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陽光がまだ霧の彼方に隠れている早朝、街道に薄い霞が立ち込めていた。湿った大地の匂いが漂い、道の両側には秋の初めを告げる葉がかすかに揺れている。その静けさの中、風が霧をわずかに動かし、人々の間をすり抜けていく。別れの時が迫っていることを知らせるように。
ラドクリフは馬にまたがり、街道の中央へとゆっくり進み出る。彼の背後には千名ほどの人々が佇んでいた。村人たちは大きな荷物を背負い、手を引かれた子どもたちが不安そうに辺りを見回している。負傷した帝国兵は馬や荷馬車に寄りかかり、その顔には疲労の色が濃く刻まれていた。それでも誰も声を上げず、静けさの中に漂う重みが、ただ未来への不安を語っている。
一方で、アウグストの部隊は街道の端に集まり、馬の手綱を引く騎兵たちが静かに待機していた。神聖国の旗が掲げられ、その白銀の紋章が朝の薄明かりを受けて淡く輝いている。その光はまるで霧の中に希望の道筋を描くように揺れ動き、一瞬だけ目にした者の胸に安堵を与えるようだった。
ラドクリフはその旗に一瞥をくれ、深い息を吐く。そして馬上から人々を見渡した。彼の背筋はまっすぐに伸び、その姿に多くの村人と兵士が目を向ける。だがその視線には、期待と疑念が交じり合っている。
ルイーズは馬車から降り立ち、静かにラドクリフの方を見つめた。彼女の隣にはクラリスが控え、わずかに不安げな表情を浮かべながら後ろに立っている。アルヴィンはリュートを抱えながらも、二人の会話に耳を傾けている。
「ここでお別れですね」
ルイーズの声は低く静かだったが、その響きには別れの重みと敬意が込められていた。ラドクリフは一瞬視線を伏せたが、すぐに彼女の方を見つめ返した。その目には迷いと覚悟が交差している。
「ええ。ここから先は、それぞれが自分の務めを果たすしかない」
短い言葉に、彼の胸に秘めた決意の強さがにじみ出ていた。彼は鋼のように冷静な声で続けた。
「私はこの人々を帝都まで導く。生き延びさせるために」
その言葉に、クラリスが唇を引き結び、アルヴィンはリュートの弦を軽く撫でた。微かな音色が空気を震わせ、一瞬だけ場の重みを和らげた。
アウグストが騎馬から降り、ラドクリフの隣に立った。彼の姿勢は堂々としていたが、その顔には疲労の陰が浮かんでいる。それでも、その声には変わらぬ威厳が宿っていた。
「我々はセントリスに向かい、アンデッドの脅威と現状を伝える。軍議を招集し、速やかに対応を始める必要がある。だが……」
彼は一瞬言葉を切り、ラドクリフに向けて真っ直ぐに視線を向けた。
「君の献身的な行動には、心から敬意を表する。多くの者にはできないことだ」
ラドクリフは短く頷いた。その表情には感謝と自責が入り混じり、静かな声で答える。
「感謝する。だが、私が行っているのは罪滅ぼしに過ぎない。これまで私が奪ってきたものを少しでも取り戻すためだ」
その言葉に、ルイーズが静かに頷き、視線をアウグストへと移す。その目には、信頼と別れの寂しさが宿っている。
ガレンが荷馬車から降り立ち、ゆっくりとラドクリフの方へ歩み寄った。彼の目には深い感銘と迷いが浮かんでおり、言葉を選ぶようにして口を開いた。
「ラドクリフ様……私も、あなたと共に行きたい。この人々を守るために、あなたの隣で戦いたい」
その申し出に、ラドクリフはわずかに微笑む。だが、その表情にはどこか哀しみが漂っていた。
「ガレン・リュミエール……君の志は尊い。だが、今の君の務めはここではない」
彼は一呼吸置き、優しくも毅然とした声で続けた。
「アウグストと共にセントリスに戻り、この状況を正確に伝えてほしい。それが、今の君にしかできないことだ」
ガレンは目を伏せ、拳を固く握りしめた。だが、やがて深く息を吐き、決意を込めて頷いた。
「……わかりました。必ず、合流します」
その言葉を聞き、バルグも静かに一歩前に出た。彼は短く告げる。
「ラドクリフ、あんたのやり方には文句を言わねえ。だが俺も、ガレンと一緒だ。ここで会った縁だ。必ずまた会うさ」
ラドクリフは彼ら二人を見つめ、一瞬の静寂の後、短く頷いた。そして、深く力強い声で言った。
「頼む」
朝陽が霧の中から顔を出し始め、街道を淡く赤く染めていく。アウグストが旗を掲げた従者に合図を送り、一行が静かにセントリスの方向へと動き出した。馬車の車輪が砂利を踏む音が、道に静かに響く。
その光景を見送るラドクリフは、背後に広がる村人たちと帝国兵たちを振り返った。彼の目には、彼らの不安と希望、そして彼自身の責務が映り込んでいた。ラドクリフは深く息を吸い込み、力強い声で叫んだ。
「進むぞ。道は険しいが、生き延びる道は必ずある!」
その言葉に、千人を超える行列がゆっくりと動き始めた。彼らの影は朝焼けの光に溶け込みながら、静かに未来へと歩みを進めていく――。
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霧が薄れ、朝の陽光が街道を優しく照らし始めた頃、ラドクリフは帝国兵と難民たちの長い行列の中を歩んでいた。大地の湿り気を感じさせる匂いが微かに漂い、耳に届くのは、荷馬車の車輪が石を踏むかすかな音と、人々の重い足音だけだった。その音の中には、不安、緊張、そしてごくわずかな希望が入り混じっていた。
彼の視線は、一度遠ざかりつつあるアウグストの旗を追っていた。セントリスの白銀の紋章が描かれた旗は朝の光を浴び、風に揺れながらゆっくりと消えていった。その旗が完全に見えなくなった瞬間、ラドクリフの胸には複雑な感情が渦巻いた。希望、責任、そして言い知れぬ孤独感が交差する中、列の後方から低く怒りを含んだ声が響いた。
「聖騎士様、正気でおっしゃっているのですか?」
その声の主は、ラドクリフの部下の中でも地位の高い兵士の一人だった。彼は険しい表情を浮かべながら前に出てきて、苛立ちを隠さずに声を荒げた。
「難民と行動を共にする?我々は帝国の兵士です!軍人としての誇りを捨ててまで、なぜ民草と同じ道を選ばねばならないのですか!」
その言葉に、行列の中の兵士たちがざわつき始めた。一部は視線をそらし、口を閉ざしたまま俯く者もいれば、ラドクリフを非難する視線を向ける者もいた。その不満の波が静かに広がっていく中、ラドクリフは馬を止め、静かに地面に足をつけた。そして、彼ら全員を見渡すようにして口を開いた。
「確かに、我々は帝国の兵士だ」
その声は低く、しかしどこか鋭さを持って響いた。
「だが、今この時、我々が守るべきものは何だ?帝国の旗か?軍規か?それとも、目の前にいる、この怯えた人々か?」
その言葉に、一瞬だけ静寂が訪れた。だが、すぐに再び不満の声が湧き上がる。
「我々は命令を受けてこの地に来たのです。そしてあなたはその命令を無視し、勝手に行動している!これは軍規違反です。聖騎士様、私たちはあなたの私情に付き合うつもりはありません!」
その強い言葉に、一部の兵士たちが列を離れ始めた。彼らは互いに目配せを交わしながら、荷物をまとめ、静かに行列を離れていく。その数は少なくなかった。
ラドクリフはその背中を静かに見送った。その目には、彼がかつて行った圧政や弾圧の記憶がよみがえり、その責任が重くのしかかっているようだった。
「……行かせてやれ」
彼は低く呟き、視線を前に戻した。残った兵士たちの中には困惑した表情を浮かべる者もいれば、彼を信じる決意を固めたように頷く者もいた。その場の沈黙を破るように、ラドクリフは深く息を吸い込み、力強い声で言った。
「私に従ってくれる者たちへ、感謝する。私はこれからも、お前たちと共に、この人々を導き続ける。それがどんなに険しい道であろうと、必ず安全な場所へと送り届けることを誓う」
その言葉に、一瞬の静けさが広がった後、残った兵士たちは一斉に頷き、それぞれの荷物を背負い直した。その目には、不安を超えた微かな光が宿り始めていた。
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その頃、アウグストの隊列がセントリスへの道を進んでいた。リリアが操る大きな馬車の中で、ルイーズは静かに座り、手元の地図を見つめている。その隣ではクラリスが心配げな表情で窓の外を見つめており、アルヴィンはリュートの弦を静かに奏でながら呟いた。
「……ラドクリフ様、大丈夫でしょうか?」
クラリスの不安げな声に、ルイーズはゆっくりと地図から顔を上げた。その表情は穏やかだが、どこか考え込むような色を浮かべている。
「彼には彼の道があるわ。彼は、自分の過去を背負いながら、それでも人々を導くという覚悟を決めた。私たちは私たちの務めを果たすしかない」
アルヴィンはリュートを弾き続けながら、微かに笑みを浮かべて言った。
「どんな選択をしても、それは誰かの心に残るさ。それが喜びであれ、苦しみであれ……それが、生きるってことなんだろう」
馬車の揺れが静寂を埋めるように続き、木漏れ日の光がその道を優しく照らしていた。彼らの旅路は、希望と重責の狭間で静かに続いていく――。
— 第五章終 —