2話 アル姉
「――くーん……、ワロンく~ん」
ワイバーンの子ども達と戯れているとのんびりとした女性の声が聞こえてくる。
振り返ると両腕に籠を抱えた女性がワイバーンの子どもと一緒に小走りでこちらへと向かってくるのが見える。
動くたびに上下にワッショイする胸が素晴らしい。……じゃなくて。
「アル姉―、そんなに急ぐと零れ――転ぶよ!」
「え? なにー? きゃ!」
案の定というか、何もないところで盛大につまずいたアル姉が前のめりに倒れる。投げ出される胸。まるで無重力空間にあるかのように持ち上がった状態で倒れていく。
自前のエアーバッグがあるので怪我はしないのだろうか? などとアホなことを呑気に考えているのにはもちろん訳がある。
「キュ?」
「あう、あ、ありがとう~」
アル姉が地面に激突する前に近くにいたワイバーンの子どもが素早くアル姉の下に入り込みアル姉の身体を支えてくれる。
アル姉がこけるのはいつものことなので、ワイバーンの子ども達はよく並走して見守っているのだ。……本人達は遊んでもらっていると思っているみたいだけど。
アル姉――本名はアルーネ。ワイバーンの里の村長の末娘だ。……里長? まぁそれは置いておいて、俺の母さんの妹でもある。
確か来年には成人するはずだ。この国の成人は16歳。アル姉にとって俺は甥っ子というよりは弟のような存在らしい。叔母さんと言うとガチでキレられた。
ワイバーンの子どもにもたれ掛かったままアル姉が俺の元まで運ばれてくる。アル姉はオロオロとしており、ワイバーンの子どもは楽しそうである。
「よしよし。よくやった。えらいぞー」
「キュル!」
アル姉を降ろしたワイバーンの子どもを撫でてやると嬉しそうに片腕――片翼を上げて走り去っていく。
「それで、アル姉? どうかしたの?」
「どうかじゃないよ。ワロン君が全然来ないから迎えに来たんだよ!」
腕に抱えた籠を見せながら頬を膨らませたアル姉がプンプンとわかりやすく怒っている。
「あれ、もうそんな時間だっけ?」
「そうだよー、せっかく楽しみに待っていたのに、全然来てくれないんだもん」
アル姉が抱えた籠には二人分の着替えとタオル――布と呼ぶ方がしっくりくるもの――が入っている。アル姉と俺の着替えだ。
ワイバーンの子どもと遊んでいたらいつの間にか随分と時間が経っていたようだ。
「ごめんごめん。ならすぐに行こうっか」
そう言いながら懐からワイバーンの骨を削って作った笛を取り出し、アル姉が止める前に力一杯吹きつける。
『ピュロロロロロ』
どこからこんな音が出ているのか不思議になる独特な音色が山に木霊する。
「もう、ワロン君! こんなところで吹いちゃダメでしょ。またおじ様に怒られるよ?」
「どこで吹いたって文句言われるんだから、いっそのことどこで吹いてもいいと思わない?」
「村の外なら小言くらいで済むでしょう?」
「ダメダメ。村の外で呼んだらアースが不機嫌になるんだよ。私は村に入れてもらえないのか! って。アル姉がアースの高速無慈悲飛行に付き合うなら別にいいんだよ? きりもみ降下の恐怖を知らないでしょ。あれはねぇ、死ねるよ……」
以前は鞍も手綱もなかったから、背中にしがみ付いているだけなのにグルグルと回転しながらの垂直下降。振り落とされなかったのが奇跡だし、胸が圧迫されるようなGがかかって水平飛行に戻ってから盛大にリバースしたものだ。アースの背中に。……あの事件からしばらくは背中に乗せてくれなくなったからなー。
遠い目をして空を見ていると山頂から影が降ってくるのが見えた。
「あ、きたきた」
「……ワロン君、絶対にアース様の機嫌を損ねたらダメだよ?」
「大丈夫だよ。ちょっと怒ったからって子供を殺すほど人でなし――竜でなし? じゃないから。……ちょっと懲らしめられるだけだよ。ハッハッハ」
「だからそれが嫌なの! もう、絶対ふざけたらダメだからね、メッだよ!」
アル姉がメッとした丁度その時、叩きつけられるような突風が吹き、巨大なワイバーンが俺たちの前に降り立った。両翼を広げれば小さな家ほどもある巨体である。
「グルル、グア。グエ?」
巨大なワイバーン――アースが困惑したように鳴いていた。俺がアル姉に怒られていることが不思議だったようだ。
「大丈夫、気にしないでよ。あ、呼んだのは、アル姉と一緒にいつものところにお願いしたくてね」
「グエ、グア、グワァ?」
「そそ。ちょっと散歩――散空? ……まぁいいや、ちょっと遊びに付き合ってよ」
「アース様、よろしくお願いいたします」
「グア!」
アル姉が深々と頭を下げるとアースが一声鳴いて、寝そべるようにして身体を低くしてくれる。
アースの背中には革でできた鞍がついている。俺がアースに安全に乗るために作った特注品だ。アースにあれこれ要望を聞きながら作った物だからかアースも気に入っていて普段から付けたままにしている一品である。
これがどれほど凄い偉業なのかは一旦おいておくとして。
「よいしょ、っと。はい、アル姉」
「うん、ありがとう」
先にアースによじ登り、アル姉に手を差し出す。俺より背が高いアル姉は俺より軽快に登り、俺の後ろに座る。
「うんしょっと。はい、ワロン君、いいよー」
持っていた籠を鞍に結んで落ちないようにしたアル姉が後ろから俺を抱きしめる。むにゅんと柔らかい胸の感触が首筋に当たる。
ぽよんぽよんの座席枕である。ブラジャー? そんな物があるとでも?
「アース、いいよ、準備おっけー。出発~」
「グアー!」
アースの大きな翼がバサリと羽ばたき、風が頬を撫でる感覚を感じながら、俺たちはゆっくりと宙に浮かび上がった。
少し離れた場所にある小さな屋敷の庭先に人影が見えた。アースが降りてきたことでこちらを注視していた父さんがこちらを見ているのがわかった。……帰ったらまた説教かな。
高度が上がるとともに、下界の景色がゆっくりと縮小し、村全体がひとつの絵のように広がっていく。家々の屋根、畑、そして森や岩山がパッチワークのように繋がり、風が耳元で呼びかけるように吹き抜ける。
空へと舞い上がっていく興奮と期待感が胸を高鳴らせる。何度経験しても薄れることはない。やはり空は良い。
あっという間に上空へと駆け上がったアースの手綱をグイっと引っ張る。それに合わせてアースが大きく村の上空を旋回しながら南の方へと飛びたつ。
青空に向かって一直線に飛び立つアースは、正に自由そのものを象徴しているかのようだった。