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荘厳な鐘の音が、朝の澄んだ空気を揺らし、皇立アストレイア学園の大劇場にその神聖な響きを届けた。総勢一万を超える生徒たちが、何階にもわたる観覧席に整然と並び、初等部から中等部、高等部、大学部に至るまで、すべての世代が次の学園長の誕生を祝うために集まっている。
壇上の中央には、アウグストが立っていた。神聖な装飾が施されたローブが柔らかく揺れ、彼の存在はまるで光そのものに包まれているかのようだ。その隣、壇上の一角にはアルヴィンがリュートを膝に乗せていた。指が弦を軽やかにかき鳴らすと、柔らかく透き通った調べがホール全体に広がり、まるで夜露が草原を撫でるかのように心に染み渡っていく。
最前列に座る教師たちは、静かに頷きながらその光景を見守っていた。「これが、新たな時代に託された希望の形か――」と、ある教師は胸の中で感慨深く呟く。上級生たちは真剣な表情でアウグストを見つめ、心に何かを刻みつけるかのようだ。
オーケストラの楽器がアルヴィンのリュートに呼応し、調べが重なり合う中、アウグストがゆっくりと息を吸い込んだ瞬間、舞台にひときわ緊張感が満ちた。
⋆ ⋆ ⋆
たとえ大地が 冷たくても
春風が吹けば 目を覚ます
⋆ ⋆ ⋆
その歌声が舞台に響いたと同時に、リュートの音色が色彩を宿し、光の粒が弦からはじけ飛んだ。粒子は柔らかな風に乗って舞台を滑り、次第に形を成し始める。淡い金色に輝く風の妖精――透き通るような羽を持つ女性の姿が現れた。足元に光の筋を描きながらしなやかなステップを踏み、優雅に回転しながら空中で旋回すると、オーケストラの音と完全に共鳴していった。
観客席では、生徒たちがその幻想的な光景に息を呑む。初等部の子供たちは小さく歓声を上げ、中等部や高等部の生徒たちは夢中になってその動きを追っている。ある大学部の生徒は隣の友人にそっと囁いた。「これは仕込みなのか? それとも……本当に奇跡なのか?」答えは返らない。ただ、目の前の光景に心を奪われているのだ。
⋆ ⋆ ⋆
たとえ涙が こぼれても
花は そのぶん 咲き誇る
⋆ ⋆ ⋆
妖精のステップに合わせて花びらが次々と舞い上がり、柔らかな光の粒子が宙に漂う。それはまるで夜空に輝く星々が織りなす布のように舞台を覆い、観客を幻想の世界へと引き込んでいく。
中等部の席に座っていた少女は、目を閉じそっと口元に手を添えた。そして、アウグストの歌に呼応するように、小さな声で静かに口ずさみ始める。その声は誰にも聞こえないほど小さなものだったが、その瞬間、彼女の足元に淡い草花が生い茂り始めた。
紫色の藤のような花弁が静かに広がり、周囲を包み込んでいく。隣に座る友人や教師たちは言葉を失い、その神秘的な光景をただ見つめている。
舞台の妖精が最後の旋回を終えると、ふわりと空中に跳ね上がり、優しく宙返りをしながらアウグストの方へと向かった。そして、しなやかに舞い降り、彼の手をそっと取り、優しくその手に口づけをするかのように触れた。
⋆ ⋆ ⋆
別れの風が 吹くたびに
はじまりの 出会いが来る
だから君は 迷わない
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妖精はアウグストの体と重なり、淡い光となって吸い込まれていく。その光が彼の体を淡く輝かせ、彼の瞳には新たな光が宿っているのがはっきりと見えた。それは、星霧の森の囁きがアルヴィンのリュートからアウグストへと移った瞬間だった。
アウグストの歌声がクライマックスに達し、劇場全体に響き渡る。
⋆ ⋆ ⋆
涙が乾けば 空は青く
咲いた花は 誰かを包む
⋆ ⋆ ⋆
その最後の一節が静かに響き終わると――ホール全体は一瞬の静寂に包まれた。次の瞬間、万雷の拍手が湧き上がり、歓声がホール全体を揺るがした。
歓声に包まれた劇場の中で、アウグストとアルヴィンは舞台袖へと静かに姿を消した。カーテンの陰に隠れると、耳を包んでいた熱狂が一瞬だけ遠ざかり、安堵の息が二人の間に漂った。
アルヴィンはリュートを肩にかけ直し、軽く弦を弾いてみた。音はいつも通り――いや、むしろ清々しく響くが、彼の瞳には微かな違和感が浮かんでいる。囁きが聞こえない。それに気づいた彼は無意識にリュートを見つめた。
「おいおい、俺はいつもこんな奇跡の引き立て役か?」
アルヴィンが冗談めかして笑う。
だが、その返事はアウグストではなく、舞台袖から駆け寄ってきたルイーズのものだった。
「アウグスト!」
ルイーズは駆け寄るなり彼を抱きしめた。神聖なローブの布地に顔を埋めるようにして、そのまま数秒、静かに彼の体温に浸る。
アウグストは驚きつつも、そっと彼女の背に手を添えた。
「ルイーズ?」
彼女の瞳が潤んでいるのに気づいたアウグストは少し戸惑ったが、ルイーズが妖精が消える瞬間に口づけをした光景を思い出し、軽くため息をついた。
「……まさか、あの妖精に嫉妬しているのか?」
ルイーズは顔を上げ、ほんのわずかに頬を染めた後、軽く肩をすくめた。
「嫉妬なんて、馬鹿みたいね。でも、奇跡に抱擁されるのを見たら……気にしない方がおかしいかも」
その時、別の軽やかな足音が舞台袖に響いた。クラリスだった。目を輝かせながらアルヴィンのもとに駆け寄り、ルイーズの真似をして、その勢いで彼の胸にぶつかるようにして止まった。
「アルヴィン、最高だったわ!」
アルヴィンは両手を広げておどけてみせる。
「やあ、いつものことさ。俺の音楽に妖精が踊ってくれるなんて、ちょっとしたご褒美だな」
しかし、その瞳がリュートに戻るのをルイーズは見逃さなかった。アルヴィンの中で何かが変わっている――彼の微かな戸惑いが、音楽の裏に隠されていることをルイーズは察した。
「どうしたの?」
クラリスが気づくと、アルヴィンは小さく息をついた。
「囁きが……聞こえないんだ。もうずっと俺についてきていたあの声が、今は消えている」
彼はもう一度リュートの弦を軽く弾く。だが、そこに耳をすませても、静寂が答えるばかりだった。
アウグストが彼の肩に手を置いた。
「君の囁きがどこへ行ったのか、その理由なら――おそらく、私が受け継いだのだろう」
アルヴィンの瞳が大きく開く。
「どういうことだ?」
「私も確信があるわけじゃない。ただ、あの妖精が私の胸に飛び込んできた瞬間、風のような囁きが私に宿ったんだ」
「なら、あれはお前の奇跡か?」
アルヴィンが問いかけると、アウグストは笑みを浮かべたが、どこか遠くを見るような表情になった。
「分からない。だが、あの妖精が本物だったとしたら――私たちは今、奇跡の一端に触れているのかもしれない」
クラリスが口元に手を添え、小さく囁くように言った。
「本物の妖精……今の時代、誰も見ることなどできないと思っていたのに。妖精って意外に目立ちたがりやなのね」
その言葉が風に溶けるように消えた瞬間、再び遠くからホールの歓声が舞台袖にまで届いた。
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次期学園長室――その部屋は、柔らかな光が差し込む大きな窓と古びたが気品ある書物棚に囲まれていた。天井には手彫りの木目が走り、どこか温かさと荘厳さが入り混じった空気が漂っている。中央には大きなテーブルが据えられ、アウグストを囲むようにガレン、アルヴィン、バルグ、リリア、クラリス、そしてルイーズが座っていた。
ルイーズが指を動かすと、ティーセットがふわりとテーブルの上に並んだ。水差しからケトルへと水が移り、彼女がパチッと指を鳴らすと、瞬く間に湯気が立ち上る。ティーポットに湯を注ぐと、部屋いっぱいに優しい茶葉の香りが広がった。
「こうしてお茶を入れるのも久しぶりね」
ルイーズが微笑みながらティーカップを一つずつ配る。
アルヴィンがリュートを膝に置きながらおどけて言った。
「その魔法の手さばき、もう少し見ていたいな。俺のリュートにも魔法をかけてくれれば、次は妖精どころか竜も呼べそうだ」
「あなたの冗談には慣れているわ」
ルイーズが軽く鼻を鳴らして返すと、部屋の中に小さな笑いが広がった。
だが、その笑い声の中で、ガレンは静かに息を吸い込んだ後、湯気が立ち上るティーカップを手に取り、目を伏せたまま切り出した。
「俺たちは、セントリスを発つことに決めた」
その言葉に部屋の温かい空気が一瞬止まったかのようだった。クラリスが息を呑み、ふとアルヴィンの横顔に視線を送る。何気ない仕草でリュートを膝に乗せたままの彼に、どうしても別れを告げたくないという想いが胸に湧き上がる。リリアもまた静かに目を伏せ、そっと手を膝の上で握り締めた。
「ラドクリフの部隊に合流するのだな」
アウグストが静かに問いかけると、ガレンは短く頷き、手にしていたティーカップを机の上にそっと置いた。
「ああ。彼は今、アンデッドとの戦いで生き残った難民たちと行動を共にしている。俺たちも力を貸したいんだ」
アルヴィンが肩をすくめながら、いつもの軽い調子で口を開く。
「ガレンの決意は固いみたいだ。俺とバルグも一緒さ。どうせ俺たちは風の向くまま歩くのが性に合ってるからね」
バルグは無言のまま頷いたが、その視線にはすでに旅の覚悟が刻まれている。その様子に、その背中に手を伸ばしたかったが、声にならない感情が彼女を足止めしていた――いまだ、その一歩を踏み出せないまま彼を見つめている。
「……子供たちのことは?」
リリアが小さな声で問いかけると、ガレンは微かに微笑んだ。
「彼らが成長したら、迎えに戻ってくるさ。それまで、あいつらにはここでしっかり学んでほしい」
アウグストが静かに目を伏せ、やがてその瞳を再び上げる。
「君たちが旅立つ理由は理解している。だが、忘れないでほしい。ここはいつでも君たちの帰る場所だ」
その言葉に、アルヴィンが軽く笑いながらリュートの弦を爪弾いた。
「そう言われると帰りづらくなりそうだけど、ありがたいよ」
クラリスが目を潤ませながら、アルヴィンに向かって小さな声で言った。
「絶対に帰ってきてよ」
彼女の声は震えていたが、決意が込められていた。アルヴィンがその声に応えるように彼女をじっと見つめ、やがて優しい微笑みを浮かべた。
「もちろんさ。君の作ったあの特製キノコ料理がまた食べたくなるだろうしね」
クラリスはわずかに赤くなりながら、小さく笑みを浮かべた。
リリアは、そんな二人のやり取りを見ながら自分の中にある不安と寂しさを押し殺すように立ち上がり、バルグのそばに歩み寄る。
「あなたが帰ってきたとき、私はもっと強くなってるから」
その言葉には、彼女の決意と見えない想いが混ざり合っていた。バルグは優しく彼女の肩に手を置き、穏やかに頷く。
「君はもう十分に強いよ」
その言葉がリリアの胸に温かく響いたが、それでも彼女はもっと強くなりたいと心に誓った。
アルヴィンがリュートを手に取り、何気なく弦を弾いた――しかし、音はかつてのような囁きではなかった。
ルイーズが腕を組みながら、ため息混じりに言った。
「お茶を飲まずに立つつもり?失礼じゃないかしら」
アルヴィンが肩をすくめて軽く笑う。
「帰ってきたらもう一杯ご馳走になるってことで」
ルイーズがやれやれといった顔で微笑みながら言った。
「次は特別な紅茶を用意して待っているわ――だから、必ず帰ってきてね」
ガレンとバルグが静かに立ち上がり、みんなの顔を順に見つめた後、無言のまま部屋を後にする。
最後にアルヴィンが振り返り、ふっと柔らかい笑みを残した。
「またな」
扉が静かに閉まり、残されたのは余韻と希望――それは新しい再会を約束する温かな光となり、部屋の静寂の中にそっと息づいていた。
— 第七章終 —