心の裏側
奏さんは、黙ったまま僕の隣に立っていた。
冬の風が白衣を揺らすたびに、彼女の存在感がより大きく思えた。
「なあ、少年。星を見ていると、どんな気持ちになる?」
突然の問いに、僕は一瞬言葉を詰まらせた。
口を開きかけては閉じ、また開いて――ようやく言葉が出た。
「……安心する、かな。いや、違うかもしれない。安心というより……」
僕は空を仰ぎ、もう一度自分の胸に問いかける。
「……孤独を思い出す。でも、そんな孤独を、星たちは静かに見守ってくれてる気がするんです」
奏さんはゆっくりと頷いた。
白い吐息が、彼女の横顔をふわりと包む。
「そうか。君はもう、気づいているんだな」
「何を……?」
「君は星を見て安心してるわけじゃない。星を通して、自分自身を見ようとしているんだよ。君が恐れているのは、進路でも将来でもなく、自分の中にある『本当の願い』だ」
「……本当の願い……」
僕は、もう一度空を見た。
そこには、ただ変わらずに光を放つ星たちがあった。
幼いころ、あの光を見つけるたびに無邪気に夢を語った自分を思い出す。
(僕は、ただ星が好きだっただけじゃない。星の向こうに、まだ知らない世界を見ていた。見たいと思っていたんだ)
「……でも、叶わなかったらどうするんですか。無理だって、分かってるんです」
言葉にした瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。
怖かった。夢を見ることも、それを失うことも。
「叶わないと誰が決めた? 可能性は0じゃない。だが、可能性が1%でも、信じるかどうかは君の自由だ。信じることが怖いのか?」
「……はい」
正直に答えた。
そのとき、頬を冷たい風が撫でた。
それが、まるで慰めのように感じてしまう自分が情けなかった。
「少年、君は優しいな。だからこそ怖いんだろう」
奏さんは微笑みながら、僕の頭にそっと手を置いた。
驚いて顔をあげると、その目にはどこか母のような、あるいは遠い星のような優しさがあった。
「君が今感じている無力さは、本当は大きな可能性の裏返しなんだよ」
「……でも、僕は……夢を捨てて……」
「捨てた夢が、本当に消えたと思うか?」
静かな問いかけが、胸に突き刺さる。
答えられなかった。
言葉に詰まった僕を見て、奏さんはやわらかく微笑んだ。
「夢ってのはな、一度諦めても、いつだって拾い上げることができるんだ。ただし、それには勇気がいる。怖いだろう?」
「……怖い。すごく……」
「だろうな。でも、その怖さを感じられるのも、生きてる証拠だ」
奏さんは夜空を見上げると、満足そうに息を吐いた。
「なぁ、少年。君は、自分で自分を殺そうとしてないか?」
「……え?」
「夢を諦めるってのは、自分を少しずつ殺すことだ。ゆっくり、静かに、誰にも気づかれずに。でも、そんな死に方は、つまらないと思わないか?」
僕は何も言えなかった。
胸の奥で、何かが崩れていく音がした。
「……僕、ずっと……星を見たかった。でも、途中でどうしても怖くなって……」
声が震えた。
「それでいいんだよ。人間は弱い。怖がるし、逃げるし、嘘もつく。それでも生きてる。そのことが、どれだけ尊いか……君にはまだわからないだろうな」
奏さんの声は、遠い星の光みたいに静かで、それでいて強かった。
「私だって、迷い続けてきた。研究者なんて名乗ってるが、本当は毎日が怖い。自分の研究が認められなかったらどうしようとか、無駄だったらどうしようとか……そんなことばかりだ」
「……」
「でも、そんな不安と一緒に生きるのが人間だ。少年、君も、逃げなくていいんだよ。逃げたいときは逃げればいい。ただ、また戻ってきて、こうして星を見ればいい」
涙が再び溢れてきた。
それでも、今度は声をあげて泣くことはなかった。
星空を見上げると、冷たいはずの空が、少しだけ暖かい気がした。
「……僕、もう少しだけ、頑張ってみようかな」
声に出すと、それは自分でも驚くほど自然に響いた。
奏さんは笑顔を深くして、大きくうなずいた。
「それでいい。それが、君だけの一歩だ」
夜風がそっと吹き抜ける。
小さな決意の火は、まだ弱々しいけれど、確かに灯っていた。
「少年、今度は望遠鏡なしで星を見てごらん」
言われるままに空を仰ぐ。
裸眼で見る星は小さく、そして遠い。
でも、その光はどこまでも届いてくるような気がした。
(……もう一度、見てみたい)
胸の中で静かに生まれた願いは、まだ幼い芽のようだった。
けれど、これが僕のこれからを変えるかもしれない、と小さく思った。
「夢は、諦めるためにあるんじゃない。生きるためにあるんだ。どんなに傷つこうと、迷おうと、夢だけは残しておくんだよ」
「……でも、僕は父さんに、まだ何も言えてない。文系に進めってずっと言われてるし、僕自身、逃げる理由ばっか探してる……」
「親と君の夢は別物だ。親の願いも大切だが、君の人生を生きるのは君だけだ」
静かな声だったが、その言葉は鋭い刃のように胸に刺さる。
息が詰まりそうになり、思わず目を逸らした。
(……父さんと、話さなきゃいけない。でも怖い)
「星は、君が嘘をつくとすぐに気づくぞ。自分に嘘をつき続けたら、きっと何を見ても輝かなくなる」
「行っておいで。君には、まだ話すべき相手がいる」
奏さんは最後にそう言って、望遠鏡を片付け始めた。
帰り道、少しだけ足取りが軽かった。
夜空を見上げながら、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
(……大丈夫、まだやり直せる)
そう思えた瞬間、星の光がいつもより少しだけ近く感じられた。
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