8話
太陽が山の端に隠れるよりもずっと早い時間。
普段ならまだ作業をしている人も多いこの時刻に、屋敷の食堂には湯気の立ち昇る夕食が並べられていた。
理由はシャルが、空腹と疲労で倒れていたからだ。
両親は、村の集会所に出向いている。
シャルの来訪と今後について、村人に説明をするためだ。
だから、今日の食卓には俺とシャル、それからアル姉の三人だけが座っていた。
テーブルの中央には、炙った干し肉と焼き野菜、それに香草を浮かべた温かいスープ。焼きたての白パンは、小皿に盛られてこんもりと積まれている。
素材は質素だが、丁寧に調理されたそれらは、空腹であればあるほどありがたく感じられる。ましてや、倒れるほどに飢えていた者にとっては――。
「いただきます」
シャルは静かに手を合わせると、目の前の食事に手を伸ばした。
その動きに、ためらいはなかった。
パンをちぎり、口に運ぶ。噛む音は控えめながら、彼女の箸の進みは尋常ではなかった。
「……そんなに美味しいのか?」
俺が思わず漏らした言葉に、シャルは一瞬だけ顔を上げた。
その瞳は、琥珀のような金と黒の混じった色をしていて、どこか遠いものを見つめているような印象を受けた。
「美味しい」
短く、そしてはっきりと、そう言ったあと、シャルは再びパンをちぎる手を動かした。
そのままスープを飲み、焼き野菜を口に運ぶ。
「……言っておくけど、この量は山の民の特性なの」
パンを追加でもう一切れ取ったシャルが、早口で言葉を重ねる。
「私だって最初は驚いたけど、お腹が空いたら動けなくなるの。燃費が悪いのよ、構造的に。仕方がないの。太ったりしないから気にしないで。あなたの分はそっちにあるわ。こっちのことは気にしないで食べなさい」
言葉とは裏腹に、シャルの手は止まらない。
むしろ話すことで咀嚼が止まるのを避けるかのように、器用に片手でスープを飲みながらパンをちぎって口へ運び続けていた。
食べることに対して、遠慮という感情はまったく見られなかった。
けれど、どこか切迫したような、取り戻すような、そんな空気をまとっていた。
アル姉がそっと干し肉をもう一皿運んできた。
「ほら、焦らなくても大丈夫よ。誰も取ったりしないから」
シャルは一言「ありがとう」とだけ言って、次のひと口へと進んだ。
その声には、わずかに安堵が滲んでいた。
……どれだけ、飢えていたのだろうか。
いや、ただの空腹ではない。
あの目の奥にあるのは、もっと長く、もっと深い「飢え」のような感じがある。
「……こっちに来てから、こんな食事は初めてなのよ」
ぽつりと、シャルが言った。
「“以前”は、パンもスープも、和食や洋食だって当たり前だった。でも、今は――部族の中では、食べるというより、命をつなぐための手段でしかなかった。味も温かさもなかった。ただ、生き延びるためだけの食事……」
彼女はスープの表面に浮かぶ香草を、木の匙でなぞるように掬った。
「子供は、大人が食べ終わった後の残り。冷めて、硬くなった骨付き肉とか。狩りに行けない年齢では、それが決まりなの。黙って受け入れるしかなかった。……だから、これは初めてのまともな食事なの」
その言葉に、アル姉も俺も、言葉を失った。
シャルは、ただ静かに食べ続ける。その姿には哀れみも憐憫も不要だった。
彼女はただ、「今」を一心に噛みしめていた。
「このパン……」
やがて、シャルがぽつりと呟いた。
「柔らかくて、香ばしくて……、こんなの、もう二度と食べられないかもしれないって思ってしまう。だから、つい……」
「明日も食べられるよ」
気づけば、俺はそう口にしていた。
シャルは俺の顔を見て、ふっと目を伏せた。
「そう……なら、明日までは信じておく」
少しだけ、口の端が緩んだような気がした。
夕食が終わるころ、シャルの動きが明らかにゆっくりになった。
満腹になったというよりも、ようやく“満ちた”のだろう。
椅子にもたれかかった彼女は、目を半分閉じ、まばたきの間隔が長くなる。
「眠そうだな……部屋、案内しようか?」
「ううん……このまま……で、いい」
そんなことを言いながら、シャルはテーブルに突っ伏すようにして、すぅっと寝息を立て始めた。
アル姉がふふっと微笑み、そっと毛布を持ってくる。
「よっぽど、安心したのね……」
俺は、眠るシャルの横顔を見つめながら、静かにパン屑を片付け始めた。
こうして、シャルの初めての夕食は、静かに、温かく終わりを迎えた。