揺れ動いていた。
一つは、現実の世界だ。大手町のオフィスビルの一角にある、パーテションで区切られた自分のデスク。鳴り響く電話、飛び交う専門用語、そしてクライアントである官公庁の意向という名の見えざる圧力。
彼は土木コンサルタントとして、膨大なデータと日々格闘し、無味乾燥な報告書を作成していた。二月に入り、積み重なった年度末案件の締めが容赦なく近付いてくる。特に、最終提出を目前に控えた富士山噴火時のリスク評価レポートは、上司である鈴木課長との間に根深い対立を生み、彼の精神を磨り減らしていた。リスクをありのままに伝えようとする自分の主張は、組織の論理と予算の壁の前で、いとも簡単に骨抜きにされる。その無力感が彼の心を灰色に染めていた。
そしてもう一つは、謎の世界。毎朝、通勤電車の中から目にする、荒川と中川の間に立つ首都高の巨大な橋脚に描かれた、不可解な落書き。鮮烈な赤い稲妻が、ある日を境に冷たい青い円へと姿を変えた。あれは間違いなく何者かが、何らかの目的を持って定期的に更新している「サイン」だ。浩介はその確信を深めていた。しかしその確信は、彼をさらなる疑問の迷宮へと誘うだけだった。誰が、一体どうやってあの場所に近付き、あれだけの規模の落書きを定期的に描き変えているのか? そして何よりも、その目的はいったい何なのか?
昼休みや帰宅後の僅かな自由時間を使って、浩介はネット検索に没頭した。キーワードを変え、検索エンジンを変え、画像検索を行い、SNSを探る。「荒川 落書き 変化」「荒川 サイン 更新」…。
だが、いくら検索しても、あの落書きの変化に関する情報は全く出てこない。ヒットするのは、落書き除去に関する自治体の告知や、鉄道写真、あるいは全く関係のない情報ばかりだ。
(東西線からはっきり見えるのに、誰も気付いていないのか? それとも、情報が巧みに隠されている?)
考えれば考えるほど、疑問は増えるばかりだ。彼はネット上の情報に限界を感じて、週末に荒川へ行くことを固く決意していた。
そして、荒川を訪れることを決めた二月最初の土曜日がやってきた。数日続いた曇天が嘘のように、冬の空が青く晴れ渡っている。放射冷却で朝の冷え込みは厳しかったが、日中は穏やかな日差しが期待できそうだ。絶好の現地調査日和だった。浩介は、どこか学生時代のフィールドワークに向かう時のような、微かな高揚感を覚えながら準備を始めた。動きやすく防寒性の高い服装を選び、リュックには望遠レンズを装着した一眼レフカメラ、高性能な双眼鏡、そして念のためモバイルバッテリーと簡単な食料を詰めた。
昼過ぎに西船橋駅から乗り込んだ各駅停車の東西線は、休日らしい和やかな空気に包まれていた。家族連れ、カップル、友人同士のグループ。それぞれの目的地へと向かう人々の中で、浩介だけが異質な目的を抱えている。彼は吊革に掴まり、流れ行く車窓の風景を眺めながら、思考を巡らせていた。今日の目的地は西葛西。そこから歩いて中川沿いの遊歩道へ出る。電車の中から目測した限り、そこがあの橋脚に最も近付ける場所のはずだった。
西葛西駅で電車を降りる。通勤で何百回となく通り過ぎてきたが、降り立つのは初めてだ。駅前は整然としており、バスロータリーや商業施設が機能的に配置されている。バス停には、空港やディズニーリゾートへ向かう高速バスが発車を待っており、家族連れの列ができていた。
スマートフォンで地図を確認しながら、中川方面へと歩き始める。やや道幅の広い、街路樹が整備された道が続く。巨大な団地や比較的新しい中層のマンションが整然と建ち並んでいる。それらの間に公園もあり、子供たちの楽しそうな声が聞こえてきた。典型的な手入れの行き届いた郊外の住宅地。この穏やかな休日の日常風景と、自分が追いかけている不可解な謎とのギャップに、浩介は一種の眩暈のような感覚を覚える。
(この街の誰も、すぐそこの川の中洲で、奇妙なことが起きているなんて夢にも思っていないんだろうな…)
しばらく歩くと、やや高くなった片側一車線の都道に行く手を遮られた。右手に回り込んで都道を渡り、さらに川岸を目指す。
住宅街の中をジグザグに抜けていくと自動車教習所が見えてくる。スマートフォンの地図を見る限り、川は近いはずだ。
教習所を右手に見ながら左に曲がると、目の前に青空が開けた。正面に中川の堤防がいきなり姿を現したのだ。潮の香りが混じった、湿った風を感じる。この向こうか。
浩介は堤防に上がる階段を探して左右を見渡したが、延々と護岸ブロックが続いていた。この上にさらに自動車の通る細い道があり、堤防はさらにその上だ。大きな川だけあって、十分な堤高を感じさせた。
スマートフォン上のマップを細かく見ると、東西線の橋梁辺りに堤防下の遊歩道に降りる階段があるようだった。リュックに詰めてきたサプリメントを取り出してかじりながら、堤防沿いの道をてくてく歩く。やがて、遠くに見えていた東西線と首都高の高架が間近に迫ってきた。
「左右確認!」と赤字で書かれた看板のあるコンクリートの階段を上がっていると、ガタンガタンと荒川を渡ってくる東西線の甲高い音が響いてくる。階段を登りきると、いきなり視界が開けた。
ゆったりとした中川の流れが彼を迎えた。川の匂いがする。彼は中川沿いの遊歩道へと降りていった。
遊歩道は東西線の橋梁下で途切れていて、下流は行き止まりの護岸になっていた。上流に向かって歩みを進める。思ったより道幅は広く、きれいに舗装されている。犬の散歩をする人、ジョギングをする人、ベンチに座って談笑する老人たちがまばらに見えた。
電車の窓からは、併走する首都高の高架に遮られていて見えなかったが、生活に密着した水辺の空間がそこにはあった。
そして彼の視線の先、中川を隔てた向こう側にそれは見えていた。
荒川と中川を隔てる細長い中洲。その上を、巨大なコンクリートの塊である首都高速中央環状線の高架橋が、まるで巨大な恐竜の骨格標本のようにどこまでも続いている。そして、その高架橋を支える無数の太いコンクリートの柱。そのうち東西線から数えて二本目の橋脚に、目的の落書きは描かれていた。
「……あった」
浩介はリュックから双眼鏡を取り出し、目に当てた。電車の中から見るのとは比較にならないほど、はっきりと見える。中川の川幅は百メートルほどだろうか。対岸の落書きは、まるで巨大なカンバスに描かれた絵画のように彼の視界を占領した。
改めてそのディテールを観察する。先日、電車の中から確認した通りだ。赤い稲妻の模様は跡形もなく消え去り、濃い青色で塗り潰された背景の中央に、白い円が描かれている。双眼鏡の倍率を上げると、スプレー塗料の粒子や、新しい塗料とコンクリートの境目が、ぼんやりとだが確認できた。これは素人の悪戯ではない。色の塗り方、線の引き方、どれをとっても、ある種の熟練が感じられた。
(くそっ…それでも、これ以上は…)
双眼鏡でも、これが限界だった。塗料の種類や、塗り重ねられた層の厚みまでは分からない。彼はカメラを取り出し、望遠レンズ越しに何枚もシャッターを切った。だが、写真で得られる情報も双眼鏡と大差ないだろう。もっと近付きたい。あの壁面に触れ、質感を感じ、匂いを嗅ぎたい。そんな衝動に駆られる。
彼は辺りを見回した。中洲へ渡る方法は、ここからでは見当たらない。上流にあるどれかの橋を渡れば、あの中洲へ行けるのだろうか? 地図アプリで確認するが、橋の構造までは分からない。仮に行けたとしても、部外者が立ち入っていい場所なのかも不明だ。
(今日は、ここまでが限界か…)
彼は一種の無力感を覚えながら、双眼鏡を下ろした。だが、収穫がなかったわけではない。落書きが、計画的かつ高い技術で描かれているという確信がさらに強まった。
彼は気を取り直し、遊歩道の上をさらに上流に向かってゆっくりと歩き始めた。落書きを様々な角度から観察するためだ。そんな得体の知れない謎に取り憑かれて神経を尖らせている自分は、休日ののどかな風景の中で、ひどく浮いた存在に思えた。
(俺は、いったい何をやっているんだ…)
そんな自嘲が頭をよぎった、その時だった。
川に面した前方のベンチに、人影があることに気付く。最初は散歩の途中で休憩している老人かと思った。しかし近付くにつれてその衣装の異様さに気付き、浩介は思わず足を止めた。
巫女装束だった。
鮮やかな緋色の袴。塵ひとつない清浄な白い小袖。背中まで豊かに流れる、濡れたような艶のある黒髪。彼女はベンチに腰掛けてはいたが、その背筋はすっと伸び、ただじっと目の前の中川とその向こうにある首都高の橋脚――まさしく落書きのあるあの橋脚――を、真剣な眼差しで見つめていた。
(……!)
浩介はその場に釘付けになった。どこか現実離れしたその姿は、まるでそこだけ時が止まったかのような錯覚を覚えさせる。犬の散歩をする人やジョギングをする人々が作り出す日常の風景の中で、彼女の存在だけが強烈な異質さを放っている。たった今、古い絵巻物から抜け出してきたかのように。
彼は困惑しながらも、彼女から目が離せない。彼女が纏う空気はこの世の日常から切り離されたように静かで、たまらなく清冽だった。周囲ののどかな風景の中で、そこだけが凛とした気配を放っている。
その横顔は驚くほど端正だ。だが最も印象的だったのは、その大きな黒い瞳だった。長い睫毛に縁取られた瞳は、橋脚に向けて真剣に注がれており、そこには深い憂いと何か計り知れないほどの強い意志が同居しているように見える。透き通るように白い肌は、冬の日差しを受けて陶器のような滑らかさを見せていた。
(……きれいだ…)
思わずそう感じた。しかしそれは、単なる外見の美しさに対する感想ではない。彼女の存在そのものが放つ、不可思議なオーラに対する畏敬の念に近い感情だった。
それと同時に、強い好奇心が湧き上がってくる。彼女は、あの落書きの何を見ているのか?
声をかけるべきか逡巡する。今ここで彼女の静寂を破ることは、とんでもなく冒涜的な行為に思えた。だが、この機会を逃せば、二度と彼女には会えないかもしれない。そしてあの落書きの謎に近付く手がかりを失うかもしれない。浩介の中で、好奇心と共に芽生え始めた別の感情――この謎めいた少女をもっと知りたいという強い欲求――が、躊躇いを打ち破った。
深呼吸を一つ。
心臓が早鐘を打つのを感じながら、浩介は足音を忍ばせつつ、ゆっくりと彼女に近付いた。数メートルの距離を保ち、立ち止まる。それから、できる限り穏やかな声色で言葉を発した。
「あの……すみません」
少女は、驚くほどゆっくりとした動作で顔を上げた。その言葉で深い瞑想から覚めたかのように。そして、その大きな黒い瞳で、真っ直ぐに正面から浩介を見据えた。
驚きや警戒の色はほとんど見られないように感じる。ただ静かに、全てを見通すかのようにして浩介の存在を受け止めている。その静謐さに、声をかけた浩介の方が気圧されそうになった。
「……何か御用でしょうか?」
彼女の声は、鈴を転がすように涼やかだったが、その響きには揺るぎない芯のようなものが感じられた。見た目の年齢以上に落ち着きがあって、大人びている。
「あ、いや……突然申し訳ありません。あまりにも景色が素晴らしかったもので、つい見とれてしまって」
浩介は、用意していた当たり障りのない言葉を口にした。「ここは見晴らしがいいですね。空気が澄んでいて、気持ちがいい」
「…………そうですね」
少女は僅かに間を置いてから、短く相槌を打った。感情の温度が感じられない平坦な声。そして、すぐに視線を川面に戻してしまう。彼にはそれが、これ以上関わるなという無言のメッセージのように感じられた。
壁を作られている。それは薄いガラスのように見えて、その実、決して破れない壁だ。
だが、浩介は食い下がった。ここで引き下がれば、何も分からないまま終わってしまう。
「実は……ひとつ、どうしてもお伺いしたいことがありまして」
彼は意を決して、川向こうに見える首都高の橋梁を指さした。「あそこの橋脚に、大きな落書きがありますよね?」
その言葉を発した瞬間、少女の纏う空気が明らかに変わった。肩が微かに震え、橋脚に向けていた視線が、一瞬だけ揺らいだ。
彼女はゆっくりと、恐ろしいものでも見るかのように橋梁へと視線を向けた。そして再び浩介に向き直った時、その表情は能面のように固く凍りついていた。瞳の奥に、先ほどとは比較にならないほどの強い警戒と何か別の――それは明らかに強い負の――感情が渦巻いているのが明らかに分かる。
「……ええ。確かに見えておりますが。それが、何か?」声のトーンは低く、抑揚がない。
「あれ、不思議なことに、最近、変わったんです」
浩介は、核心に迫る言葉を慎重に続けた。「まるで、誰かが定期的に描き直しているような…。例えば、赤い模様が青い円に変わっていたり…。何か、ご存知ないでしょうか?」
浩介が具体的な変化に言及すると、少女の瞳がさらに鋭く、射抜くように彼を捉えてくる。唇が微かに震えているようにも見える。だが、彼女の口から発せられた言葉は、感情を完全に押し殺した、冷たい響きだった。
「さあ……わたくしには、皆目見当もつきません。そのような、川の中の落書きのことなど、気にも留めておりませんので。おそらく、ただの悪戯書きが、また別の悪戯で上塗りされた、ということではないでしょうか」
あまりにも白々しい否定。その言葉とは裏腹に、彼女の全身が「全てを知っている、だが話しはしない」と叫んでいるように感じられる。彼の直感はその瞬間、確信へと変わった。この少女は間違いなく、あの落書きの秘密を知っている。あるいは深く関わっている。
「そうですか……」
浩介は、それ以上追及するのは無意味であり、危険でさえあるかもしれないと感じた。「それは失礼いたしました。どうも気になってしまって。お騒がせして申し訳ありません」
彼は軽く頭を下げ、引き下がる姿勢を見せた。
少女は、何も答えなかった。じっと浩介の目を見つめ続けている。その深い瞳の奥で、何らかの激しい感情が渦巻いているかのようだ。
浩介はその視線を受け止めながら、会ったばかりの目の前の少女に対して、もはや単なる謎の対象としてではない、もっと複雑な感情を抱いていることに気付いていた。
彼女が背負っているであろう秘密の重さ。隠しきれない憂いと、それでも保とうとしている気高さ。触れたら壊れてしまいそうな儚さ。
名前も知らないこの少女を守りたいと浩介は強く思った。根拠のない衝動的な感情だったが、それは否定しようもなく彼の心を支配し始めていた。
どれほどの時間が経ったのか。張り詰めた沈黙の時間が、二人の間を流れていく。滔々と流れる中川の流れや、青い冬空を掠めるユリカモメさえもが、その動きを止めたかのようだった。
やがて少女の方から先に、その沈黙は唐突に破られた。
「……それでは、わたくしはこれで、失礼いたします」
声には、まだ微かな震えが残っていたかもしれない。彼女は静かに立ち上がると、乱れた袴の裾を丁寧に直し、浩介に向かって深々と、しかしどこか機械的に一礼した。踵を返すと、やや上流に見える杜の方向へと、迷いのない足取りで遊歩道を歩き始める。
白い草履がコンクリートを打つ音だけが、やけにクリアに聞こえる。冬の風が、彼女の長い黒髪と緋色の袴の裾を翻らせた。その姿は、この世ならぬ場所へと帰っていく天女か何かのように非現実的で、美しく、哀しかった。浩介はただ呆然と、その後ろ姿が小さくなり、やがて堤防を続く階段を上がって見えなくなるのを見送るだけしかない。
少女の姿が見えなくなってから、浩介は改めて、彼女が向かった先にある緑の杜を見つめた。堤防越しにでも分かる、鬱蒼と茂る常緑樹。樹齢を重ねたであろう巨木も見える。
スマートフォンの地図アプリを開いてみる。
(……水瀬、神社……)
名前からしても、水に関わる神を祀る役割が感じられた。この荒川のほとりという立地を考えればごく自然だ。
浩介は、彼女の消えた階段まで歩くと、堤防を上がってみた。遊歩道からは見えなかったが、杜の中にそれほど大きくはない社殿が覗いている。周囲の近代的な風景とは明らかに一線を画す、古来からの神聖な空気がそこには漂っているように感じられた。
あの少女と、変化する落書きと、この古社。彼の胸には、それらが一本の線で結びついているのではないかという予感が渦巻いていた。