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星霧の森――そこは、『銀樹の聖域』と呼ばれ、古の民が住むと語り継がれる神秘の地。
俺がここに足を踏み入れたのは、単なる噂を鵜呑みにした結果ってわけじゃない。胸の奥底で「ここにはまだ見ぬ運命が眠っている」という不確かな確信を抱いていたからだ。そう――人生を変えてしまうほどの大きな出来事が、きっと霧の向こうに待っている、と。
しかし、そんな期待を抱いた俺を、現実はあっさり突き放した。
胸を躍らせていた妄想といえば、古の民の娘が俺の歌に惚れ込み、「この詩人と結婚したい!」なんて言い出す夢物語。あるいは逆に俺が彼女に惚れてしまうかも……などと、喜劇じみた幻想を描きながら霧の中を歩く俺の姿は、さぞ滑稽に映っただろう。
そして実際、森が出してきた歓迎はあまりに冷ややかだった。
幾重にも折れ重なった倒木の残骸、視界を奪うほど濃い白い霧、どこかに潜む小動物の足音。さらに、腹を空かせた野生の鹿が、こっちを睨んだだけで逃げていく姿。
「これが星霧の森の挨拶かよ……」
そう嘆いても、森は沈黙を保つばかりだ。ただ揺れる霧だけが、俺に『甘い幻想はさっさと捨てろ』と囁きかけているように思える。
そうは言っても、詩人の俺に引き返すという選択肢はなかった。止まってしまえば、もはや生きている意味などないような気がする。
理想と現実のギャップに打ちのめされながらも、俺は前へ進むしかない。寒さと飢えが体を蝕み、笑う気力さえ奪われそうになる夜が続いた。唯一残ったのは、ボロボロのリュート。これだけはどうしても手放せなかった。
『こんな状況で古の民に出会えたら、本当に奇跡だな……』
そんな自虐混じりの独り言さえ、いまや習慣になりつつある。出口が見えない霧の奥で、風が枝を揺らす音だけが淡々と耳に届く。
それでも、森が俺を試しているような感覚は拭えなかった。その試しが、この星霧の森の意思なのか、あるいは本当にエルフたちの仕掛けなのか、はたまた俺自身の思い込みなのかは分からない。
『進まなきゃ……ここで終わるわけにはいかない』
そう自分に言い聞かせ、何度目かの夜を迎えたころ――霧が深まる中、妙な旋律が耳の奥をかすめたんだ。風の音とも違う、動物の鳴き声でもない、ただの幻聴とも思えない不思議な囁き。確かに、胸の奥に響くような音だった。
最初は疑ったよ。空腹と疲労で頭がおかしくなっただけだろう、と。けれど、その囁きは風に混じって再び耳をくすぐる。むしろ、そこに生きた存在の気配を感じるくらいにははっきりとした音色で。
冷えた指先が反射的にリュートの弦を掻き鳴らすと、その音が途切れる隙間を縫うように、もう一度囁きが返ってきた。音程が微かに上がって、俺の心を誘うみたいに。
「……なんだ? 誰かいるのか……?」
呼びかけたところで、森が答えるわけはない。けれど、それまで沈黙を保っていた霧が、急に俺の近くまで揺れてきた気がした。まるで遠くから『こっちへ来い』と手招きしているようにも思える。
飢えと寒さで倒れそうになりながらも、俺はその音色を追うように歩を進めた。もしこれが本物の声なら、何かに出会えるかもしれない。ずっと空っぽだと思っていた森に、本当に何かがあるなら、それは詩人として大いなる救いじゃないか――そんなわずかな希望にすがったのだ。
そして、かすかな旋律がまた耳元をかすめる。その音はまるで幼子の囁きのように優しく、俺を導いてくれるかのようだった。薄暗い森の奥を掻き分け、冷たい霧を吸い込むうち、少しずつ意識が冴えてきた。空腹で腹が鳴ろうが、指先が悴もうが、なぜか心が少し温かい。
『もし幻だとしても、詩に変えてみせるさ』
呟いた瞬間、囁きがまた音程を上げて、俺の胸の鼓動に寄り添うように重なった。星霧の森そのものが、俺を受け入れたとでも言いたげに。
そんなふうに森を抜けた俺は、道沿いの野営地で一息つく。焚き火の炎が小さく踊り、冷えた体にじんわりした温もりを取り戻していった。
炎を見つめながら、俺は無意識にリュートを弾き始める。先ほどの囁きが頭から離れない。夜空に吸い込まれる旋律の狭間で、あの囁きがささやかに合いの手を入れているかのように、微妙にリズムを変えて響き続けているんだ。
「なあ、俺に何を求めてるんだ?」
ぽつりと漏らしてみるが、やはり返事はない。耳の奥を揺らす音が肯定とも否定とも取れず、かすかに共鳴しただけだ。
「星霧の森がこんなに過酷だなんて、もっと早く知っていたら……少しは準備もできたのにな」
自嘲気味に笑いながら、小枝をくべる。火の粉が宙で舞い、消えていった。
「それでもさ……古の民に会えるかもしれないって期待してたんだ。俺の歌が届いて、『なんて美しい旋律だ』なんて絶賛される――その妄想だけで腹を満たしてたようなもんだよ」
リュートの弦を軽く弾く。夜空に溶けゆく音に合わせるように、囁きがまた小さく揺らめいた気がする。
本当にただの幻かもしれない。けれど、この音が俺の旅を少しずつ形作り始めていることは確かだ。そう思うと、先の見えない不安が少しだけ和らぐから不思議だ。
「まあ、どっちでもいいさ。歌が途切れない限り、俺も歩き続ける。それが詩人の生きる道ってやつだからな」
そう言い聞かせるように呟いたとき、焚き火の向こうから足音が聞こえた。夜の闇を裂くように二つの影が揺れ、俺の弦の音が沈黙に飲み込まれていく。現れたのは、一人は背の高い筋肉質な男――毛皮を纏い、大きな斧を肩に担いでいる。もう一人は鎧を身につけ、落ち着いた足取りで火のそばへと歩を進める。
鎧男の瞳には、何かを失った者が宿す深い陰りがあるように見えた。
「おい、こんなところで一人で歌ってるのか?」
毛皮の男が声を上げる。口元には気さくな笑みが浮かんでいて、俺とあまり変わらない歳のようだ。
「まあな。歌でも歌わなきゃ、腹が減りすぎて頭がどうにかなりそうでね」
肩をすくめて答えると、毛皮の男が冗談半分にからかい声をあげた。
「そりゃあ、俺たちがちょうどいい相手かもな。古の民に会えないなら、俺たちで我慢しろってこった」
もう一人の鎧の男も、わずかに口元を緩めている。俺はリュートをそっと脇に置きながら、彼らを見上げた。
「エルフの娘に惚れられる代わりに、腹を空かせた野生の鹿に睨まれた結果になったよ。あんたらが相手になってくれるなら、そりゃ助かるかもな」
そう言うと、毛皮の男――バルグと名乗った――は袋の中から干し肉を取り出し、俺の手に押し付けてきた。
「ほら、これでも食え。歌い手が腹を減らしてたら、いい声も出ねえだろ?」
その声には豪快な優しさが滲み、俺は少し面食らいながらも素直に礼を言う。
もう一人の男はガレン。彼は故郷を滅ぼされ、アンデッドの軍勢に対抗すべく旅をしているらしい。そう語るときの彼の瞳には、言葉にしがたい重さが宿っていた。
「……で、お前は何者だ?」
ガレンが静かに問いかける。その声は低く、俺を見極めようとするかのようだ。
「俺か? ただの詩人だよ。アルヴィンだ。星霧の森に夢を見て、挫折して、それでもまだ歌を諦めちゃいない――まあ、そんなところだ」
俺が肩をすくめると、バルグはリュートを指しながら笑った。
「ただの詩人にしちゃ、ちょっと不思議な音色を出してるぜ? まるで霧が寄り添ってるみたいな響きだ。星霧の森を抜けたくらいだし、それだけでも並の詩人じゃないだろうな」
リュートの弦と、耳の奥の囁きが微妙な調和を生んでいる――彼の言葉に俺は一瞬言葉を失った。けれど、それが今の自分を表していることは否定できない。
ガレンが夜空を見上げながら言葉を続ける。
「星霧の森を越えた者は、何かを手にすると言われている……どんな形であれ、お前にはその資格があるはずだ。俺たちはこれからどうするつもりだ?」
バルグとガレンが、焚き火のそばで視線を交わす。彼らもまた行き場のない旅人であり、妙に気が合いそうな予感がした。
「そうだな……」
リュートを軽く弾きながら考える。もし彼らと共に行くなら、歌う題材には困らないかもしれない。
「じゃあ、英雄を探す旅はどうだ? 俺は彼らの物語を歌い、世に広めたいんだ。ちょうどエルフの恋愛妄想じゃ飽き足らなくなってるところだしさ」
笑って言うと、ガレンがわずかに遠い目をして呟く。
「英雄か……それなら、この俺が適任かもしれん」
バルグも笑いながら言い返す。
「おいおい、俺も英雄の資格くらいあるだろ?」
そんなふうに軽口を叩き合う声が、夜の森に溶けていく。囁きは相変わらず俺の耳の奥で揺れているが、今はどこか穏やかだ。その音は、彼らと共に行くことを後押ししているかのようだった。
こうして、星霧の森を抜けたばかりの夜、俺たちの奇妙な旅が始まる。霧の残響のような囁きが、再び小さく音程を変えた気がする。
――さて、この先に待つのは光か闇か。どちらにせよ、俺は歌を止めない。