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星の織りなす物語 Styx  作者: 白絹 羨
第六章: 崩壊の始まり
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 崩れた瓦礫の中から、誰かの(うめ)き声が微かに聞こえる。粉塵が夜風(よかぜ)に舞い上がり、瓦礫に差し込む月明かりが白く揺れる。破壊された店の廃墟の中、クラリスは息を切らしながら辺りを見回した。その目に映ったのは、瓦礫に埋もれた一つの体だった。


「ガレン!」


 彼女は足元の不安定な瓦礫を振り払い、かけ寄るとその体を抱き起こした。(ひたい)に滲む血が、頬を伝って地面に落ちる。いつもは仲間を先導する彼の堂々とした姿が、今は無防備なまま、ただ呼吸の浅い胸がわずかに動くだけだった。


「しっかりして……!」


 ガレンの傷口を押さえながら、クラリスは必死に周囲を探す。だが、その視線の先に、別の影があった。黒衣(こくい)の剣士の一人がうつ伏せのまま、肩を小さく上下させている。

 一瞬、足が止まった。

 彼らは敵だ――バルグを殺すために現れた、呪われた者を裁く追手だ。そんな思いが頭を過ぎるが、彼女の目に映ったのは剣士の顔だった。

 月光が照らすその顔は――無垢な少年のように眠る顔だった。頬はわずかに泥にまみれ、まつ毛が静かに揺れている。その顔には、敵意も冷徹さも、何一つ感じられない。


 『こんなに……幼い。まるで子供じゃないか。』


 クラリスは無言のまましゃがみ込み、その体をそっと抱きかかえた。胸元に触れた手が、かすかな鼓動を感じる。彼らもまた、運命に抗えず戦場に立たされただけの存在だと、今、初めて実感した。


「一緒に助けるから……大丈夫」


 その声は震えていたが、覚悟を決めた者の響きだった。彼女はガレンと黒衣(こくい)の剣士を瓦礫の中から安全な場所へと運んだ。夜風(よかぜ)が彼女の汗を冷やし、泥と血にまみれた両腕を覆ったが、歩みを止めることはなかった。



 土煙が舞う中、歌が響き始めた。

 微かなリュートの音が空に溶け込み、ゆっくりとその音色が夜の静寂を染めていく。アルヴィンの指が(げん)を弾き、旋律が波のように広がっていく。音楽は人々の耳に届き、バルグの足元に漂い始めた。

 バルグの赤く燃える目がわずかに揺らいだように見えたが、彼の荒い息はまだ止まらない。斧を握る手が震え、その足が再び地を踏みしめようとした瞬間――


「神よ、その穢れた魂に安らぎを……」


 低く落ち着いた声が響く。アウグストの歌声だった。

 神聖魔法の調べが夜に溶け、月光と共に地面を這うように広がっていく。アウグストがゆっくりと歩みを進めるたびに、周囲の空気が変化していった。彼の足元から柔らかな光が放たれ、夜風(よかぜ)に乗って光の粒が舞い上がる。それは花のように変化し、幻想的な輝きを帯びながら散り始めた。白い花びらが(かぜ)に舞い、どこからともなく小鳥たちのさえずりが微かに響いた。

 彼の姿はまるで神話の中の聖者のようだった。


「まさか……アウグスト様が……?」


 冒険者の一人がその場で立ち尽くし、言葉を失う。


「この国境の町(エリオン)に、あのアウグスト・レオポルドが?」


 人々はざわめきながらも、次第にその歌声に魅了されていく。彼はただ歌っているだけではなかった。光と音が共鳴し、バルグの体に絡みつくようにしてその狂気を浄化しようとしていた。


「安らぎは暴力で奪えない……それを受け入れることだ」


 アウグストの歌声が静かにバルグの耳に届く。アルヴィンのリュートの音がそれに寄り添い、音楽と魔法が完全に調和する。その瞬間、バルグの体から立ち昇っていた熱気がわずかに収まり始めた。

 斧を握る手が震え、ついにその刃が重力に引かれて地面に落ちる音がした。

 バルグの目にはまだわずかに赤い光が残っていたが、その奥には理性が戻ろうとするかのようなかすかな光が宿っていた――。

 アウグストの歌声が柔らかく夜に溶け込み、その余韻が瓦礫の隙間に染み渡っていく。空気は新たな命を得たかのように揺らぎ、そこに眠っていたものたちが静かに目覚め始めた。アルヴィンのリュートの旋律がそれに寄り添い、二つの音が重なるたびに、世界そのものが静かに息づくような錯覚を覚えた。

 崩壊した酒場の中で傷つき倒れていた者たち――冒険者、町の住人、そして店主。彼らの体に、まるで夜露を帯びた花が咲き始めるかのように色とりどりの植物が芽吹いていく。淡い青、柔らかな黄色(きいろ)、紫の藤のような形の花々が絡みつき、破れた衣服や血で汚れた肌にそっと触れる。

 傷口がふさがり、痛みが徐々に引いていく。ガレンの閉じられた瞼が微かに動き、浅い呼吸が徐々に深くなる。黒衣(こくい)の剣士の頬にも白い花びらが触れ、汚れた顔がまるで清らかな夢に包まれているようだった。


「……これは……奇跡だ」


 冒険者の一人が涙を流しながら呟いた。彼の肩には蔓が絡みつき、まるで心そのものまで癒されていくように感じていた。

 その場に立つ誰もが、言葉を失っていた。ただ、アウグストが歌うたびに広がっていく光景に魅了されていた。神聖国が誇る英雄、そして聖歌を司る者――アウグスト・レオポルドが奏でるその力に、誰もが希望を見出していたのだ。

 バルグの周囲にも、花が咲き始める。

 膨張した筋肉の隙間に蔓が絡みつき、赤く染まっていた傷跡に触れるたび、血が止まり、痛みが消えていく。斧を握っていた手が小さく開き、荒れていた息がわずかに落ち着いた。

 だが、まだ完全には沈まっていない。彼の目にはかすかに残る赤い光が宿り、(うち)なる呪いと理性が最後のせめぎ合いを続けている。彼の意識は、目の前の音に引かれるように漂いながらも、過去の記憶に絡め取られていた。


 『ロドリック……俺は……間違っていたのか?』


 幼い日の光景、笑顔で駆け回っていた草原――だが今、それが呪いによってすべてが崩れた記憶となって彼を苦しめる。癒しの音色がその鎖を断ち切ろうとしていたが、完全には届いていない。

 リリアが震える膝を押さえながら、静かにバルグのそばへと歩み寄った。彼の巨大な体の周囲を淡い光の蔓が包んでいるが、まだ決定的な変化は訪れていなかった。


「バルグ……目を覚まして」


 彼女の声はかすれていたが、その中には確固たる決意があった。


「バルグ……私にはわかるの。仲間を失う痛みが、どれほど心を引き裂くか。あなたが恐れているのは呪いなんかじゃない――私たちを失うことなの」


 バルグの体が微かに揺れる。リリアの声が、彼の中に残る理性に最後の火種を灯したように感じられた。


「クイーン・セリオナも言っていたの。『愛を忘れた者に未来はない』と。だから、私たちはあなたにこの未来を手渡したいのよ」


 リリアの言葉は涙で滲んでいたが、その響きは静かにバルグの心を打ち、深く刻まれた呪いに微かな亀裂を生み始めていた。

 そして、その瞬間――アウグストの歌声が一段と強くなり、光がバルグの体全体に広がった。まるで心そのものが浄化されていくように、音が彼の血管を流れ、呪いの痣がわずかに薄れていった。

 リリアの手がバルグの傷ついた腕にそっと触れた。熱く荒れていた彼の肌は、アウグストの歌声と共に流れる光の蔓によって冷たさを取り戻しつつあった。だが、その瞳にわずかに残る赤い輝きは、まだ苦しみの残滓を映している。


「バルグ……もう大丈夫よ」


 彼女の声が震えながらも、しっかりと彼に届いていた。その手がわずかに動き、彼の手のひらに触れた瞬間、バルグはかすかに目を細めた。


「俺は……俺は、ロドリックを……仲間を……守れなかった……!」


 低く押し殺すような声が漏れる。彼の目の奥に浮かぶのは、忘れられない仲間たちの影――草原で無邪気に笑うロドリック、そして呪いに蝕まれ命を落とした者たち。その重みが、今なお彼の胸を締めつけている。

 リリアは涙をこらえきれず、彼の手を強く握った。


「それでも、今ここに私たちがいるじゃない。バルグ、あなたは……まだ仲間を失っていない」


 その言葉は静かに彼の胸を突き、心の奥深くに残っていた最後の闇に光を差し込んだ。

 バルグの体が震えた。内なる闇と光のせめぎ合いが彼の中で極限に達し、やがてその赤い瞳がかすかに揺らぐ。まるで霧が晴れるように、瞳の奥に温かな光が差し込み、彼は初めて長い夢から覚めたように感じた。足元の蔓が優しくその巨体を包み込み、光が傷をふさいでいく。呼吸が徐々に落ち着き、彼の重い腕がその場に力なく落ちた。


「愛を忘れるな――」


 その言葉が彼の耳の奥で静かに反響する。クイーン・セリオナの言葉。過去に失ったものではなく、今ここにある絆を見つめるべきだと囁く声だった。

 リリアが泣きながら彼の顔を見つめる中、バルグの瞳から赤い輝きが完全に消えた。彼はわずかに微笑み、目を閉じる。


「リリア……俺は……戻れた……」


 その言葉と共に、バルグの体は地面に静かに倒れた。全身の力が抜け、荒れていた呼吸も安らぎに変わっていく。

 クラリスが駆け寄り、彼の脇に膝をつく。震える手でその肩を支え、温かい体温を感じながら彼の顔を見つめる。リリアも隣に膝をつき、涙を流しながら彼の手を握り続けた。


「大丈夫……眠っているだけよ」


 クラリスがリリアにそう囁き、彼女の手をそっと包み込む。

 アウグストの歌声が静かに消えた。その瞬間、周囲の光の蔓や花々がふわりと舞い上がり、夜空へと溶け込んでいく。まるですべての命が一つに戻るかのように、静寂が再び世界を包み込んだ。

 ガレンがかすかに目を開け、クラリスの膝の上で息を整えた。黒衣(こくい)の剣士たちもまたわずかに身じろぎし、意識がゆっくりと戻りつつある。

 アルヴィンがリュートを抱えたままその場に座り込み、(ひたい)に浮かんだ汗を袖で拭う。ふと、アウグストが微笑みを浮かべ、彼に向かって短く頷いた。


「ありがとう……」


 アルヴィンがつぶやいた声は、誰にも聞かれなかったが、それで十分だった。

 夜空の星がゆっくりと(またた)く。崩れた店の瓦礫の間からも、かすかな光が漏れ出し、静かに息づいている。

 その時、町の住人が一人、アウグストの前へと進み出た。


「アウグスト様……本当にあなたなのですね?」


 その声には恐る恐るという響きがありながらも、希望が滲んでいた。アウグストは優しく微笑み、静かに頷いた。


「ええ、私はここにいます。そして、あなたたちは守られています」


 その言葉に、住人たちは次々と涙を流しながらアウグストに感謝の言葉を述べた。町の中には、戦いの爪痕が残っていたが、それでも人々の心には光が差し込んでいた。


「傷は癒える。だが、心を癒すのは信じる者たちの絆だ」


 アウグストがバルグに届くように低く語りかけた。その言葉は、リリアの訴えと共にバルグの胸に深く刻まれ、最後の呪縛を断ち切った。


 夜はゆっくりと明け始める――

 バルグの寝息が静かに響く中、リリアは彼の手を握りしめたまま、そっとその肩に寄り添った。


「これで、少しは……安らげる?」


 リリアの涙が彼の頬に静かに落ち、冷たい夜露に溶けた。それは痛みと悲しみを含んだものだったが、その奥には確かに新たな絆の種火が宿っていた。夜明けが訪れると共に、その光はやがて大きな希望へと育つだろう。


 — 第六章終 —

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