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星の織りなす物語 Styx  作者: 白絹 羨
第八章:囁きの行方
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 アウグストの視線の先には、庭の片隅で膝を抱えて座る一人の少女がいた。小さな野の花が彼女の膝元に咲き、風が柔らかく花びらを揺らしている。その姿はごく普通の中等部の生徒そのものだ。朝陽に照らされ、金の絹糸(きぬいと)のように輝く髪がふわりと揺れ、その動きにどこか穏やかで心地よいリズムがあった。アウグストは一瞬、微笑みかけそうになり、胸の内にほんのりとした温かさが広がった。

 彼女は小さな野の花にそっと指先をかざし、まるで自然の不思議に触れて感動する子供のように見えた。ああ、花飾りでも作ろうとしているのかもしれない――彼の中でそうした何気ない考えが浮かんだ。少女の指先が花びらに触れ、そっと摘む仕草をする。その動きはとても自然で、まるで風と一体となっているかのようだった。

 摘んだ花を膝の上にそっと置いた彼女は、まるで宝物を手に入れたかのような幸福そうな笑顔を浮かべている。その様子を見ていると、彼自身も穏やかな気持ちになりそうだった――だが、次第に胸の中で奇妙な鼓動が響き始めた。彼は理由もわからぬまま、ひとつひとつの心拍が重たく響くのを感じる。なぜか、囁きが耳元でざわつき始めた。

 じわりと汗が背中を伝う。


「ここが気に入ったの? そう、風が柔らかいからね」


 彼女の言葉が風に乗って耳に届いた。その響きには不思議と心を和ませる何かがあった。風が彼女の周囲で小さな渦を描き、葉が微かに震え、草の先端が光を受けて揺れた。また、風が柔らかく金色の髪を揺らしている。その光景には何の異常も見当たらない。

 ただ――アウグストは、ふと自分の首筋や頬に風の感触がないことに気づいた。

 木々は微動だにせず、草花も静止している。なのに、彼女の金色の髪だけがふんわりと揺れ続けている。


「……風が吹いているのか?」


 反射的に周囲を見渡したが、確かに風は吹いていなかった。どこにも、風の気配はない。それなのに、彼女の髪だけが無重力のように柔らかく揺れている。喉元がひどく乾いた。まるでその揺れが自分だけが知らない法則に支配されているかのように感じられる。

 少女は微笑んだまま、(かぜ)に囁くように話し続ける。


「……おかしいな」


 彼の視線がふと膝の上に戻る。

 彼の眉が微かに動く。確かに彼女は花を摘んだ。それは彼自身が目撃している。だが、彼女の膝の上にあるべき花はどこにもなかった。空気が、ただ静かにその場を満たしているだけだった。


「……どういうことだ?」


 再び彼女の指先を見る。空中で何かを摘み取るかのように動いているが、そこには何も存在していない。ただ空気があるだけだ。まるで、彼が見ることのできない次元の別の何かに触れているかのように――。

 少女は何事もなかったかのように、見えない何かを指で撫でる。その動作は異常に滑らかで優美だったが、アウグストにとってはその滑らかさこそが異様に感じられた。

 少女は微笑みを浮かべたまま、宙に向かって話しかけている。


「授業が始まるのね。すぐ行くわ」


 彼の目がすばやく周囲を探る。彼女が話しかけている相手を確認しようとするが、そこには誰もいない。草が揺れる音さえ微かで、遠くから鳥のさえずりが聞こえるだけだ。だが、彼女の世界の中では確かに「何か」が存在している――そう思わずにはいられなかった。


「俺の目が……(あざむ)かれているのか?」


 理性がじわじわと崩れていく感覚に、彼は(ひたい)の汗を(ぬぐ)った。これまで神聖術や魔法による奇跡を幾度も目にしてきたが、ここまで理解を拒まれる光景は初めてだ。少女は確かに何かを見ている――だがそれは、この現実世界には存在しないものだ。そのことが彼の神経を焼きつけ、背筋が凍りつくような冷たさが広がった。

 喉が乾き、ひとつ息を呑む。その音さえも彼にはやけに大きく聞こえた。

 一歩、足を引き戻した。無意識の動きだ。自分でも気づかぬうちに、彼はその空間から距離を取りたくなっていた。少女はまるで自然の一部であるかのようにその場に溶け込んでいたが、アウグストにとってはその自然さこそが異常に思えた。


「なぜ俺には見えない? 彼女には当たり前のように見えているのに……」


 その問いが頭を支配する。彼女の存在そのものが、彼にとって未知なる領域への入り口のようだった。彼女の視界に映る奇跡――それは、アウグストが生きている現実世界とは異なる次元に広がっているかのように感じられた。

 喉を鳴らし、固く握った拳をゆっくりと開いた。その場を離れるべきか否か迷ったが、足は動かなかった。目の前の少女が紡ぐこの異常な光景――それを理解するまで彼はここから離れることはできない、そんな気がした。

 彼女は何も気づいていないように見える。それが恐ろしかった。まるで、見ているものに気づかぬまま、その中心で眠る存在――真実と共に生きる無自覚な観測者のようだ。その存在を知覚する術のない自分――それを理解したとき、心臓が重く響き、何かが足元から崩れ落ちるような感覚に襲われた。


「見えているものに気づかない者ほど、深い真実に触れている――そんな皮肉が本当に存在するのか?」


 彼の視線は彼女に注がれたままだが、内心では何かが異質なまでに膨れ上がる。彼女が囁くように話しかけたその空間には何もない――だが、彼女には誰かがいると確信している。その「誰か」が何なのかすらわからない。それが、アウグストにとって最も恐ろしい事実だった。


「セリーナ……」


 風が彼の耳元で囁く。それを聞いたとき、まるでその名前そのものが運命を告げる鐘の音のように思えた。そして……囁きは消えた。


 沈黙


 耳に張り付いていた雑音が途絶え、世界がひどく静かになった。


 少女を見つめる。

 彼女が突然振り返ったとき、その瞳がアウグストの視界を捕らえた。何かを見透かすようなその瞳が、彼の胸に静かに――深く突き刺さった。



 夜明け前の静寂が宮殿の中庭を包み込んでいた。冷たい朝露が草の上で小さく輝き、東の空には薄紅色(うすべにいろ)の光がにじみ始める。風がそよそよと木々を揺らし、まだ誰も活動していない空気に、微かな自然の調べだけが満ちていた。

 窓から差し込む淡い光が、広い部屋を優しく照らし出す。木目の床には光がにじみ、静けさが隅々にまで行き渡っている。ベッドに横たわっていたアウグストは、その静かな風の動きに反応するように目を開けた。

 銀髪が(ひたい)にさらりと流れ、淡い光に照らされて柔らかく輝いている。その灰色の瞳は、目覚めの瞬間から鋭い知性を宿し、だが同時にどこか眠たげな温かさも感じさせた。長いまつげが影を落とし、しなやかに引き締まった口元は、ふとした瞬間に見せる微笑みに温かさを宿していた。

 その身にまとうのは、柔らかな寝間着の上に薄いローブを羽織った姿。筆頭(ひっとう)神聖術師としての威厳を持ちながらも、まだ人々に見せない静かな一面が漂っている。彼は神聖国に代々続く皇族の血を引く者――神聖術に選ばれし者たちの中でも、最も特別な運命を背負った男だった。

 隣には、ルイーズが穏やかな寝息を立てて眠っている――はずだった。

 誰もいなかった。ルイーズの寝息も、体温もなく、部屋は深い静寂に包まれている。囁きも消えていた。何もない。ただ、ひどく静かでありながら、その静けさは異常に耳に残った。あまりに静かすぎる――まるで世界そのものが息をひそめているかのように。

 一瞬、少女の瞳を思い出す。


「セリーナ」


 彼女の名前をつぶやく。

 彼の視線は窓の外へ向かう。朝陽がゆっくりと空を照らし始め、世界は新しい一日を迎えようとしている。だが、その光景は薄い幕がかかったようにぼやけて見える。彼の内側でざわめいていた感覚は消えていない――それどころか、その沈黙がより深いものへと彼を導いていた。


「進むしかない――立ち止まれば、そこに待つのは虚無だ」


 それが彼の胸にふと湧き上がった思考だった。もし、あの囁きが導いた先に、本当に答えがないとしたら――何もないただの風景で終わるとしたら。

 彼は息をつき、微かに笑みを浮かべた。その笑みは、安心感ではなく、むしろ恐怖と混じり合った複雑な感情が滲み出ていた。


「アルヴィンから引き継いだ星霧(せいむ)の森の囁きが導き出した少女――」


 その言葉は誰に向けたものでもなく、ただ静けさに溶けるように消えていく。


 そして――


 窓の外で、朝陽が静かに世界を包み込んでいく。その光はまだ何かを隠しているかのように揺れ、答えのない問いかけだけが静かに漂っていた。


 — 完 —

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

この物語は「時の塔」を中心とした広大な世界の一部です。断片的な物語がさまざまな視点で描かれ、群像劇として織りなされています。登場人物たちの視点から世界を観察し、それぞれの思いが交錯しながら語られるこの作品は、まだ始まったばかりです。


物語はこれからも続いていきます――新たな冒険、出会い、そして予期せぬ運命が待っています。次の本で、またお会いできることを楽しみにしています。


ありがとうございました。

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