第一話 灰色の空
新しい年度が始まって、一月が過ぎようとしていた。高杉浩介を取り巻く日常は、しかし何の変化も見せない。彼は相変わらず、西船橋の駅から満員電車に揺られ、大手町のオフィスへと通う日々を送っていた。
三十ニ歳。土木コンサルタント。その肩書にもようやく慣れたというよりは、諦めに近い感情で向き合えるようになっている。
その日の朝、空はどんよりと曇り、時折冷たい雨粒がぱらつく、花冷えにしては遅すぎるぐずついた天気だった。
午前十時半、江戸川河川事務所との打ち合わせ。相手は、いつもの山岸係長。年の頃なら四十代半ば。いかにも役人らしい、隙のない物腰の男だ。浩介は、作成した「綾瀬川中流域堤防強化計画に関するハザードシミュレーション結果報告書」について説明を始めた。
綾瀬川は埼玉県桶川市を水源とする、全長四十九キロの利根川水系一級河川。埼玉県八潮市、足立区を抜けて、葛飾区で中川に合流する。合流地点は、浩介が東西線の窓から見渡せる中川と荒川の合流地点から、さらに数キロ上流だ。
江戸期まで、この川の下流は大雨のたびに氾濫するため川筋が一定せず、「あやし川」と呼ばれたことがその名の由来とされている。江戸期に入り、治水の名将と謳われた関東郡代、伊奈備前守によって改修され、大正期に開削された荒川放水路に流路を変更されたことで、大規模な氾濫を起こすことは滅多になくなった。かかわる案件の一つ一つが、そうやって数百年続く人びとの営みの中で生まれ、それぞれの世代が水害に苦しみ抜く中で、でき得る限りの努力をして次の世代に譲り渡していく。その一番先端に自分がいて、自分もいずれその努力を次の世代へと届けていくのだ。それこそが課された使命なのだと、この仕事を選んだときから、彼はそう考え続けてきた。
「…以上のシミュレーション結果から、現行計画の強化案Bを採用した場合でも、百年確率降雨に相当する洪水が発生した場合、一部区間では依然として越水のリスクが残存することが示唆されます。特に、旧河道の蛇行部に該当するこのエリアは、地盤特性も考慮すると…」
浩介は、専門用語を交えながら、客観的なデータを提示していく。だが、山岸係長の表情は硬いままだった。
「高杉さん、詳細な分析ありがとうございます」
一通り説明が終わると、山岸は言った。
「しかし、強化案Bは、既に現在の予算枠を大幅に超えています。複数年度に渡るこれ以上の予算確保も難しい。そしてご存知の通り、国の財政状況は厳しい。現行計画の範囲内で、最大限の効果を上げる方法を考えるのが、現実的なアプローチではありませんか?」
「それは承知しております。ですが、リスクを過小評価することは、将来的にさらに大きな被害を招く可能性も…」
「もちろん、リスク管理の重要性は理解しています。ですが、我々には、費用対効果と計画全体の整合性をも考慮する責任がある。今回の報告書については、強化案Bのリスクを指摘するだけでなく、現行計画の範囲内での対策の有効性についても、もう少しポジティブな評価を加えていただけませんか?」
(…また、結論ありきの修正要求か)
浩介は内心で、深くため息をついた。これが現実だ。科学的なデータや分析よりも、予算や政治的な「空気」が優先される。彼は無力感と僅かな怒りを覚えながらも、それを表情に出すことはしなかった。
「…承知いたしました。ご指摘の点を踏まえ、報告書の表現を再検討いたします」
当たり障りのない言葉を口にし、頭を下げる。それがこの世界で生き残るための術だった。
江戸川河川事務所のある野田市からオフィスに戻る道すがら、彼はふと大学院時代を思い出していた。国史学、中でも日本の災害史と治水技術の変遷。それが彼の研究テーマだった。古文書の解読に没頭し、過去の洪水や地震の記録から、先人たちの知恵と苦闘、そして自然の脅威に対する人間の無力さを学んだ日々。特に、江戸時代の河川改修――伊奈氏三代の手がけた利根川東遷や荒川西遷といった巨大プロジェクトが、如何にして関東平野の姿を変え、江戸ひいては東京の繁栄を支えたか、そして同時に新たなリスクを生み出したかというテーマには、寝食を忘れるほど夢中になった。指導教官とはそりが合わず、論文の方向性で何度も衝突したが、それでも研究そのものが持つ知的な興奮は、何物にも代え難かった。あの頃は、いつか大学で教鞭をとり、自分の研究を深めていけると本気で信じていたのだ。
だが、現実は甘くなかった。ポストは限られ、人間関係は複雑で、何より彼は自分の才能に限界を感じ始めていた。どれだけ努力しても、超えられない壁がある。経済的なプレッシャーも増していく中で、彼は自らアカデミアの道を断念した。博士課程満期退学という最も中途半端な形で。
今の仕事は、その知識と無関係ではない。むしろ深く関わっている。だが求められるのは真実の探求ではなく、クライアントが満足する「成果品」としての報告書だ。そのギャップが、彼の心をじわじわと蝕んでいた。
午後はオフィスに戻り、報告書の「表現の調整」という名の、事実上の改竄作業に没頭した。リスクを指摘する部分のトーンを弱め、現行計画の「意義」や「期待される効果」といった、耳障りの良い言葉を散りばめていく。それは、自分の専門知識と良心を裏切る行為に他ならなかったが、指は機械的にキーボードを叩き続けた。
その日の夕方、ようやく作業に一区切りをつけ、浩介は大きく伸びをした。窓の外は、まだ雨が降り続いているようだった。PCの電源を落とし、帰り支度を始める。一日が終わる。また明日も今日と同じような、代わり映えのしない一日が来るのだろう。そう思うと、足取りは自然と重くなった。
帰りの電車は、朝ほどの混雑ではないが、それでも座席は全て埋まっていた。西船橋に着くまでの約三十分。浩介は吊革に掴まり、ぼんやりと窓の外を眺めていた。東西線快速が南砂町を通過し、高架線を駆け上がる。そして、マンション群を抜けると視界が大きく開け、荒川中川橋梁に差し掛かるのだ。
雨に煙る広大な河川敷。増水した濁流が、灰色の空の下を重々しく流れている。彼の視線は無意識のうちに、荒川と中川の境目に立つ首都高の太いコンクリートの橋脚の一つに向けられた。そこに描かれた、巨大なグラフィティアート。雨に濡れたその派手な色彩が一層どぎつく、周囲の風景から浮き上がって見えた。
(…相変わらず、趣味の悪い落書きだ)
彼は内心で呟いた。いつからあったのか、正確には思い出せない。だが、少なくとも彼が東京にやって来た数年前から、ずっとあの場所にある。一体誰が、どうやってあんな場所に描いたのか。なぜいつまでも消されずに放置されているのか。管轄する組織の怠慢か、あるいは撤去費用を惜しんでいるのか。理由は知らないが、彼にとっては都会に巣食う無数の醜悪なノイズの一つに過ぎなかった。彼はすぐに視線を外し、スマートフォンの画面に目を落とした。憂鬱な一日の終わりに、わざわざ不快なものを眺め続ける必要はない。
記録的な猛暑が続いていた。テレビでは連日、熱中症への警戒が呼びかけられ、アスファルトは陽炎で揺らめいている。外を歩くだけで命の危険を感じるほどの暑さだ。
マネジメントしている案件業務は、台風シーズンの到来を前に、一年で最も忙しい時期を迎えていた。浩介も連日深夜までの残業に追われ、肉体的にも精神的にも疲労が蓄積している。
「高杉さん、この間の台風10号の時の、利根川上流ダム群の流入量データ、ちょっと見てもらえませんか? シミュレーション値と実測値に、どうしても無視できない誤差が出てしまって…」
隣りの席の田中さんが、困り果てた顔で話しかけてくる。彼女のPC画面には、二本の曲線が描かれたグラフが表示されている。確かに、ピーク部分で大きな乖離が見られた。
「…ああ、これはな」
浩介は、自分のマグカップを片手に彼女のデスクへ寄り、画面を覗き込んだ。
「上流の山間部で、短時間に局地的な豪雨があったんだろ。レーダー雨量計でも捉えきれないような。それに、この時期は、夏草が繁茂して地表の保水力も変わる。そういう複合的な要因が、シミュレーションの前提条件を狂わせるんだ。机上の計算通りにはいかない、典型的な例だよ」
「じゃあ、この誤差はどうすれば…」
「どうしようもない。報告書には、正直に『想定を超える局所的降雨によるものと推定される』と書くしかない。あとは、今後の課題として、観測網の強化とモデルの精緻化を提言しておくんだ。それで十分だ」
「…なるほど。ありがとうございます!」
田中さんは、少しだけ安堵した表情で頷いた。浩介は自分のデスクに戻りながら、内心でため息をつく。自然は、常に人間の予測を超える。自分たちの仕事は、その不確実性と正面から向き合い続けることなのだ。
週末の午後。浩介は、冷房がガンガンに効いた市立図書館の閲覧室に避難していた。ここは、彼の数少ない聖域だ。静かで涼しく、何よりも現実の煩わしさから一時的に解放してくれる知の宝庫でもある。仕事関連の専門書を数冊借り出すと、彼はいつものように歴史書の書架へと向かった。
この日は、江戸期の関東地方の詳細な地図帳を見つけた。複雑に入り組んだ水路、広大な湿地帯、そして点在する村々。ページをめくるたびに、失われた風景が目の前に蘇ってくるようだ。彼は、自分が研究していた利根川東遷や荒川西遷が、この地図に描かれた風景を如何に劇的に変えたか、それが現代の東京の繁栄や潜在的リスクと、どれだけ深く結び付いているかについて思いを馳せた。
(こういうことを、もっと突き詰めたかったんだ…)
古文書の解読、フィールドワーク、それらをもとに歴史の大きな流れを読み解く作業。それは今の仕事で求められる細切れのデータ処理や、政治的な配慮に満ちた報告書作成とは全く質の異なる、純粋な知の営みだった。もし博士論文を完成させ、大学に残ることができていたら…。そんな詮無い仮定が、またしても彼の心を締め付ける。
彼は深いため息とともに地図帳を閉じ、席を立つ。過去を振り返っても何一つ変わりはしないのは、歴史を学んだ学徒の端くれとして、心得ているつもりだった。
平日の夜。
まとわりつくような熱帯夜の空気の中、浩介は真間川沿いの遊歩道を走っていた。体力維持というより、もはや精神衛生を保つための儀式に近い。イヤホンからは、いつものように単調なテクノミュージックが流れ、彼の思考を現実から切り離そうとしている。
ライトアップされた水門が、暗い川面に不気味な光を落としている。コンクリートで固められた護岸。規則的に続く手すり。全てが人工的で、管理された風景だ。一見穏やかに見えるこの川も、ひとたび牙を剥けば、周辺地域に甚大な被害をもたらす。彼は研究や日常の業務を通じて、そのことを深く知っていた。
走りながら、今日のオフィスでの出来事を思い出す。若手の田中さんが、入力データのミスでパニックになっているのを、彼はぶっきらぼうな口調ながらも的確な指示で助けてやった。感謝されても、彼はただ「次からは気をつけろ」とだけ言った。人に優しくするということが、どうにも苦手なのだ。
(俺は、結局、人付き合いが下手なんだな…)
研究室に籠もっていた頃から、そうだった。自分の興味のあることには没頭するが、それ以外のことには無頓着。他人の感情の機微を読むのも苦手だ。それが、指導教官との関係をこじらせた一因でもあるのかもしれない。
走り続けるうちに汗が噴き出し、呼吸が苦しくなる。だが、彼はペースを緩めなかった。身体的な苦痛が、精神的な鬱屈を僅かでも紛わらしてくれるような気がした。
別の日の通勤電車。夏の日差しが容赦なく車内に差し込み、冷房が唸りを上げている。電車はいつも通り、荒川の橋梁を渡る。
川面が太陽光を反射して、目を細めなければ見ていられないほど眩しい。遠くの空は白く霞み、富士山の姿は影も形もない。水分の多い夏の空気は、東京から富士の見える日を極端に少なくする。今日の富士山も、箱根の山々と一緒になって、白い靄の中にその姿を潜めていた。
浩介は、窓の外に目をやり、橋脚の落書きを視界の端で捉える。
(相変わらず、意味不明な模様だな…)
ぎらつく太陽の下で、その色彩が一層けばけばしく見える。春先に一度、そのデザインについて考えたことを思い出す。あれから数ヶ月。特に変わった様子はないように見える。彼はふと、その描かれている内容にもう一度、意識を向けてみた。
中央にある、黒い王冠か角のようなシンボル。その周りを渦巻く、赤、青、黄色のスプレー。
何か特定のメッセージが込められているのだろうか?
それとも、単なる自己満足のアートか?
(まあ、どっちでもいいか。俺には関係ない)
彼は小さく首を振り、すぐに興味を失った。こんな落書きは、彼の人生において何の重要性も持たない。この時はまだ、そう思っていた。