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朝の光が森を照らし、木漏れ日が柔らかに揺れる中、野営地からの出発が始まった。焚き火はもうほとんど燃え尽きており、ガレンが小川で汲んだ水を手早くかけ、残り火を完全に消していた。赤い光がじんわりと消え、濡れた土が静かにその場を締めくくる。
「火の後始末はしっかりな」
ガレンが短く言いながら、水で濡れた地面を足で踏み固める。その動作には、規律と慣れが染み付いている。戦場で培われた慎重さと責任感が、彼の背中に微かな緊張感として漂っていた。
アルヴィンは少し離れた場所でリュートを抱え、軽く弦を鳴らしながらぼんやりと呟く。
「星霧の森を抜けたと思ったら、次はどこへ向かうんだろうね? 人は結局、知らない先を追いかける生き物なのかな……それとも、ただ怖くて同じ場所に戻るだけなのか」
その声に、バルグが斧を肩に担いだまま振り返り、からかうように言った。
「おい、詩人。また妙なことを考えてるのか?」
アルヴィンは肩をすくめて軽く笑う。
「妙なことじゃないさ。旅に出る理由なんて、誰だって自分で作るものだろ? それが真実でも幻想でも、ね」
ガレンが荷物を背負いながら一瞥をくれる。その視線には、どこか鋭いものが混じっている。
「理由を探す暇があるなら、まず進むべきだ」
アルヴィンは軽くリュートを弾きながら答える。その声には皮肉が微かに混じっていた。
「さすがだね。まるで全てを見通しているみたいだ」
ガレンは軽く肩をすくめて笑うだけだった。
三人は森の中の小道を進み始めた。木々の間から漏れる光が、道の上に斑模様を作り出している。ガレンが先頭を進み、その背中にはどこか余計な感情を寄せ付けない孤独な影が見え隠れしていた。バルグは彼のすぐ後ろで斧を担ぎ、リズミカルな足取りで歩いている。アルヴィンはその二人の後ろでリュートを奏でながらついていった。
「おーい僕らは森を抜けてしまう。今からでも古の民からのプロポーズは歓迎だよ。って、結局会えなかったわけか」
アルヴィンが軽い調子で言うと、バルグが振り返りながら笑った。
「そんなに未練があるなら、引き返すか? けどまあ、森が歓迎してくれたってだけでも大したもんだ」
アルヴィンは皮肉っぽく肩をすくめる。
「歓迎されたのは霧と寒さだけさ。あとは君たちがいなかったら、動物に睨まれて終わりだっただろうね」
森を抜けると、視界が広がる草原が迎えてくれた。柔らかな風が草を揺らし、遠くに点在する村の影が小さく見える。
村人たちは道端から彼らを注視していた。鍬を握った年老いた農夫が眉をひそめ、子供たちは母親のスカートの陰に隠れた。だが、誰も声を上げることはなく、無言の視線だけが三人の背中に突き刺さるようだった。
アルヴィンはリュートを弾く指を少し止め、村人たちの無言の圧力を和らげるように微笑んだ。だが、その笑みも彼らの警戒心をほぐすには足りなかった。
「ねえ、どこに向かってるんだい?」
アルヴィンがリュートを弾きながら軽い調子で尋ねた。
ガレンは視線を前に向けたまま答える。
「この先を抜けたら道に出る。その先はまた村がある」
アルヴィンはリュートの弦を止め、小首をかしげて質問を重ねる。
「ふうん、つまり目的地は秘密ってわけだ。でも、君のその真剣な顔を見ると、ただの旅じゃなさそうだね?」
ガレンは一瞬だけ足を止めたが、振り返らずに短く答えた。
「復興だ」
ガレンが短くそう答えると、アルヴィンは足を止めかけながら目を細めた。
「復興ね。それじゃあ、君は滅んだ国を背負っているってことかい?」
アルヴィンの問いに、ガレンは沈黙を保ったまま歩みを進める。その背中は感情を読ませず、だがどこか硬直しているようにも見えた。
バルグが笑いを漏らして肩を揺らす。
「おいおい、ガレン。そんなことを言うと、詩人が勝手に想像を膨らませるぞ」
アルヴィンはリュートを弾く手を止め、ニヤリと笑った。
「復興だなんて言葉を軽々しく使うのは、よほど自信がある証拠だ。それなら……君は王子様ってわけだね?」
ガレンは無言のまま歩き続けた。その背中には一切の感情が見えず、沈黙が答えのように重く漂っている。
バルグが軽く肩をすくめてアルヴィンに言った。
「おい詩人、深追いはするなよ。ガレンは話したがらないことだってある」
アルヴィンは軽く笑いながらリュートを弾き直した。
「深追いするのは詩人の仕事さ。だが、君の言葉には従おう……今日だけはね」
いくつかの村を通り過ぎ、鳥たちの声がより高く響き渡る中、三人の旅路は続いていった。それぞれが言葉にならない思いを胸に秘めながら、一歩ずつ道を進む。アルヴィンのリュートの音色が旅路を柔らかく彩る中、沈黙が風に溶け込んでいく。しばらくしてアルヴィンは微笑みを浮かべて問いかけた。
「ところで、君たちはどうして一緒に旅をしてるんだ? こんなに対照的なのに」
アルヴィンが興味津々に二人を見渡しながら、話の続きを促すように問いかけた。
バルグが笑いながら振り返る。
「詩人らしい質問だな。俺たちがどこで出会ったかってか?」
「その通り。君たち、やけに仲がいいようだけど、どう見ても正反対だしね。で、どこで?」
ガレンが短く答える。
「牢屋だ」
アルヴィンのリュートの音がピタリと止まった。彼は目を見開き、信じられないといった表情で二人を見た。
「牢屋って……なんてこったい! 俺は犯罪者と一緒に旅をしているのか? いや、これは詩人としては面白いが、旅人としてはいただけないね!」
バルグが豪快に笑いながら肩を揺らす。
「そう言うなよ。俺たちはその牢屋をぶっ壊して脱走した英雄だぜ?」
「それで、何をやったんだい?」
アルヴィンがリュートを抱え直しながら尋ねる。
ガレンが短く言った。
「蛮族の呪いだ」
その言葉に、アルヴィンの眉がぴくりと動く。
「蛮族の呪い……って、まさかバーサーカーのことか?」
ガレンが珍しく肩をすくめて笑う。
「知ってるか、詩人? 村一つが全滅するくらい暴れるって話、聞いたことあるだろ?」
「あるさ」
アルヴィンは小さく息を飲んだ。
「まさか、お前が?」
バルグは少しだけ表情を曇らせたが、すぐに笑みを取り戻した。
「俺は何も覚えちゃいないさ。けど、里ではこう教えられてた。蛮族の成人は村を追い出される。それが呪いのせいだとな」
「どういうことだ?」
アルヴィンが身を乗り出して尋ねる。
「呪いに打ち勝つためだ」
バルグが低い声で答える。
「俺たちの先祖は、デーモンから人類を解放した英雄のリーダーだった。その戦いでデーモンを殺したときに、呪いを受けたって話だ。狂気――つまりバーサーカーの呪いが、俺たち一族に刻み込まれたってわけだ」
アルヴィンは思わず呟いた。
「英雄が呪いを背負う……皮肉な話だね」
アルヴィンはリュートを弾きながら、瞳を細めた。
「詩人はよく言うんだ。『英雄は物語の光だ』ってね。でも、その光がこんなにも暗い影を落とすなんて……やっぱり詩人の言葉は、実際には何も見えていないのかもしれないな」
「だろうな」
バルグが頷く。
「その呪いのせいで、俺たちは成人が近くなると村を追い出される。同胞を殺さないためにな。俺もその一人ってわけだ」
「それで、どうすれば戻れるんだ?」
「呪いに打ち勝てばだ」
バルグの声が少し低くなる。
「呪いを克服した者だけが村に帰れる。俺の許嫁も、里で俺を待っている……多分な」
アルヴィンがリュートを軽く弾きながら苦笑した。
「なんだか悲しい話だね。それで、君たちの一族は?」
「今では俺たちの数は減る一方だ」
バルグが短く言った。
「この呪いは男にしか、かからないが、稀に女にも現れる。その場合、ほとんどは村に帰れない。それで減り続けている」
アルヴィンはリュートを弾く手を止め、バルグを真っ直ぐに見つめた。
「それでも君は笑ってるのか?」
バルグが力強く笑った。
「笑うしかないだろう?」
その笑い声は、豪快ながらもどこか孤独を抱えたように聞こえた。彼の背中に揺れる影が、言葉では語られない感情を物語っているようだった。
「呪いだろうとなんだろうと、俺は生きてる。それだけで十分だ。ガレンみたいな頼りがいのある奴と出会えたんだからな」
ガレンは無言で歩き続けていたが、わずかに口元を緩めて言った。
「そして、お前は俺を巻き込んだ」
ガレンは一見無表情のままだったが、その声の奥にはかすかな疲労と覚悟が滲んでいた。
三人の足音が草を踏む音と重なり、鳥のさえずりと風の囁きが背景に溶け込んでいる。遠くの村の影は霞むように見え、陽光が草原を揺らすたびに、旅の孤独感と目的地への期待が交錯するようだった。
アルヴィンはリュートを軽く弾き直しながら、微かに呟いた。
「英雄と呪い、ね……それに加えて、謎の囁きまで。まるでこの旅そのものが、どこか大きな運命に引き寄せられているみたいだ」