ᛇ
バルグが斧を握り直し、周囲の空気が変わる。肩から伝わる筋肉の膨張は尋常ではなく、彼の体から立ち上る熱気が霧を押し退けるように揺らめいている。瞳に宿る赤い光は燃え盛る炎のようで、視線はもはや仲間と敵を区別する意思すら失っていた。
その足元では、踏みしめた地面が微かに軋み、割れた大地の細かな破片が跳ねる。彼の体を取り巻く力の奔流が、あたりを脅かすように波動を生み出している。
「バルグ!落ち着け!」
ガレンが声を張り上げた。剣を構えながら前へと一歩踏み出すが、その足が僅かに震えているのがわかる。
だが、バルグは耳を貸さなかった。赤い瞳が捉えたのは、ただ動く標的――破壊の対象だけだった。
咆哮が空気を切り裂いた。猛獣のようなその声が周囲の木々を震わせたかと思うと、バルグは地を蹴り、一瞬でガレンとの間合いを詰めた。その動きは風を裂くほどの速さで、体躯の重さを感じさせない俊敏さだった。
「くそっ!」
ガレンは剣を握り直しながら盾を構えるが、斧が振り下ろされる衝撃はその想像を超えていた。金属が衝突する甲高い音が響き、ガレンは盾ごと地面に叩きつけられる。盾の縁が裂け、地面には深い跡が刻まれる。その衝撃で腕が痺れ、剣を握る手の感覚すら薄れ始める。
「バルグ、俺だ!ガレンだ!」
ガレンは盾の下から顔を上げて叫んだ。焦燥に満ちた声が響くが、バルグには届かない。その赤い瞳には、闘争と破壊への飢えだけが渦巻いていた。
もう一度斧が振り下ろされる。その刃の軌道が空気を切り裂き、耳をつんざく音がガレンの周囲を支配する。彼はとっさに盾を投げ捨て、その勢いで転がるように地面を逃げた。斧が地面に突き刺さり、大地が砕け、土煙が舞い上がる。
「やめろ!」
ガレンは息を切らしながら立ち上がり、剣を振りかざすが、その刃先はわずかに震えている。仲間を傷つけるかもしれないという恐れと、それでも立ち向かわなければならない使命感がせめぎ合っていた。
だが、バルグの斧は再び持ち上がり、その赤い瞳がガレンを見据える。言葉も理性も失ったその姿は、まさに狂戦士の化身だった。
「滑稽だな」
冷徹な声が霧の中に響き渡る。漆黒のスケルトンが霧の向こうからその光景を無関心に見下ろしていた。
光を吸い込むような輝きとともにスケルトンの冷たい声が響く。それは、すべての生きる者を嘲笑するかのような冷徹さを伴っていた。
「理性を失い、暴力に溺れ、自らの命すら損なう。愚かにも程がある」
彼が手にした長大な剣をゆるりと振ると、黒い霧が剣先に絡みつき、空気がさらに重く沈んだ。その瞬間、霧がバルグの体を取り囲むように巻き付き、彼の四肢を拘束した。
「うぉぉぉ!」
バルグは咆哮を上げながら、動きを止められたことに激昂していた。腕を振り回そうとするが、黒い霧はまるで鎖のように彼の筋肉に絡みつき、その力を封じ込めている。
ガレンは地面に倒れ込んだまま、その様子を見つめていた。剣を握り締める力さえ失い、荒い息を吐きながらも目を逸らさずにいる。
胸の奥で微かに感じる安堵――救われたのかとガレンは思った。だが、その安堵には恐怖と疑念が混じり合っている。
その時、リュートの音が響いた。
アルヴィンの指が弦を撫でるように動き、霧の中で音がさざ波のように広がり、冷たい静寂を微かに震わせた。その音色には不思議なほどの落ち着きが宿り、ガレンの張り詰めた胸をわずかに緩ませた。
「命なき存在が理性を持ち、命ある者を弄ぶ方が、よほど愚かではないか?」
その声には、穏やかな挑発が隠されている。
スケルトンの赤い瞳が、ゆっくりとアルヴィンに向けられた。
「詩人か―。愚かとは面白い。では、理性を持たぬ者を擁護するか」
その声は冷たく威厳に満ちていた。
アルヴィンは軽く肩をすくめると、リュートを再び弾いた。音は霧の中に小さな波紋のように広がり、空気の緊張をかきたてる。
「理性を失うことは、命ある者の特権だ。理性を持たねば、失うこともできない。理性を持つ者が命を弄ぶのは、ただの戯れだろう。それこそ、本当の愚かさだ」
スケルトンの剣が微かに動いた。その動きは鋭い威圧感を伴い、空気をさらに重く沈ませた。
「理性を持つ者の愚かさを説くか。詩人、何を知る」
その言葉に、アルヴィンはさらに一歩近づいた。その目には恐怖ではなく、冷静さと機転が光っている。
「もっとも――」
アルヴィンは一瞬、スケルトンの姿を値踏みするように目を細めた。
「随分と華奢なお体だ。戦場で剣を振るうというより、本を読むために作られた骨格のように見える。まさか……詩人よりも小さき存在だったとはね?」
その言葉が霧を裂くように響いた。ガレンが驚いたように叫ぶ。
「アルヴィン!何を言っている!」
だが、アルヴィンは構わずリュートを軽く弾き、旋律を霧の中に漂わせた。
「どうだ?小人スケルトン。貴様は、その小さな体で剣をふれるのか?」
その声には侮辱と挑発が混ざり合い、スケルトンの赤い瞳が微かに光を増した。
「詩人ごときが、代を試すつもりか」
その言葉はまるで霧に溶け込むように低く響きながら、鋭い刃のようにアルヴィンの挑発を切り裂く。
だが、アルヴィンは笑みを浮かべたまま続ける。その目には、挑発が成功した手応えを感じたわずかな光があった。
「戦士には見えないあなたが、一体どのように剣を振るうのか。その優美な姿をぜひ拝見したいものだ」
その瞬間、スケルトンは剣を素早く天に向けて空気を切った。音が霧の中に響き渡り、その声はまるで闇を裂く刃のように鋭く響く。
「私は、クイーン・セリオナ・リュミエール」
その名が告げられると同時に、霧が揺れ、静寂が訪れた。ガレンはその言葉に息を飲む。
「クイーン・セリオナ・リュミエール……だとっ?建国の女王セリオナか」
アルヴィンが驚愕の声を漏らした。
スケルトンの赤い瞳が、静かにガレンを射抜いた。
「そうだ。私の血は、お前に流れている」
ガレンはその言葉に体を起こし、剣を握る手は震え、自分の血に流れるその名の威厳に、ガレンはただ打ちのめされた。
「生きる者よ、守るべきものを見失うでないぞ。何を選ぶかが、お前たちを決める」
漆黒のスケルトンは静かに背を向け、霧の中へと姿を溶かす。
その影が霧に溶け切った瞬間、黒い霧の鎖が解け、バルグは地面に崩れ落ちた。
バルグは、なおも立ち上がろうとしていた。拘束を解かれたその体が、再び暴力の炎に飲み込まれようとする。その咆哮が霧を震わせ、握り締めた斧が再び持ち上がる――だが、その瞬間、アルヴィンのリュートの音が静かに響いた。
その旋律は、まるで霧の中を漂う優しい風のようだった。暴力と破壊の中で荒れ狂う心を撫でるかのように、音の波紋がバルグの耳に届く。
瞳の赤い光がわずかに揺らぎ、そして次第に薄れていった。
「眠れ、バルグ。今は休むんだ」
アルヴィンの穏やかな声が霧に溶け込むように響く。その言葉に応えるように、バルグは握り締めていた斧を地面に落とした。重々しい音が響き、彼の体が崩れるように地面へ倒れ込む。
荒い息遣いが徐々に落ち着き、バルグの瞼がゆっくりと閉じられていく。あの狂気に満ちた戦士の姿は消え、そこに横たわるのはただの疲れ果てた青年だった。
霧の中には、静寂が戻った。その静けさが、つい先ほどまでの死闘がほんの一瞬前の出来事だったことを信じさせないほどだった。
アルヴィンはリュートを抱え直し、静かにその弦を撫でた。音はもう鳴らなかったが、まるでその指先が仲間たちの心を撫でるかのように優しく動く。
「まったく……こんな旅が、まだ始まったばかりだなんてな」
彼の言葉には苦笑と諦めが混じっていたが、同時にその目にはどこか揺るぎない光が宿っていた。
ガレンは剣を立てるようにして体を支え、荒い息を整えながらその言葉に応えることもできなかった。ただ、バルグの無事な姿に目を落とし、拳を握り締めた。
「クイーン・セリオナ・リュミエール……」
ガレンが静かに呟いたその声は、霧に溶け、どこか遠くへと消えていった。