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第二話 転機

 長く続いた猛暑がようやく過ぎ去り、オフィスの窓から見える空も、高く澄み渡る季節が訪れた。アスファルトの照り返しにうんざりすることも、シャツが肌に張り付く不快感もなくなり、通勤の足取りも心なしか軽くなる。浩介が勤める関東ジオ・リサーチも、夏の繁忙期を乗り越え、少しだけ落ち着きを取り戻していた。


 浩介はデスクで、PCのモニターに映し出された荒川流域の古地図と最新のハザードマップを重ね合わせ、比較検討する作業に没頭していた。これは、彼が自らに課した業務の合間の「研究」のようなものだった。土地の成り立ちや過去の河道の変遷は、現代の洪水リスクを理解する上で重要な手がかりとなる。旧河道、つまり昔の川筋だった場所は今も地盤が軟弱で、地震時の液状化や浸水のリスクが高い。そうした歴史的な視点を現在の防災計画にもっと活かすべきだ、というのが彼の持論だった。もっとも効率と予算を重視する会社の方針とは、なかなかに相容れなかったが。


「高杉さん、また古い地図とにらめっこですか? 本当に好きなんですね」

 昼休み、隣の席の田中さんが、サンドイッチを頬張りながら話しかけてきた。

「…まあな。地図は嘘をつかないからな。今の地形だけ見てると分からないことが、これを見るとよく分かる」


 浩介は、モニターの特定の箇所を指さした。

「例えば、ここ。今はただの住宅地だが、江戸時代の地図を見ると、大きな池があったことが分かる。つまり、ここは周囲より土地が低く、水が集まりやすい場所だということだ。ハザードマップでも、浸水リスクが一段階高く設定されているはずだぞ」

「へえー! 面白い! 地図を見てるだけで、そんなことまで分かるんですね!」田中さんは、目を輝かせる。

「まあ、基本だけどな」浩介はぶっきらぼうに答えながらも、自分の知識が誰かの興味を惹くことに、悪い気はしなかった。孤独な研究室に籠もっていた学生時代にはなかった感覚だ。


 その日の帰りの電車。傾きかけた西日が車内に長く影を落としている。

 東西線がいつものように荒川橋梁に差し掛かった。秋の澄んだ空気の中、富士山のシルエットが夏の時期よりも大きく、くっきりと見える。まだ冠雪はないが、その姿は雄大だ。


 浩介の視線は、西日を受けてきらめく眩しい川面から、もはや完全に習慣となった動きで、首都高の橋脚の落書きへと移った。夏の間に、その意匠について少し考えたことをふと思い出す。結局、それは意味不明なままだが、なぜか彼の心に引っかかり続けていた。


 彼はその日、改めて意識的に、その構図や色彩のパターンを記憶に刻み込もうと試みた。中央に鎮座する、黒い王冠のようなシンボル。その周囲を渦巻くように配置された、赤と青の対比。そして、それらを繋ぐように描かれた黄色や緑の複雑なライン。


(…法則性。何かルールがあるはずだ…)


 彼は、学生時代に古文書の判読で培ったパターン認識能力を、無意識のうちに発揮しようとしていた。意味の分からない記号の羅列の中から、共通項や変化の規則性を見つけ出す。それは、彼が得意とする作業の一つだった。だが電車は、そのような意思とは関係なしに勢いよく橋を渡り終え、落書きは瞬く間に視界から消え去ってしまう。一瞬の観察では、複雑な全体像を把握するのは不可能だった。


(やはり、一度きちんと記録しないとダメか…)


 そう思いながらも、彼はまだ具体的な行動を起こせずにいた。ただの落書きにそこまで時間と労力をかけることにいったい何の意味があるのか、という至極もっともな理性が、彼を押しとどめていたのだ。



 しかし、その理性のストッパーがあっけなく外れる日は唐突にやってきた。

 十月の半ばを過ぎた、ある晴れた火曜日の朝のこと。その日も、浩介はいつもと同じように東西線に揺られていた。荒川橋梁に差し掛かり、いつものように首都高の落書きに目をやる。特に何かを期待していたわけではない。ただの習慣だ。

 だが、その瞬間、彼の脳内で何かが警鐘を鳴らした。


(……ん?)


 彼は眉根を寄せた。今目の前で網膜に映る像と、昨日、そしてここ数週間見てきたはずの記憶の中のイメージが、明らかに食い違っている。


(違う…)


 心臓が、どくん、と大きく跳ねた。彼は窓ガラスに顔を近付け、食い入るように落書きを凝視した。電車は彼の思いを置き去りにして、無情にも勢いよく進んでいく。


(間違いない…! 変わっている!)


 確信が、電流のように身体を貫いた。中央の黒い王冠のようなシンボルは、そのまま。だが、その右側、以前は激しい赤色のスプレーで炎のような模様が描かれていたはずの場所が、今は冷たい青色の、渦を巻くような模様に完全に描き換えられているのだ。


 単なる上書きではない。元の赤い部分は跡形もなく消え去り、全く別の意匠が、あたかも最初からそこにあったかのように描かれている。それは、昨日までのデザインとは、明らかに別のデザインだった。


 電車は橋梁を渡り終え、砂町のマンション群が迫ってくる。だが、浩介の意識はまだ川の中の橋脚に釘付けになっていた。


(いつの間に…? 昨日の夜か? 一体、誰が…)


 衝撃と同時に、言いようのない興奮が彼の全身を駆け巡った。これは、ただの落書きではない。自分の考えは、妄想ではなかったのだ。あの落書きは明確な意図を持って、何者かによって「更新」され続ける、生きたサインなのだ。


 その日から、浩介の日常は一変した。彼は、通勤のたびにスマートフォンのカメラを望遠モードにし、橋を渡る一瞬を狙って、落書きの写真を撮り始めた。ブレていたり、ピントが合っていなかったりすることも多いが、それでも貴重な記録だ。彼はPCに専用のフォルダを作成し、撮影した写真に日付を付けて、毎日保存していくことにした。彼の単調だった日常に、胸の躍るような秘密の「研究テーマ」が生まれた瞬間だった。


 休日にカメラ片手に散策する時も、彼の視点は以前とは少し変わっていた。ただ歴史の痕跡を探すだけでなく、街の中に隠された他の「サイン」のようなものはないか、無意識に探している自分に気づく。古い神社の境内に残る石碑の文様、道端の地蔵の奇妙な配置、あるいは建物の壁に描かれた小さなタギング。その一つ一つが、何か意味を持っているのではないか、と疑うようになっていた。もちろん、そのほとんどは彼の考えすぎに過ぎなかったが、世界が以前よりも少しだけ謎めいて見えるようになっていた。



 一年で最も寒さが厳しく、そして空気が澄み渡る季節がやってきた。オフィスは年度末に向けて再び慌ただしくなり、浩介は連日、報告書の作成と修正に追われていた。分野に限らずだが、官公庁からの発注案件は三月三十一日が納品締切に設定されているものが非常に多い。予算が四月から翌年三月の年度単位で組まれているからだ。

 彼の手持ち案件である富士山噴火時の降灰リスク評価レポートも、国土交通省本省発注の、三月末締め案件の一つだった。土木分野だけでなく法的、経済的な見方も含めた複合的評価視点を求められ、発注額も数千万円とコンサル案件にしては高額だ。

 しかし、このレポートの最終的な結論の方向性は、浩介と直属の上司である鈴木課長との間で、静かではあるが根深い対立を生んでいる。


「高杉君、このシミュレーション結果の記述、もう少しトーンを抑えられないかと言っただろう? 『首都機能に深刻な影響を及ぼす可能性がある』なんて書かれたら、クライアントの心証が悪すぎる」

 鈴木は、浩介が提出した最終稿に赤ペンを入れながら、うんざりしたように言った。

「課長、これは客観的なデータに基づいた記述です。宝永クラスの噴火が現代で起きたら、交通網やライフラインへの影響は計り知れない。そのリスクを正確に伝えるのが我々の責務ではないでしょうか?」

「事実、事実と言うがな、高杉君。その事実の解釈や見せ方というものがあるだろう。我々はコンサルタントなんだ。クライアントである国交省が懸念するような、過度に悲観的な報告書を出すわけにはいかないんだよ。それに万が一、このレポートが外部に漏れたらどうする? 無用なパニックを引き起こしかねない」

「しかし、最悪の事態を想定して備えることこそが、真の危機管理では…」

「分かってる!」

 鈴木は、やや語気を強めた。

「だがな、それはそれ、これはこれだ。本省の予算も人員も限られている中で、やれることには限界がある。我々は、その現実的な制約の中で、最善の『報告書』を作成する義務があるんだ。分かるな?」

 有無を言わせぬ口調だった。浩介は、それ以上反論する言葉を見つけられなかった。結局、今回もまた組織の論理が優先されるのだ。彼は深い溜息とともに「…修正します」とだけ答えた。自分の無力さとこの国のシステムに対する諦めが、冷たい霧のようにぼんやりと心を覆っていく。



 そんな鬱屈した仕事とは裏腹に、彼の個人的な「研究」は静かに、しかし着実に進んでいた。秋に記録を始めてから三ヶ月。彼のPCには、百枚近い落書きの写真データが蓄積されていた。通過中の混んでいる電車の窓越しに撮影したものだから、画質の悪い写真がほとんどを占める。それでも、変化の有無を確認するには十分だった。


 彼は、夜自宅に戻ると、その写真データをPCの大画面で比較分析することに没頭した。日付、曜日、そして天気、気温、ニュースといったその日の状況を、それぞれの画像ファイルにタグ付けしていく。そして、変化のパターンを探る。それは、かつて研究室で古文書の僅かな記述の違いから歴史の真実を炙り出そうとした作業と、どこか似ているところがあった。

 まず、デザインの変化周期に着目した。定期的に変更されているわけではないことがすぐに分かる。三日で書き換えられたこともあれば、十日間放置されていることもあった。だが、変化のタイミングは思ったより頻繁だ。全体的なデザインは変わりなくても、細部の変化にまで着目すると、平均一週間程度で何らかの変更が行われていた。

 少なくとも、この落書きを書き換えている人物は、砂町、葛西といった、周辺地域に居住しているのではないかと思う。もちろん首都圏近辺からこの地を訪れるのは容易だが、浩介の目にはこの人物がこの地に抱える執着のようなものが映っていた。

 次に彼は、土木コンサルタントとして客観的なデータとの相関関係を探った。最初に荒川の水位だ。国交省の「川の防災情報」サイトから、過去数ヶ月分の詳細な水位と流量、そして周辺の降雨量のデータをダウンロードした。それらを、落書きの変化が記録された日付と照らし合わせていく。


「…やはり、単純な連動ではないな…」


 彼はモニターを睨みつけながら呟く。確かに、いくつかの弱い相関関係らしきものは見いだせた。例えば、台風の接近による集中豪雨によって、荒川の水位が「水防団待機水位(レベル2)」を超えた時には、落書きの青色の面積が、ほぼ確実に画面の半分以上を占めるようになる。また、大潮で満潮時刻と日の出が重なるような、高潮リスクが高まる日には、あの黒い王冠のようなシンボルの隣に、決まって小さな波のような模様が描き加えられることも分かった。


「…だが、それだけじゃない」


 問題は、それらの法則に当てはまらない説明のつかない変化が、あまりにも多いことだった。晴天が続いて水位も安定している日に、突然全体の色彩ががらりと変わることもある。かと思えば、水位が大きく変動しても全く変化がない日もある。


(何か、別のパラメータがあるのか…?

俺が見落としている、別の条件が…)


 彼は、あらゆる可能性を検討した。潮の干満、風向き、風速、気温、日照時間、さらには月齢まで。だが、どれも決定的な法則性を示すには至らなかった。まるでこちらの思考を嘲笑あざわらうかのように、落書きは気まぐれにその姿を変え続ける。ロジカルな思考では解き明かせない何か別のルールが、そこには働いているのかもしれない。その事実に、浩介は言いようのないもどかしさと同時に、さらに強い好奇心を掻き立てられていた。



 年が明け、一月下旬。その日の朝は突き抜けるような完璧な快晴だった。放射冷却で気温は氷点下近くまで下がっている。東西線の車窓から見える景色は、驚くほどクリアだった。そして電車はいつもと何の変わりもなく荒川橋梁に差し掛かる。

 その日の富士山は、息を呑むほどに美しかった。一点の曇りもない空を背景に、頂から中腹までを新雪で真っ白に覆われ、その稜線は剃刀のように鋭く、空に突き刺さっている。完璧な円錐形。その姿は、神々しいとさえ言えるほどの荘厳さを湛えていた。


 浩介はしばし言葉を失い、その絶対的な美しさに見入った。だがやはり、心のどこかで警鐘が鳴る。これまで蓄積されてきた災害史の知識が、この静謐な美しさの裏に潜む、計り知れない破壊のエネルギーを警告する。彼は、この美しい山がいつか必ず再び牙を剥くであろうことを知っていた。


 そして、彼は富士山から視線を移し、いつものように橋脚の落書きへと目を向ける。冬の低く柔らかな日差しが、その表面をくっきりと照らし出している。毎日写真で記録している見慣れたはずの模様。今日も彼はスマホを向けてシャッターを押す。


(写真だけでは限界があるか…)


 彼は撮影したばかりの画像を確認しながら、自分の分析の限界を悟った。写真では、色の微妙な濃淡やスプレーの質感、塗り重ねられた層の厚みまでは分からないのだ。そして何より、その場に漂う「空気」のようなものは決して伝わってこない。


(…やはり、現場に行かなければダメだ)


 彼は、強くそう思った。遠くからの観察やデータとの照合だけでは、この謎の核心にはたどり着けない。あの場所に自分の足で立ち、自分の目や肌で感じなければならない。危険かもしれない。馬鹿げたことかもしれない。だが今は、真実を知りたいという渇望が、彼の理性を大きく上回っていた。

 スマートフォンのカレンダーを開き、次の週末の予定を確認した。土曜日は空いている。


「行くか…」


 確かな決意を込めて、彼は小さな声で呟いた。電車は荒川を渡り終え、南砂町の手前で地下へと滑り込んでいく。窓の外の景色が灰色のコンクリートに変わった。

 しかし、浩介の心はこの薄暗い地下のトンネルにはない。彼の意識は、あの広大な川とそこに立つ橋脚の謎めいた落書き、そこに隠された巨大な秘密へと向かっていた。退屈で予測可能だったはずの彼の世界が、今静かに動き始めている。

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