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薄青い光が玉座の間に漂い続ける中、一行はスケルトンの侍女の静かな合図を受け、霧の深い墓所を後にした。夜明け前の薄暗い空が玉座の間の窓からかすかに見えていたが、その冷たい光は、まるでこの場にいる全員をさらに孤立させるような重さを持っていた。
アルヴィンがリュートを抱え直しながら、半ば冗談めかして小さく呟いた。
「さて、死者に導かれる旅路なんて、詩人の語り草には持ってこいだな」
その声には軽妙さを装った響きがあったが、耳を澄ませば、その微かな震えが彼の内心の動揺を隠しきれないことを示していた。
侍女は無言のまま、静かに歩を進める。その動きは滑らかで、まるでこの墓所そのものが彼女の記憶の一部であるかのようだった。一行はその後に続き、足音を最小限に抑えながら冷たい石畳を進む。周囲には立ち込める霧が一層濃く、彼らの視界を曇らせ、ただ侍女のかすかな影だけが進むべき道を示している。
墓所の中庭に差し掛かって、ガレンが足を止め、一瞬だけ背後を振り返った。彼の眉間には深い皺が刻まれ、かつて失われた王国の記憶と目の前の現実の間で揺れる感情がにじみ出ていた。
「……あの存在が何を望んでいるのか、俺たちにはまだわからない」
彼の低い声に、ルイーズが短く答える。
「わからないからこそ、ここを出るのよ。そして、後悔する前に距離を置くべきね」
夜明けの淡い光が霧をかすかに照らし始めて、一行は墓所の大きな門に到達した。侍女が骨ばった手で閂を外すと、錆びた金属が軋む音を立てながらゆっくりと開いた。外気が冷たく彼らを包み込み、同時に湿った土の匂いが鼻をついた。
墓所の外は、深い森に囲まれていた。日の出はとうに過ぎたが、木々がその光を遮り、周囲はまだ薄暗かった。森の中を進む彼らの足元には、湿気を含んだ枯葉が敷き詰められている。侍女は時折立ち止まり、霧の中で微かに動く影――近づきつつあるアンデッドを鋭い眼差しで見据えた。彼女の指先がかすかに光を放つと、不気味な影たちは後退し、静かに森の奥へと消えていく。彼女が放つ見えざる威圧感が、墓所の外でもなお彼らを守っているのだった。
ルイーズがその様子を観察しながら低く呟いた。
「霧の中に潜む死者さえも、この侍女には近づけないようね。すごいわ」
アルヴィンが少しだけ笑みを浮かべて応じた。
「そうだな。その力が消えた時はどうなるのか――考えたくはないが」
道中、昼が近づくにつれて霧は徐々に薄れていき、森の木々の間から太陽が顔を覗かせ始めた。彼らが馬車を留めていた場所にたどり着く頃には、太陽はすでに高く昇り、昼過ぎの柔らかな光が馬車と馬たちを照らしていた。
リリアが先頭を歩き、馬たちに近づく。彼女の姿が視界に入ると、馬たちは緊張した様子で耳を立て、前足を軽く動かして反応を示した。しかし、リリアが優しく声をかけると、その大きな瞳が次第に落ち着きを取り戻し、鼻先を彼女の方へ向けてきた。リリアは馬のたてがみを優しく撫でながら低く囁く。
「ただいま」
その手の感触に、馬は安心したように鼻を鳴らし、リリアの手元に顔を擦り寄せた。彼女はその温もりを感じ取り、微かに笑みを浮かべた。
「お前たちもよく待っていてくれたわね」
アルヴィンがその様子を横目で見ながら軽口を叩く。
「リリア、お前の声には不思議な魔法でもかかっているのか?この子たちがこんなに安心するなんて」
リリアは顔をわずかに赤らめながらも、そっと微笑んで答えた。
「馬は敏感だから、優しくすれば応えてくれるだけよ」
彼女の言葉に、仲間たちは少しだけ緊張を緩めた様子で馬車へと近づいた。
スケルトンの侍女は静かに立ち止まり、一行を見つめた後、かすかに頷くように頭を下げた。そして、その姿は霧とともに溶け込むように消えた。その場に残されたのは、冷たい静寂と墓所の重々しい気配だけだった。その後ろ姿が完全に見えなくなるまで、誰一人として言葉を発しなかった。
一行は馬車の周囲で仮装を落とし始めた。破れた布や異臭のする薬草の残りを取り払いながら、それぞれが墓所での体験の余韻を感じ取っているようだった。リリアは無言で身につけていた布を外しながら、馬のたてがみを撫で続けていた。その表情には複雑な思いが滲んでいた。
バルグは肩に担いでいた斧を馬車に立てかけると、重いため息をついた。表情にはクイーンの言葉の残響が重くのしかかっているようだった。
その時、ふとアルヴィンが顔を上げた。鼻をひくつかせながら、眉をひそめる。
「……これは……?」
誰もが気づくのに時間はかからなかった。微かに焦げた匂い――肉が焼けるような、死が漂わせる匂いだ。そして、南方を見上げた瞬間、全員がその理由を理解した。
黒煙が空に立ち上っていた。地平線を覆い尽くすような勢いで、煙は空を黒く染めている。ルイーズが杖を強く握りしめ、冷静な口調で言った。
「村に戻るわよ。急いで」
ガレンが頷き、一行はすぐに準備を整えた。荷物を詰め直し、手綱を引き、馬を走らせる準備を進める。
「行こう、みんなを待たせるわけにはいかない」
彼女のその一言に促されるように、一行は馬車に乗り込むと再び旅路に向かった。不安に満ちた黒煙の方向へ――風が焦げた匂いを運びながら。
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地平線を覆い尽くすような勢いで、煙は空を黒く染め、冷たい風に乗って焦げた匂いが漂ってきた。一行の乗る馬車は、灰風の村へ続く道を急いでいた。
リリアが手綱を握る馬車は一行の先頭に位置していた。四頭立ての馬が、リリアの合図に応じて力強く道を駆けている。だが、馬たちの耳が微かに後ろへ伏せ、鼻先を振りながら不安を訴えているのを感じ取り、彼女は冷静を装いながらも胸の内で焦りを募らせていた。
「何事もなければいいけど」
リリアは自分に言い聞かせるように呟いた。馬たちを励ますための言葉も飲み込み、ただ静かに前方を見据える。
後方では、バルグが小型の荷馬車を駆り、力強い手綱捌きで馬を操っていた。その背中には弓が収められ、斧の柄がわずかに光を反射している。小型の荷馬車のもう一台には、ガレンが座っていた。険しい表情で前を睨むようにしながら、バルグの隣を並走していた。どちらも言葉少なに道を急ぎ、その沈黙が状況の不穏さを物語っている。
リリアの隣では、ルイーズが杖を膝に置き、視線を前方の煙に固定したまま口を開いた。
「ただ事じゃないわ。村よりもっと南で何かが起きている」
彼女の冷静な声には確信があり、アルヴィンとクラリスも押し黙ったまま耳を傾けていた。クラリスは荷馬車の縁にしがみつきながら、顔色を失い、焦げた匂いが気になるのか何度も鼻を擦った。アルヴィンはリュートを抱えたまま、震える指で弦を撫でていたが、一言も発さなかった。
ガレンの荷馬車が並走する形で追いつくと、彼はリリアに向かって低く声を飛ばした。
「何か……いるぞ。気を抜くな」
その瞬間、道端に倒れ込む人影が目に入った。鎧をまとった兵士が泥の中で横たわり、呼吸をするように動く肩がわずかに震えている。道の先にはさらに数人の兵士が見えた。彼らの多くは立つのがやっとの様子で、鎧や武器には黒い汚れと血がこびりついている。ときおり振り返りながら走る者もおり、その目には恐怖が浮かんでいた。
「帝国兵か……どうやら戦場からの敗残兵のようだな」
ガレンが険しい表情で呟いた。彼の目が鋭くなる。
「待って!」
リリアが小さく叫んだ。その声に反応して、馬たちが歩みを緩める。一行は馬車を止め、道端に倒れた兵士のそばに近づいた。バルグが荷馬車から降り、慌ただしく駆け寄る。兵士の肩を軽く揺さぶると、その男はかすれた声で短く言葉を発した。
「……逃げろ……南の……戦場が……」
「戦場?」
ガレンがその言葉に反応するが、兵士はそのまま意識を失った。バルグが荒い呼吸を整えながら顔を上げた。
「村に急ごう」
その言葉を最後に、一行は再び馬車に乗り込む。しかし、数百メートルも進まないうちに、彼らの前方で別の光景が目に入った。二人の帝国兵がアンデッドと対峙している。片方の兵士は槍を構え、もう片方は剣を振り回しているが、どちらも足元がふらつき、明らかに限界が近い様子だった。
「先に行け」
バルグが短く命じるように言い放ち、弓を手に取った。ガレンが荷馬車を止め、バルグに向かって怒鳴った。
「何をする気だ!?」
「あのアンデッドが村まで来るのを防ぐ」
バルグは弓を引き絞り、矢を一閃させた。矢がアンデッドの頭部を正確に貫き、敵はその場に崩れ落ちた。
「ここで留まる気か?」
ガレンが苛立ち混じりに問いかけるが、バルグは振り返らずに次の矢をつがえた。
「言っただろ、先に行け」
それだけを言い残し、バルグは単騎でその場に留まった。彼の背中を見つめながら、ガレンは悔しそうに歯を食いしばり、リリアに向かって声をかけた。
「急げ。俺たちは村まで行って状況を確認する!」
一行の馬車が走り去る中、バルグは弓を構えたまま、戦場から逃げ惑う兵士たちを援護するために矢を放ち続けた。彼の弓の音だけが、沈黙の道に響き渡る。南方の黒煙は、なおも空を焦がし続けている――。
灰風の村は、どこか荒んだ緊張感を漂わせていた。村の周囲には敗走した帝国兵たちがちらほらと集まっており、泥にまみれた姿で地面に腰を下ろしている者や、傷ついた体を引きずりながら物陰でうずくまる者の姿が目に入る。中には、村人に物乞いをする者もいたが、村人たちは警戒心を露わにして距離を保ち、冷たい視線を向けていた。
村の広場には、集められた帝国兵の中心部隊らしき集団が簡易テントを設営しており、彼らの旗が泥と血に汚れている。兵士たちは、疲弊した様子で武器を手にしながらも、その視線は険しく、緊張感を漂わせている。一方で、村人たちも鍬や槍を手にして武装し、帝国兵が蛮行を行わないよう、広場の周囲に目を光らせていた。
一行が村の入口までたどり着くと、村長が急ぎ足で駆け寄ってきた。髪は乱れ、額には汗が滲んでいる。彼の目は疲れと不安で曇っていたが、一行の顔を見るなり、安堵の表情を浮かべた。
「あんたたち、生きて戻ったのか!」
村長の声には、心底からの安堵が滲んでいた。
リリアが手綱を握り、馬車を静かに止めた。彼女の後ろに乗っていたルイーズが立ち上がり、落ち着いた声で返す。
「なんとかね。私たちが出発した後に……何が起きたの?」
村長は眉間に皺を寄せ、声を落とした。
「帝国兵だ。負けたんだよ、南の戦場で。こいつら、逃げてきたんだ」
その言葉に、リリアが目を見開いた。
「負けた……?それで、ここに?」
村長は疲れた顔で頷いた。
「そうだ。命からがらここまで逃げ延びてきたらしいが、始末が悪い。食料や水を求めて村人を脅す奴もいるし、気の荒い兵士たちが村娘にちょっかいを出そうとしたこともあった。あいつら、何をしでかすかわからん……」
その言葉に、ガレンの眉が深く寄った。
「それで村人たちが武器を持っているのか」
村長は力なく肩をすくめた。
「こっちだって必死だ。村の子供たちや女たちを守らなきゃならないからな。それに、やつらの将軍だとかいう男がテントでふんぞり返ってるが、兵士たちを全然まとめられちゃいない」
その時、広場の中央で小さな騒ぎが起こり、村長が慌てて目を向けた。帝国兵の一人が、村人の持つ袋を引ったくろうとして揉み合いになっている。袋から飛び出した穀物が地面に散らばり、村人が怒りの声を上げる。周囲にいた村人たちが武器を手に集まり始め、緊張が一気に高まった。
「くそっ、またか!」
村長が焦りの声を上げたその時、一行の馬車の元に騎馬の一団が近づいてきた。帝国兵の護衛を引き連れた騎士たちの先頭に立つのは、威厳を漂わせる一人の男だった。その鋭い目つきと筋骨隆々とした体格は、彼が只者でないことを物語っている。男は馬上から一行に視線を送り、鋭い声で命じた。
「馬車の者たち、名を名乗れ!」
その声に、リリアは手綱を握り直し、冷静な声で返した。
「私は神聖国セントリスの騎士見習い、リリア・アーディン。この馬車には、セントリスの宮廷魔術師ルイーズ・フォン・アークレインとその同行者たちが乗っています」
男の目が一瞬だけ鋭さを緩めた。その後ろから、旗を掲げた別の騎馬が進み出る。白地に金糸で刺繍された神聖国セントリスの紋章が風に揺れ、夕日を受けて輝いていた。その旗を掲げる従者は、神聖国の伝統的な装束を纏い、周囲に厳かな印象を与えている。
ルイーズの目がその旗を捉えた瞬間、驚きに声を漏らした。
「アウグスト様……!」
彼女の声に反応するように、アウグストの姿が旗の後ろから現れる。その端正な顔立ちと冷静な眼差しは、彼がただの指揮官ではなく、神聖術の使い手であることを物語っていた。彼の周囲には、もう二人の従者が騎馬にまたがり、旗を持つ騎士と共に護衛の陣を形成している。全員が同じく神聖国の装束を身に纏い、その整然とした動きは、彼らが訓練を積んだ精鋭であることを示していた。
従者の一人が目を細め、ルイーズの方に軽く頭を下げて挨拶を送る。彼女を知る者たちの中でも、特に尊敬を抱いているのが窺えた。アウグストも馬を進めながら口元にわずかな笑みを浮かべ、一行に声をかける。
「ルイーズ……それに、クラリスとリリアか。君たちがここにいるとは驚いた。すぐに状況を説明する時間を作ろう」
その威厳に満ちた声は村の緊張した空気を切り裂き、一瞬の静寂をもたらした。従者たちは彼の側に控え、周囲を警戒しつつ、一行とのやり取りを静かに見守っていた。
アウグストの後ろでは、先ほどの威厳ある男が一行をじっと見据えていた。彼の背後に控える帝国兵たちは、まだ緊張した面持ちのまま武器を握りしめている。その中には、再び争いを起こしそうな気配を見せる者たちもいた。
沈みゆく夕日の柔らかな光が、村の広場を不気味に染めていた。黒煙は風に流されながら空へと舞い上がり、その影が村の外れにまで迫り、徐々に夜の帳が下りていく。煙の輪郭が赤い空を切り裂くように伸び、戦場の悲劇が未だ終わらないことを物語っているようだった。
リリアがアウグストに小さく頷き、一行は帝国のテントへ向かう準備を進めた。その背後では、村の武装した人々が、なおも帝国兵を監視し続けている。夕闇が徐々に広がる中、焦燥感と不安が村全体を包み込む。不穏な空気が張り詰める中、一行は村の広場へと向かった――。