表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
竜騎士ワロンの成り上がり。  作者: 砕けたステンドグラス
序章 ワイバーンの里
8/9

8話

太陽が山の端に隠れるよりもずっと早い時間。

 普段ならまだ作業をしている人も多いこの時刻に、屋敷の食堂には湯気の立ち昇る夕食が並べられていた。

 理由はシャルが、空腹と疲労で倒れていたからだ。

 両親は、村の集会所に出向いている。

 シャルの来訪と今後について、村人に説明をするためだ。


 だから、今日の食卓には俺とシャル、それからアル姉の三人だけが座っていた。

 テーブルの中央には、炙った干し肉と焼き野菜、それに香草を浮かべた温かいスープ。焼きたての白パンは、小皿に盛られてこんもりと積まれている。

 素材は質素だが、丁寧に調理されたそれらは、空腹であればあるほどありがたく感じられる。ましてや、倒れるほどに飢えていた者にとっては――。


「いただきます」


 シャルは静かに手を合わせると、目の前の食事に手を伸ばした。

 その動きに、ためらいはなかった。

 パンをちぎり、口に運ぶ。噛む音は控えめながら、彼女の箸の進みは尋常ではなかった。


「……そんなに美味しいのか?」

 俺が思わず漏らした言葉に、シャルは一瞬だけ顔を上げた。

 その瞳は、琥珀のような金と黒の混じった色をしていて、どこか遠いものを見つめているような印象を受けた。


「美味しい」

 短く、そしてはっきりと、そう言ったあと、シャルは再びパンをちぎる手を動かした。

 そのままスープを飲み、焼き野菜を口に運ぶ。


「……言っておくけど、この量は山の民の特性なの」

 パンを追加でもう一切れ取ったシャルが、早口で言葉を重ねる。


「私だって最初は驚いたけど、お腹が空いたら動けなくなるの。燃費が悪いのよ、構造的に。仕方がないの。太ったりしないから気にしないで。あなたの分はそっちにあるわ。こっちのことは気にしないで食べなさい」


 言葉とは裏腹に、シャルの手は止まらない。

 むしろ話すことで咀嚼が止まるのを避けるかのように、器用に片手でスープを飲みながらパンをちぎって口へ運び続けていた。

 食べることに対して、遠慮という感情はまったく見られなかった。

 けれど、どこか切迫したような、取り戻すような、そんな空気をまとっていた。

 アル姉がそっと干し肉をもう一皿運んできた。


「ほら、焦らなくても大丈夫よ。誰も取ったりしないから」


 シャルは一言「ありがとう」とだけ言って、次のひと口へと進んだ。

 その声には、わずかに安堵が滲んでいた。

 ……どれだけ、飢えていたのだろうか。

 いや、ただの空腹ではない。

 あの目の奥にあるのは、もっと長く、もっと深い「飢え」のような感じがある。

「……こっちに来てから、こんな食事は初めてなのよ」

 ぽつりと、シャルが言った。

「“以前”は、パンもスープも、和食や洋食だって当たり前だった。でも、今は――部族の中では、食べるというより、命をつなぐための手段でしかなかった。味も温かさもなかった。ただ、生き延びるためだけの食事……」

 彼女はスープの表面に浮かぶ香草を、木の匙でなぞるように掬った。

「子供は、大人が食べ終わった後の残り。冷めて、硬くなった骨付き肉とか。狩りに行けない年齢では、それが決まりなの。黙って受け入れるしかなかった。……だから、これは初めてのまともな食事なの」

 その言葉に、アル姉も俺も、言葉を失った。

 シャルは、ただ静かに食べ続ける。その姿には哀れみも憐憫も不要だった。

 彼女はただ、「今」を一心に噛みしめていた。

「このパン……」

 やがて、シャルがぽつりと呟いた。

「柔らかくて、香ばしくて……、こんなの、もう二度と食べられないかもしれないって思ってしまう。だから、つい……」

「明日も食べられるよ」

 気づけば、俺はそう口にしていた。

 シャルは俺の顔を見て、ふっと目を伏せた。


「そう……なら、明日までは信じておく」

 少しだけ、口の端が緩んだような気がした。

 夕食が終わるころ、シャルの動きが明らかにゆっくりになった。

 満腹になったというよりも、ようやく“満ちた”のだろう。

 椅子にもたれかかった彼女は、目を半分閉じ、まばたきの間隔が長くなる。

「眠そうだな……部屋、案内しようか?」

「ううん……このまま……で、いい」

 そんなことを言いながら、シャルはテーブルに突っ伏すようにして、すぅっと寝息を立て始めた。

 アル姉がふふっと微笑み、そっと毛布を持ってくる。

「よっぽど、安心したのね……」

 俺は、眠るシャルの横顔を見つめながら、静かにパン屑を片付け始めた。

 こうして、シャルの初めての夕食は、静かに、温かく終わりを迎えた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ