喜び
「少年、君が進路票を書けたと聞いて、私は本当に嬉しかった」
「……どうしてですか」
「君はまだ若い。夢も未来も、無限に広がってる。なのに、その怖さに押し潰されそうになっていた。だからこそ、自分の手で選んだあの一歩が、どれだけ尊いか知っているんだよ」
星空を見上げる奏さんの横顔は、誰よりも美しかった。
その顔には、敗北も痛みも刻まれていた。
けれど、それ以上に強い光があった。
「……でも、僕はまだ怖いです」
声が震える。
「そりゃそうだ。人間はずっと怖がりだ。私もだよ。君が思っている以上に、みんな弱い。でもな、怖がりながら進むのが、本当の強さだと思わないか?」
「……強さ」
「そうさ。弱さを抱えたまま、それでも一歩踏み出す。それが、本物の強さだ」
その言葉は、昨日までなら痛いほど響いて胸を締めつけただろう。
でも今は、少しだけ優しく胸に届く。
「でも、少年。選んだからこそ見える景色もあるんだぞ」
「景色……?」
「そうだ。自分で決めた道を歩くと、今まで見えなかった小さな光や影が見える。たとえ辛くても、それは全部君だけの景色だ」
静かな声だった。
でも、その言葉の一つ一つが、胸の奥深くに沈んでいく。
「君が今見てる星は、何万年も前の光だ。それが、今ここで君を照らしている。時間を超えて、場所を超えて、ずっとそこにある。君の夢だって同じだ。たとえ誰かに否定されても、すぐに消えたりはしない」
奏さんの視線が、真っ直ぐ僕を貫いた。
「君は、本当に星を見たいと思ってるんだろ?」
「……はい」
ようやく言葉にした。
震えていたけれど、その声は確かに自分自身のものだった。
「なら、それでいいんだよ」
沈黙が降りる。
けれど、その沈黙は重苦しくなく、むしろ心地よかった。
(……僕は、間違ってないのかもしれない)
奏さんが静かに立ち上がり、望遠鏡の準備を始める。
その手の動きは優雅で、どこか儀式のようだった。
「今日は、オリオン座を見せてやろう。冬の空では、一番分かりやすい星座だ」
「オリオン座……」
幼い頃、父と一緒に夜空を見上げたとき、父が教えてくれた星座。
僕が最初に「星って面白い」と感じたきっかけ。
望遠鏡を覗き込むと、そこには小さな光の群れが整然と並んでいた。
まるで誰かが空に描いた神話のようだ。
「……きれいだ」
言葉は小さかったけれど、胸の奥から溢れ出た。
「星は、ただ光るだけで誰かを救うことがある。言葉じゃなくても、存在そのものが力になる」
奏さんがそう言ったとき、僕の目には涙が滲んでいた。
拭わずに、そのまま空を見続けた。
「父さんは、僕に強い人間でいてほしかったんだと思います。現実をしっかり見て、安定した未来を選ぶ……でも、それだけじゃ足りなかった。……僕は、もっと遠くを見たい」
「それでいい。少年、お前はまだ始まったばかりだ。これからも迷うだろう。でも、そのたびに星を見ろ。君は星と一緒に、少しずつ進めばいい」
頷くと、冷たい空気が肺に沁みた。




