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夜明け前の冷たい空気が辺りを包み、薄い朝霧が大地を這うように漂っていた。風が草をそよがせるたびに夜露が光り、地面には馬車のわだちが長く刻まれていく。馬のひずめが小石を弾き、かすかな音が冷えた空気に溶け込む。草むらから飛び立った鳥が朝の霧を切り裂くように舞い上がり、遠くで小さな羽音が消えていった。
馬車が三台、ゆっくりと緩やかな山道を進む。先頭を行くのはガレンが操る小型の荷馬車だ。手綱を握る腕はしっかりと馬の動きに合わせ、リズムよく動いている。ガレンは振り返ることなく、常に前方を見据えていた。革のコートを羽織り、風にあおられるその姿は、旅の疲労をものともせず、彼が頼れる存在であることを感じさせる。
その後ろにはリリアがたづなを握るもう一台の荷馬車が続いていた。若い彼女の背筋はまっすぐに伸びており、馬の動きに合わせる仕草もどこか誇らしげだ。リリアは馬のたてがみを優しく撫で、微かに口元に笑みを浮かべた。
「よしよし、落ち着いて」
彼女の声は穏やかで、馬もその調子に安心したように軽く鼻を鳴らす。リリアはふと前方を行くガレンに視線を向けたが、彼が特に何も言わないのを確認すると再びたづなに意識を戻した。
その後ろを、大きな荷台を備えた馬車が続く。アウグストが御者台に座り、手綱を緩やかに操っている。その姿にはわずかな疲労の影があったが、彼の目は前方をしっかりと見据えていた。つい数日前、彼は神聖術師と兵士たちを国境の町の警備のために残す決断を下し、単独でアルケインへと戻る旅に出ていた。
帆布で覆われた荷台の中には、藁が敷き詰められ、旅の疲れを少しでも和らげるための工夫が施されていた。日が昇ればここは太陽を遮り、夜には冷気を防ぐ小さな居場所となる。
その荷台には、アルヴィンがリュートを膝に乗せて座り込み、暇そうに弦を撫でている。その隣では、ルイーズが布袋を膝の上に広げ、指先でお茶の葉を優しくつまむと鼻先に近づけた。袋から立ち上る微かな香りは、青草と甘い花のような匂いを混ぜ合わせたもので、彼女の表情がわずかに和らぐ。クラリスは藁の上に体を投げ出し、しばらく目を閉じていたが、馬車が石を踏むたびに揺れる感覚に目を細めた。
そして、バルグは大きな体を荷台の端に寄せ、無言で道の先を見据えている。身を乗り出しながら風を顔に受け、険しい表情のまま考え込んでいるようだった。その手は斧の柄を軽く握り、何かを押し殺すかのように指を動かしている。
馬車はしばらくの間、蹄の音とリュートの柔らかな旋律だけを伴いながら進んでいく。
アルヴィンが突然、弦を軽く弾きながら口を開いた。
「なぁ、みんな――人生って、何でこんなに面倒くさいんだろうな?」
ルイーズが苦笑して彼を見た。
「何よ、いきなり詩人みたいなことを言い出して」
「いやさ、こうやって旅していると考えることも増えるんだよ。あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、いろんな人に会って、命の危険にさらされる。それで俺たちが得られるのって、何なんだろうってさ」
アルヴィンは空を見上げ、朝の冷気を吸い込むように深く息をついた。
「選ばれた者だから生きているのか、それともただの偶然でここにいるのか――ってな」
クラリスが藁から体を起こし、髪をかき上げながら呟いた。
「選ばれたと信じていた方が楽な時もあるけど、それが重荷になる時もあるわね」
アルヴィンはふっと笑って肩をすくめた。
「だから、俺にとっては風が一番いいんだよ。向かい風だろうが追い風だろうが、その時感じた風を楽しめばそれでいい」
クラリスは軽く笑いながら彼の言葉に頷いた。
「確かに、あなたらしいわ」
「バルグはどう思う?」
アルヴィンがふと声をかけた。
バルグは一瞬だけ顔をこちらへ向けたが、すぐにまた前方へ視線を戻した。
「……」
答えない彼に、アルヴィンは気にした様子もなく再び弦を弾き始めた。
「まぁ、考えるのが苦手なやつもいるよな。それでも大丈夫さ」
「アルヴィン、あなたって本当に面倒事を面倒だと思っていないのね」
ルイーズが皮肉っぽく言うと、アルヴィンは片目をつむって笑った。
「そりゃあそうだ。面倒なことこそ詩になるからな」
リュートの音色が風に乗って広がり、馬車は変わらずに進んでいく。朝露が乾き始め、遠くには霧の向こうに広がる街の影がぼんやりと見え始めていた。
ルイーズは袋にしまったお茶の香りがまだ鼻先に残るのを感じながら、ふとアウグストの背中に視線を送った。御者台の上でたづなを握るその姿は、夜明けの淡い光に溶け込み、どこか威厳すら漂わせている。
「アウグスト、先ほど言っていた学園に戻るって話――何か特別な事情でもあるの?」
その問いにアウグストは振り返り、薄く笑みを浮かべた。
「特別かと言われればそうだな。私は皇立アストレイア学園の次期学園長になることが決まっている」
その一言に、ルイーズの目が見開かれる。
「あなたが学園長?」
「そうだ。正式な任命はアルケインに着いてからだが、ほぼ確定だ」
クラリスが体を前に乗り出し、意外そうに言った。
「でも、神聖術の筆頭であるあなたが学園長に?普通はそちらの仕事だけでも忙しいでしょうに」
アウグストは自信に満ちた表情で胸を張る。
「それをやるからこそ価値があるんだよ。セントリスの未来だけでなく、帝国の存続にも関わることだからな。今の帝国はアンデッドの脅威にさらされ、風前の灯だ。こういう時こそ、知識と技術を次世代に伝え、真に国を支える者たちを育てなければならない――それが私の使命だと考えている」
アルヴィンがリュートを軽く弾きながら興味深そうに口を挟んだ。
「学園長ってそんなに偉いのか?」
ルイーズが苦笑しながら肩をすくめた。
「アストレイア学園は皇立の名を冠する、セントリス最高の教育機関よ。魔術、錬金術、神聖術、剣術――あらゆる分野で未来を支える人材を育てている。その学園長の影響力は、市長に匹敵するほどなの」
「つまり――ほぼ王家の重鎮ってことか?」
アルヴィンが感心したように口笛を吹く。
「そういうことだな」
アウグストは小さく笑った。
「ただし、学園の運営が楽だとは思わない方がいい。多くの問題と多くの若者がいて、どちらも手を焼く存在だからな」
クラリスがアウグストに微笑む。
「でも、あなたなら大丈夫だと思うわ。講師陣にも優秀な人材がそろっているでしょう?」
「確かにな」
アウグストは振り返って馬車の荷台を見やった。
「ルイーズも元々、魔術の講師として学園に関わっていたよな?」
ルイーズが微かに笑いながら答える。
「そうね。セントリスの宮廷魔術師になってからはあまり教壇に立っていないけど、魔術基礎の授業を担当していた時期もあったわ」
「それだけじゃない」
アウグストはクラリスにも視線を送る。
「クラリスも学園の錬金術科で講師を務めていただろう?」
クラリスが懐かしそうに目を細めた。
「ええ、若い錬金術師たちと一緒に試行錯誤していたのを思い出すわ」
アルヴィンがからかうように笑いながら言った。
「講師だらけじゃないか、この馬車」
クラリスが軽く笑いながら返した。
「そうね。講義をしたいなら、あなたも入門試験を受けてみる?」
アルヴィンがリュートを弾きながら笑った。
「俺は試験は無理だな。だけど、即興の詩の講義なら案外いい授業ができるかもしれないぞ?」
馬車の揺れに合わせて藁が柔らかく軋む音が響く中、隣の荷馬車からリリアの声が届いた。
「私も講師になれるのかな?」
ルイーズが優しい眼差しでリリアを見つめた。
「リリア、あなたにはその素質があるわ」
アウグストがその言葉に頷きながら付け加えた。
「君が正式に神聖騎士として認められたら、学園で教えてほしい。若い騎士見習いたちにとって、君のような存在は励みになるだろう」
リリアはその言葉に驚いたように目を見開いた。
「そんな風に考えてくれていたなんて……でも、私にはまだ実力が足りないと思います」
アウグストは真剣な口調で答えた。
「誰でも最初はそう思うものだ。だが、君の潜在能力は高い。それに、ここまで来た君の姿を私はずっと見ていたよ」
「ほら、謙遜するなよ」
先頭のガレンが馬車の上から振り返り、にやりと笑う。
「まずは神聖騎士団の試験に合格するのが先だぞ」
アルヴィンがすかさず冗談を重ねる。
「おいガレン、お前も講師になるか?『荒事の心得』とか、喧嘩に勝つ極意でも教えれば人気者になれるんじゃないか?」
先頭の馬車からガレンが振り返り、大きな声で返した。
「俺が教えるとしたら肉の焼き方と香辛料の擦り込みだな。それなら大盛況間違いなしだろ!」
ルイーズが吹き出しそうになるのをこらえながら言う。
「料理の講師ってこと?」
「そうだ。しっかり焼いた肉の香りを教室に漂わせれば、みんな真面目に授業を聞くだろう」
クラリスが目を輝かせて口を挟んだ。
「それなら私も参加したいわ。サンドワームの尾のスパイス焼きが得意なのよ。香りが最高で――」
「うわっ、やめてくれ!」
アルヴィンが思わずリュートを手で覆い、顔をしかめた。
「頼むからその話はやめて」
リリアも苦笑しながら口を押さえる。
クラリスが不満そうに腕を組んだ。
「サンドワーム料理を試さないなんて、人生の損よ」
アルヴィンがリュートを弾きながら笑った。
「いや、それで済むなら喜んで損するよ」
ガレンが前方を向き直しながら一言付け加えた。
「ほらな、俺にはそんな柄じゃないんだよ」
最後にアルヴィンがバルグを振り返った。
「バルグもどうだ?未来の戦士に何か教えてやればいい」
バルグは肩をすくめて笑った。
「教えるほど立派なもんじゃない。ただ、風の向くまま歩いていくだけだ」
その答えに、アルヴィンが満足そうに頷き、弦を軽く弾いた。
「風を感じるってわけだな。詩人になってみないか?」
バルグは遠くの山並みに視線を据えた。風が彼の頬を撫で、馬車のわだちに舞い上がった砂埃が静かに沈む。
「詩人なんて大層なものじゃないさ。ただ、俺は風の流れに従うだけだ」
アルヴィンの弦を弾く音が、朝の風に絡むように軽やかに響いた。その旋律は一瞬だけバルグの重いまぶたを震わせたが、彼の口は何も言わずに閉ざされたままだった。