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星の織りなす物語 Styx  作者: 白絹 羨
第八章:囁きの行方
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 静寂が廊下を包んでいる――だが、アウグストにとってその静寂は、まるで別の次元のもののように遠かった。革靴が石畳を軽く叩くたび、微かな音が廊下の壁に跳ね返る。その単調なリズムさえ、彼の心の中で鳴り響く騒音にはかき消されているようだった。外側の世界は音もなく滑らかに動いているのに、内側では重い歯車がひとつ噛み合うごとに鋭い音を立て、思考の流れが止めどなく渦を巻いていた。


 一歩、また一歩――

 その歩みの一瞬が、無限に引き延ばされたかのように感じられた。時折、彼の頭の(なか)では現実の時間がひどく遅く感じられ、意識はその隙間に次々と新しい思考を滑り込ませる。思い出の断片、現在の問題、未来への不安。それらが複雑に絡み合いながら、彼の意識の中で(なみ)のように押し寄せていた。

 手にした皇帝レオニスからの手紙の質感が、指先をかすかに刺激するたび、その些細な感覚が彼を過去の記憶へと導いていく。滑らかな紙の感触は、あたかも幼い日の彼らが触れた木剣や、競技場のざらついた砂を思い出させるようだった。


「親愛なるアウグストへ、まずは()()学園長就任、おめでとう」


 その一文に目を落とすと、まるでレオニスの声が耳元で再生されるかのように聞こえる。その声には、あの日々の懐かしさと、今では消えてしまった無垢な響きが重なっていた。文字をなぞるように指先が滑るたび、少年時代の彼らが姿を現し、記憶の中で笑い合いながら駆け回る。

 まだ何の心配もなかったあの頃――

 戦場の煙も、アンデッドの脅威も、国家の未来に背負うべき責任も知らなかった。ただ学び、ただ競い、ただ信じられた。学問や武術の優劣を競いながらも、その結果に憎しみや嫉妬が生まれることは一度もなかった。それは子供ゆえの無邪気さではなく、互いを尊重し、互いの才能を認め合っていたからこそ築けた絆だった。

 その頃の記憶は、時折甘く、時折鋭い痛みを伴う。それは大人になる過程で削り取られてしまった何かを象徴しているかのようだった。

 現実は今やその純粋さとは程遠い。

 彼はそう思わずにはいられなかった。今のレオニスは、あの頃の笑顔を見せることが少なくなった。自国の危機に晒され、皇帝として帝国の運命を背負わねばならない立場にある――その責任が、いつの間にか彼の瞳から、かつての無垢な輝きを奪ってしまったのだろうか。とはいえ、それはアウグスト自身も同じことだった。

 ふと気づくと、指先がまた紙の端に触れていた。小さな刺激が再び彼を引き戻し、彼は微かに眉をひそめた。


「先の大戦では君に多くの負担をかけてしまった」


 その一文が視界に入った瞬間、手紙が目の前で微かに揺れたように感じられた。だが、それは錯覚ではなかった。揺れているのは、彼の胸の中に湧き上がった感情だった。文字という小さな印が、まるで心の奥底を直接叩く槌のように重い。

 脳裏に戦場の映像がかすかにフラッシュバックする。見渡す限りのアンデッドの群れが、(なみ)のように押し寄せてくる様子。火の手が上がる夜空、耳元で響く金属同士がぶつかる音、仲間たちの怒号、命令、悲鳴――そして何より、焼け焦げた土と血が混ざった硝煙の(にお)いが、現実の感覚として甦った。紙を指で挟む彼の手が、無意識に強く握り締められていた。

 その記憶の中で真っ先に浮かんだのは、敵でも味方でもなかった。それは、あの時隣にいたレオニスの姿だった。彼の銀鎧が煤で汚れ、(ひたい)には流れ落ちる汗と血が混ざり合いながらも、剣を振り下ろす動作には一切の迷いがなかった。まるでその剣先だけが、混沌とした戦場に確固たる道筋を切り開くかのように見えた。


「レオニス、お前も同じ地獄を見ただろうに……」


 アウグストの喉から漏れた呟きは、自身にも聞こえるか聞こえないかほどの静かさだった。その瞬間、胸の奥で何かが鈍く疼く。重く押し寄せる罪悪感――それは、自分だけが助かったような感覚に対する無意識の抵抗だったのかもしれない。レオニスもまたあの地獄にいたはずなのに、こうして学園長という新たな役割を託され、平和な場所にいることに対する後ろめたさがあった。

 視線は自然と窓の外へと向かった。日が昇り始め、オレンジの光が校舎の石壁を柔らかく包み込み、草木が朝露をまといながら輝きを放っている。その光景は、静かでありながらどこか温かい救いを感じさせたが、今の彼にはその救いを享受する資格があるのかという疑念がふっと頭をよぎる。


「こうして眺める景色が、もっと美しいものに思える日は来るのだろうか?」


 彼は心の中でそう問いかけたが、答えは見つからなかった。ただ、淡々とした現実が目の前に広がるのみだった。

 再び手紙に視線を戻すと、次の文が彼の眉をわずかに持ち上げた――


「君の報告書にあったスケルトン王の件だが、まさに興味深い考察だったよ」


 眉の動きはほんの一瞬だったが、それが彼の思考の切り替えの合図のようだった。

 その一文に目が留まった途端、アウグストの中で記憶が別の方向へと流れ始めた。まるで、長い間閉ざされていた扉が一瞬の合図で開かれ、風が吹き込むように――戦場の恐ろしい情景から、知的な好奇心と理論が交錯する別の次元へと意識が移行する。


「スケルトン王――あの存在が、ただの指導者ではなく、魔法の根源と精神的な象徴そのものかもしれないという仮説だな」


 アウグストは内心で、レオニスがどの部分に「興味深さ」を感じたのかを探るように考え始めた。

 彼の報告書には、ただアンデッドの脅威や戦況の詳細だけではなく、スケルトン王がアンデッド軍団に及ぼす「概念的影響」に関する独自の考察が書かれていた――例えば、単なる肉体の復活ではなく、古代の記憶や魂の集合が一つの存在に凝縮されているのではないかという点だ。スケルトン王の存在は、個体そのものではなく「信仰」のような力で周囲を支配しているのかもしれない。


「概念そのものが敵対しているなら、我々の肉体的な勝利では根本的な解決にならない。スケルトン王の本質を突き止めなければ、いくら討伐しても永遠に新たな脅威が再生されるだけだ――」


 自分で書いた報告書の内容を思い返しながら、アウグストは自嘲気味に口元をゆるめた。


「レオニス、お前は本当にこういう話が好きだよな」


 彼の頭の(なか)では、今にもレオニスの笑い声が響いてきそうだった。小さい頃から、レオニスは謎めいた話や難解な理論を議論することを何よりも楽しんでいた。神聖国とローゼン帝国の未来について意見を交わし合った少年時代の夜も、語り疲れていつの間にか朝を迎えたことが何度あったか知れない。学問的な話から、将来の夢、そして子供らしいくだらない冗談まで――話題は尽きることがなかった。

 しかし今、二人の間に交わされる会話は、もはや無邪気な遊びではない。

 彼の視線は再び(かみ)の上に戻り、レオニスの次の一文に目を止めた。


「それと、まだ花嫁が見つからない。そろそろ互いにどうにかしないといけないな」


 その一文に、アウグストは一瞬肩を震わせ、笑いをこらえるように手紙を持つ指に力を込めた。だが、すぐに表情を引き締める。レオニスが軽口をたたく時は、決まってその裏に本音が隠れていることを、彼は長い付き合いの中で知っていた。そして、その軽い調子で放たれた言葉の矛先が自分自身にも向けられていることは、痛いほど理解していた。


「お前もまだ独り身なのだから、笑えないだろう?」


 独り言のように呟きながら、ふと彼の脳裏に浮かんだのは――ルイーズの顔だった。今朝、寝ぼけ眼をこすりながら見せた無防備な横顔。朝の光を浴びて、アッシュがかった栗毛色が柔らかく輝く長い髪。その髪を無意識にかき上げた仕草さえも、彼の中に細やかな記憶の波紋を広げていく。

 彼女の笑顔が思考の隙間から何度も浮かび上がるたび、心は微かな安堵と痛みの波に揺れ動く。忘れようとするたびに、彼女の声が囁きのように心の奥に染みる。

 思考は自然とその瞬間に引き戻され、耳に残る彼女の寝起きの甘い声が反響する。


「アウグストさま……もう朝ですか?」


 彼の中で、あの言葉がどこか柔らかく、特別な意味を持つように響いてしまうのはなぜだろう?ただのありふれた挨拶であるにもかかわらず、それが耳に残り、何かを刺激する感覚から逃れられない。


「彼女が何か特別だというわけではない――」


 心の中でそう否定しようとする。だが、その否定がかえって自分自身の内面を暴き立てる。特別ではないと言い聞かせるたびに、その言葉がまるで心の奥深くから小さなさざ波を立てるように響き渡り、そのたびに静かだった水面が乱れていく。否定するほどに、自らの気持ちを裏付けてしまっているかのようだった。

 アウグストは無意識に手紙を握りしめ、微かにため息をついた。自分でも気づかぬうちに漏れたその息は、まるで心の奥から押し出されたように自然だった。


「本当に、笑えないのは俺の方だな」


 自嘲気味に呟き、再び視線を手紙に戻す。しかし、その言葉はいつまでも彼の胸の中で渦を巻き、ルイーズの笑顔がふとした瞬間にまた浮かび上がってしまう。消そうとしても、まるでそこにしがみつくかのように、記憶の隙間から顔を覗かせる。

 彼は歩みを再開した。わずか数メートル進んだだけだが、その(あいだ)に彼の脳内ではさまざまな関係性が編み直されていた。彼とルイーズ、彼とレオニス、そして彼自身が引き継いだ星霧(せいむ)の森の囁き――そのすべてが彼に新たな未来を示そうとしているかのようだ。



 視界の端に、庭園へと続く通路が見えた。そこから漂ってくる花の香りに、心がほんの少しだけ軽くなる。


「風よ――今度はどこへ導くつもりだ?」


 耳元で囁きはますます強くなり、まるで彼に挑戦するかのように彼の歩みに同調する。彼はその囁きに逆らうことなく、ただそれが導く方向へと足を向けた。


 アウグストは立ち止まったまま、視線を少女の方へと向けていた。朝露に濡れた草の上に座り込むその姿――膝を抱え、何かに思い耽っているようにも見える。少女の金色の髪は朝の光を受けて柔らかく輝き、風が軽くその髪を揺らしていた。


「彼女もまた、何かの囁きを聞いているのだろうか……」


 足を進めようとした瞬間、廊下の向こうから小走りにやってきた一人の少年が彼に気づき、立ち止まった。


「アウグスト先生、おはようございます!」


 少年の制服はまだ初等部らしく、小さな体に少し大きすぎる上着を着ている。その小さな手に握られているのは、鉢植えの小さな花だった。


「おはよう」


 アウグストは微笑みながら軽く頷いた。その微笑みは、彼自身が意識するよりも自然なものだった。少年はほんの少し緊張しながらも、「今日の花壇に植えるんです!」と元気に声を上げ、再び走り去っていった。

 彼の背中を見送りながら、アウグストは心の奥でふと何かを感じ取る。生徒たちの無邪気な笑顔や元気な姿――それらが彼の中にある責任感と静かな安心感を同時に呼び起こしていた。


「彼らの未来がある限り、俺も止まるわけにはいかないか」


 そう思いながら、再び歩みを進めた。途中、廊下を曲がるたびに何人かの生徒たちとすれ違った。ある者は(ねむ)そうな顔で挨拶し、ある者は友人と何か楽しそうに話しながら彼を見つけると軽く礼をした。どの顔も異なる感情に満ちているが、いずれも――彼らがまだ未来への扉を開いたばかりだという共通点を持っていた。

 彼はふと、廊下の窓越しに目をやった。そこから見える中庭の花々が風に揺れ、太陽の光を受けて微かに輝いている。


「彼らの成長も、こうした自然の流れの中にあるものかもしれないな」


 だがその一方で、彼の心の中には、まだ囁きの正体をつかめない苛立ちが渦巻いていた。


「ルイーズ……お前なら、この囁きをどう解釈する?」


 心の中で再び問いかける。まるで彼女がすぐ隣にいるかのような錯覚を覚えたが、当然ながら返事はない。ただその問いが、かすかな感情の波を彼の胸の奥で引き起こしていく。

 中庭へと続く廊下を抜け、開けた場所に足を踏み入れた瞬間、花壇に並ぶ花々が一斉に朝陽を浴びて輝き、命の息吹を感じさせる。その自然の力に包まれたとき、彼はほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 ふと視界の端に先ほどの一人の少女がまだ思い耽って座り込んでいるのを見つけた。

 膝を抱えて俯き、花壇の片隅でじっと何かを考え込んでいるようなその姿。その存在が、彼の中に奇妙な既視感を呼び起こす。

 立ち止まったアウグストは、その場で静かに少女を見つめた。薄紅色(うすべにいろ)の光に包まれた彼女の姿は、一見すると儚げでありながらも、何か芯の強さを感じさせるものがあった。


「君も囁きを聞いているのか? それとも、俺の囁きが君に導いているのか?」


 まるで彼女が答えを知っているかのように、彼の胸の中で期待と不安が交錯した。立ち尽くす彼の足元で、かすかな風が囁きをまといながら通り抜ける。風に揺れる草花の音さえ、彼にとっては何かの前兆のように思えた。

 果たしてこの少女は、囁きが導く答えを持っているのだろうか――それとも、彼がまだ見つけ出せていない何かを隠しているのか。答えはまだ見えない。ただ、一歩踏み出す勇気だけが、彼にその未来を教えてくれるかもしれない。

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