夏の日
誰もいない朝の教室は、どこか水槽の底みたいだった。窓から差し込む光はすでに夏の気配を帯びていて、静かに床のタイルを照らしている。
僕は鞄の中から、昨晩書きかけたノートを取り出した。そこには、「進路希望調査票」というタイトルが印刷されていて、書きかけの欄だけがぽっかりと白紙のままだ。
──どうして、こんなにも筆が進まないんだろう。
ペンを握ったまま、僕は天井の隅をぼんやりと見つめた。選ばなければならない未来。その言葉の重さが、ずしりと肩に乗っている気がした。
やがてチャイムが鳴り、クラスメイトたちが続々と教室に入ってくる。彼らの会話は自然と「どこを受けるか」「推薦がどうだ」「模試の偏差値が上がった」といった話題に染まっていた。
その声を聞きながら、僕はそっとノートを閉じた。
初夏の風が吹き抜ける午後、僕は図書室の窓際に座っていた。教室ではクラスメイトたちが進路や模試の話題で盛り上がっているけれど、僕はその輪に入る気になれなかった。
ノートの上には「理学部 宇宙物理学科」という文字。それはたしかに僕の意思で書いたものだったのに、どこか現実感がなかった。
「お前、なんでまた天文部に顔出すようになったんだ?」
三島が笑いながら僕の横に腰を下ろした。彼は以前からの付き合いで、無邪気なようでいて、ときどき鋭いところを突いてくる。
「……なんとなく、かな」
「なんとなく、で読める本じゃねーぞ、それ」
机の上には『星と銀河の物理学入門』という少し難しそうな参考書。正直、半分も理解できていない。でも、理由はそれでよかった。
わからないから、知りたい。
その動機だけで、今は充分だった。
放課後、旧館の屋上に上がると、夕焼けが校舎を赤く染めていた。天文部の観測機材は片付けられたままだが、かつてここで何度か空を見上げた記憶がある。
その夜、奏さんからメッセージが届いた。
「進捗はどうだ? よかったらまた話そう。観測に付き合ってくれると助かるんだ」
観測──その言葉に、胸の奥で何かが反応した。




