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星の織りなす物語 Styx  作者: 白絹 羨
第七章:選ばれし者たち
30/35

 薄い朝霧が街道を覆い、遠くの街並みがぼんやりと浮かび上がる。アルケイン――学び舎と歴史の香りが交錯するこの都が、ついに旅の終着点としてその姿を現した。朝日に照らされた石造りの門が、長い旅路を終えた彼らを出迎えるかのように静かにたたずんでいる。

 先頭の馬車を操るガレンが、軽く手綱を引いた。馬の蹄が石畳に響き、車輪が滑らかに転がる。


「着いたな」


 彼が短く呟くと、その言葉に応えるかのようにリリアの荷馬車も続いて止まる。彼女は深く息を吸い、馴染みある街の空気に懐かしさを覚えた。

 後方では、アウグストが大きな馬車を緩やかに止め、御者台から優雅に降りる。彼の後ろでは、ルイーズが手をかざして朝の陽光を遮りながら街の景色を眺めていた。


「やっぱり、ここは変わらないわね」


 彼女の声には故郷に戻ってきた安堵が混じっている。


「アルケインに戻ってくると、いつでも新しい風が吹いているように感じるわ」


 クラリスが藁を払いながら馬車から降りた。錬金術で名高い彼女にとって、この街は研究と挑戦の場所でもある。だが、今はどこか穏やかな表情を浮かべている。

 兵舎の前に馬車が到着するや否や、周囲が慌ただしく動き始めた。兵士たちが突然のアウグストの帰還に驚き、次々と駆け寄ってくる。

「アウグスト閣下が戻られた!」という声が次第に広がり、門番が急いで門を開ける。


「申し訳ありません、何も準備が――」


 一人の若い兵士があたふたと頭を下げるが、アウグストは軽く笑って肩を叩いた。


「準備など必要ないさ。ただ、私がいるべき場所に戻っただけだ」


「せっかくだからお願いしてみましょうよ」


 ルイーズが肩をすくめて言った。


「では荷物を運ぶ準備だけは頼むぞ」


 アウグストは指をさして馬車の荷台を示した。


「この大きな馬車の荷物を小さな荷馬車に積み替え、クラリスの家まで届けてくれ」


 兵士たちは即座に動き、荷物の運搬を開始した。その様子を見届けたルイーズが、一歩前に出て別の兵士に声をかける。


「それと、私たちを宮廷の養護施設までお願いできますか?」


 アウグストはその言葉に眉をひそめ、振り返る。


「養護施設?ルイーズ、なぜだ――」


 ルイーズは微笑を浮かべながら、軽く首を振った。


()()、少しお時間をいただけますか?」


「……わかった」


 アウグストはそれ以上詮索せず、馬車に腰を下ろしたが、まだ納得しきれない様子で視線を送る。

 その様子を見たクラリスが小声で笑いながら、「私たちの子供たちに会いに行くの」とアウグストに囁く。


「なに?」


 アウグストの目が一瞬驚きに見開かれる。


「子供たち?」


 ルイーズは返事をせず、軽く微笑んだまま馬車に乗り込んだ。アウグストが何か言おうとするのを遮るように、クラリスが軽く手を振った。


「詳しい話は、あとでお教えするわ」


 続いて、ガレンとバルグ、アルヴィンが乗り込み、肩をすくめてそれぞれ子供たちとの再会に思いをはせていた。ただ一人、アウグストだけは彼らのにやけた顔をぼんやりと眺めている。

 御者台にはリリアと兵士が軽く手綱を引き、「それでは、参りましょう」と声を上げた。馬車が再び動き始め、石畳を踏みしめる蹄の音がリズムよく響く。

 瓦石の舗道を進む大きな馬車の上で、アウグストは少し困惑したまま、ちらりとルイーズを見つめたが、彼女は窓の外を眺めるばかりでその視線には気づかない。

 クラリスとアルヴィンの小さな笑い声が(かぜ)に溶け込み、馬車はゆっくりと養護施設へと向かっていった。



 白い門扉が朝日に照らされ、柔らかな輝きを放っていた。細かな装飾が施されたその門は、まるで訪問者を静かに見守るような佇まいを見せている。門の向こうには、手入れの行き届いた庭が広がり、色とりどりの花々が風に揺れていた。

 リリアが門に手をかけ、ゆっくりと開けるときしむ音が響いた。彼女は振り返り、仲間たちに目で促した。


「さぁ、行きましょう」


 足元の小石が靴底で軽く音を立てる。庭を抜け、正面玄関へと続く石畳を歩く彼らの表情には、期待と懐かしさが()り混じっていた。

 玄関が開くと、暖かなパンの香りが鼻をくすぐる。 廊下の奥から、ぱたぱたと軽い足音が響き、小さな影が駆けてきた。


「クラリスお姉ちゃん!」


 小さな男の子が迷わずクラリスに飛びついた。細い腕でしがみつき、その顔には無邪気な笑顔が広がっている。クラリスは、すぐにその体をそっと抱きしめた。


「大きくなったわね」


 彼女の声は優しく、穏やかだった。


「みんな、来てくれたのね」


 玄関先に現れたのはシスター・アグネスだ。優しい眼差しで彼らを迎え入れ、その声には長年の慈愛がにじんでいた。


「ただいま、アグネス様」


 ルイーズが軽く頭を下げた。


「おかえりなさい」


 アグネスがその手を握り返し、柔らかく微笑む。


「無事に戻ってきてくれて本当に嬉しいわ」


 その背後から、子供たちが歓声を上げながら駆け寄ってきた。彼らの小さな足音が石畳にリズムを刻み、バルグに向かって一直線に飛び込んでくる。


「バルグ兄ちゃん!」


 一人、また一人と彼の太い腕にしがみつき、さらに二人、三人と続いてバルグの周囲に群がった。彼らは小さな手を伸ばし、バルグの手や足にしがみつき、笑顔で次々と口を開いた。


「もっと高いところに持ち上げて!」


「ねぇ、またあの肩車やってよ!」


「バルグ兄ちゃん、強いってまたみんなに自慢しちゃうんだ!」


 バルグは一瞬だけ戸惑い、肩越しにアルヴィンとガレンに視線を送ったが、すぐに顔をほころばせた。その表情には、長らく見せることのなかった柔らかな光が宿っている。


「よし、全員持ち上げてやる」


 その言葉に子供たちは歓声を上げた。バルグは彼らを両腕に抱き上げ、まるで羽毛のように軽々と肩の高さまで持ち上げる。小さな体が宙に浮き、子供たちは笑い声をあげながらバルグの肩や背中にしがみついた。


「やっぱりバルグ兄ちゃん、強い!」


「怖いのなんか全然ないよ!」


 その言葉にバルグの目が微かに潤んだ。だが、その涙は単なる感情の発露ではなかった。彼は笑顔のまま子供たちの顔を一人ひとり確かめるように見つめた。そこにあるのは無邪気な笑顔、未来への希望。そして、自分が彼らを守る存在であることへの揺るぎない確信だった。

 バルグは子供たちを優しく抱きしめ、無邪気な笑顔と無限の希望がその胸に刻まれていくのを感じた。その瞬間、心の奥底で何かがかすかに囁く。


『この笑顔を、守らなければ――絶対に。』


 かつて仲間を失った時と同じ感覚――(いか)り、悲しみ、そして無力感が一瞬胸をよぎる。しかし、今の彼は違った。バルグはその囁きに耳を傾けつつも、もうその渦に巻き込まれることはなかった。深く息を吐き出し、静かに目を閉じる。


『戦わなくてもいいんだ。たとえ何を失っても、憎しみや(いか)りに身を委ねず、その痛みを抱えながら進んでいけばいい――それが俺の新しい強さだ。』


 胸の奥に重く張り付いていた恐怖がほどけるように消え、代わりに心を満たしたのは、静かな覚悟だった。


『俺がここにいるだけでいい。それで、十分なんだ。』


 バルグは子供たちを優しく抱きしめ、温もりをその胸に刻み込む。彼の目尻から一筋の涙が流れた。それは、ただあるべき場所にたどり着いた人間が見せる安堵の涙だった。子供たちの笑い声は消えることなく遠くで響き、その音が心の奥に重く張り付いていたすべてのものを優しく解きほぐしていく。

 遠くからその様子を見ていたガレンが、静かに息をつきながら小声で呟いた。


「バルグがこんな顔をするなんてな」


 アルヴィンもリュートの(げん)を弾く手を止め、穏やかに笑った。


「あれが、バルグの本当の顔なのかもな」



 遅れて入ってきたアウグストとリリアがその光景を目にすると、しばし立ち止まって見入った。バルグの姿、彼にしがみついて笑顔を浮かべる子供たち――そのすべてが彼の胸に深く響き、何かが揺さぶられた。


「これが……彼のしてきたことか」


 アウグストは低く呟いた。その声には尊敬と感動が()り混じっていた。


「そうよ」


 ルイーズがそっとアウグストの横に立ち、柔らかな微笑を浮かべた。その微笑みはいつもの冷静さとは異なり、温もりに満ちたものだった。彼女の瞳はわずかに潤み、揺れる光が感謝の感情を映し出している。

 アウグストは再び目を細め、ゆっくりと頷いた。


「ならば、私も力を貸そう。彼とこの子たちが将来困らないよう、支援を惜しまない」


 ルイーズは優しい光を宿した瞳でアウグストを見上げ、ふっと微笑んだ。彼の温かい言葉は、まるで心にそっと触れるようだった。

 彼女はそっと彼の袖に指先を触れた。それは、ほんの短い瞬間でありながら、確かな意味を含んでいた。朝の光が彼女の瞳に反射し、淡い感情を優しく照らしている。


「あなたの言葉が、どれだけ救いになるか……ありがとう」


 アウグストは彼女の視線を受け止めたまま、一瞬、心の奥に波紋のような感覚が広がるのを感じた。感謝の言葉の奥に何か秘められたものがあるのか、それとも彼自身が期待してしまっているのか――。

 だが、問いかける代わりに彼はただ静かに頷き、その余韻に身を委ねた。

 リリアは空気を読み取ったように、アウグストとルイーズから一歩後退し、微笑みながら子供たちへと振り返った。軽く手を叩くと、彼女の視線は自然とバルグの方へと移っていく。

 バルグの肩越しに見える子供たちの笑顔、そして彼に優しく寄り添うその姿――リリアの胸は小さな高鳴(たかな)りを感じた。


『もっとそばに行きたい。』


 その思いが顔に出ることはなく、彼女はそっと息をついてその感情を胸にしまい込んだ。『今は、見守るだけでいい』と自分に言い聞かせながら、軽やかに駆け寄る。


「さぁ、今日は何をして遊ぶ?」


 その声には、リリア自身の抑えきれない心の温かさがほんのりと混じり、風と共に庭に優しく広がっていった。

 子供たちの歓声がさらに広がり、バルグの肩越しに見える彼らの笑顔が、差し込む朝の光と共に|弾《》はじ》けたように輝いた。その中で、アルヴィンがリュートの(げん)を軽く弾き始める。音色は窓の外へ風と共に穏やかに広がり、ほんの少しの切なさと希望を織り交ぜながら、静かに街の新しい一日を告げていた。

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