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柔らかな朝の光が、養護施設の白い門扉を優しく照らしていた。その向こうには、整然と手入れされた庭が広がり、小道に咲く花々が朝露をまとって輝いている。風がそっと吹き抜けるたび、遠くから聞こえる子供たちの笑い声が静かな空気を彩っていた。
門の前には、ガレン、バルグ、アルヴィン、そしてクラリスの四人が立っていた。クラリスは彼らに同伴する形でここまでやって来ており、その役目を最後まで全うしようとしていた。その手には、心を込めて用意した小さな薬草の束が握られている。それは別れの寂しさを少しでも和らげたいという彼女なりの思いの象徴だった。
「さあ、みんな。これからはここで新しい生活が始まるのよ」
クラリスが優しく語りかけると、小さな声が震えながら彼女に応えた。
「クラリスさん、ここにはお化けとか出ないよね?」
クラリスは柔らかい笑みを浮かべ、そっと膝をついて子供の目線に合わせた。
「お化けがいても、このお守りで追い払えるわ。だから、心配しなくても大丈夫」
その言葉に子供たちは少し安心したのか、控えめだった笑顔が徐々に明るさを取り戻していく。ガレンはそんな様子を静かに見守りながら、いつになく穏やかな口調で語りかけた。
「しっかり勉強するんだ。そして、いつかまた会うときには、立派になったお前たちを見せてくれ」
その声には、言葉以上の重みが込められており、子供たちは小さく頷きながらもその目には涙が浮かんでいた。バルグはその場の空気をほぐそうと、軽く頬を掻きながら口を開いた。
「泣くんじゃねえぞ。ここはいい場所だ。俺たちが戻るまで、ちゃんと元気にしてろよ」
その力強い声に、最前列の少年が小さな拳をぎゅっと握りしめて答えた。
「約束だ!僕、大きくなってもっと強くなる!」
やがて、施設の玄関先が近づいてきた。その白い扉の前には三人の姿があった。一人はルイーズ――洗練された佇まいと宮廷魔術師としての威厳が、その場に不思議な静寂をもたらしている。そしてもう一人は施設長のシスター・アグネスだった。彼女は七十歳ほどの年配の女性で、その顔には長年の慈愛が刻まれた深い皺があり、清潔な修道服が神聖国の象徴としての存在感を引き立てていた。アグネスの隣には、若いシスターが一人控えていた。彼女は控えめな立ち位置で周囲を見守りつつ、その柔らかな表情に責任感を滲ませている。
一行が近づくと、アグネスが優しい笑みを浮かべて一歩前に進んだ。
「皆様、お越しくださりありがとうございます。私はこの施設を任されております、シスター・アグネスです」
その声に促され、ガレンは静かに頭を下げた。
「私はガレンと申します。この子たちがここで安心して暮らせると聞き、心から嬉しく思っています」
その一言に、ガレンの深い感謝の念が込められており、アグネスは穏やかに頷いた。
「この子たちは戦禍の中で家族を失い、私たちと旅をしてきました。どうか、彼らに未来を与えてやってください」
アグネスは子供たちに優しい眼差しを向けながら、静かに言葉を紡いだ。
「ここでは彼らが安心して学び、成長できるよう、私たちも最善を尽くします。どうぞご安心ください」
その時、アグネスの視線がルイーズに向けられると、彼女の表情にはわずかな驚きが混じった。
「……まさかルイーズ様が、このような形でお力をお貸しくださるとは思いませんでした」
ルイーズはその反応を気にした様子もなく、軽く肩をすくめて微笑んだ。その微笑みは一見冷たく映るが、どこか隠れた温かさも感じられるものだった。
「大したことではないわ。ただ、たまたま協力する機会があっただけ。それに……」
彼女は一瞬だけ視線を空に逸らし、短くため息をついて続けた。
「子供たちの面倒を見るなんて私の性分じゃないけれど、こういうのも悪くない……私もたまにはここに来ていいかしら?」
その軽い調子の問いかけにアグネスは驚きを抑えつつ、柔らかな微笑みを浮かべたが、心の奥底ではその言葉の真意を探るような眼差しを隠せなかった。
「ルイーズ様が研究以外のことで手を差し伸べるとは……少し見直しましたよ」
ルイーズはその視線を正面から受け止め、わずかに唇を持ち上げた。
「噂話ほど当てにならないものはないわ」
そう言い捨てた声は冷たく響いたが、その横顔に一瞬浮かんだ影をアグネスはしっかりと見届けた。
別れの時が近づき、子供たちは新しい生活に期待と不安を抱きながら、名残惜しそうにガレンたちに手を振る。マリアは最後までその小さな体を抱え、別れ際にガレンたちに深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。私も……ここで子供たちが安心して成長できるよう支えたいと思います。このご恩は、いつか必ずお返しします。どうか皆さんも、無事でいてください」
「マリア、しっかりやれよ。あんたがいれば、ここの連中も安心だろうからな」
バルグが短く声をかけ、マリアは涙をこらえながらも、小さく微笑みを浮かべ、深く頷いた。その姿には、小さくとも確かな決意の光が宿っていた。
やがて門が閉じ、彼らはゆっくりと施設を後にする。門の向こうで子供たちの声が風に乗って聞こえてきた。
「さよなら!また来てね!」
ガレンたちは振り返り、次第にその声が遠ざかる中、再び歩き出した。
「これで一区切りだな」
ガレンが呟き、バルグが静かに頷く。アルヴィンはリュートを肩にかけ直しながら、小さく笑った。
「次の試練がすぐに来るだろうよ。まあ、その時はまた詩を作ってやるさ」
彼らの背中を追うように、クラリスが優しい微笑みを浮かべながら歩みを進めた。その背後で、ルイーズが静かに呟いた。
「……未来を渡すだけ。それだけのことよ」
その言葉に、クラリスは振り返り、彼女の横顔を見つめたが、何も言わずに微笑みを浮かべるだけだった。道を歩む彼らの背中を、朝の光がそっと見守っていた。
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しばらくして、ルイーズは一行に向き直り、ふと冷たくも意味深な笑みを浮かべた。
「さてと」
その一言に、ガレン、バルグ、アルヴィンは思わず背筋を伸ばした。ルイーズの瞳は鋭く彼らを見据えながら、平然と続ける。
「これで私に大きな貸しができたわけだけど……返すときは『体で返す』とおっしゃっていたかしら?」
その言葉に、一瞬の沈黙が場を包んだ。アルヴィンが気まずそうにリュートの弦を弾き、バルグは無言で上を向く。
「……確かに言いました」
ガレンが重々しく口を開きながら、心の中で自分の言葉を悔いた。
ルイーズは満足そうに頷くと、少し表情を和らげ、涼しげな声で続けた。
「じゃあ、早速返してもらうわよ。これから彼女のところまで案内してもらわないと」
彼女のもとに向かうということが何を意味するのか、全員が知っていた。
アルヴィンが苦笑混じりに呟くと、ガレンとバルグも静かに頷いた。
「ただし」
アルヴィンは言葉をあげる。
「このような重大な任務です。準備と時期を決める必要があります」
その提案にルイーズは腕を組み、短くため息をついた。少し考え込むように目を閉じた後、目を開けるとあっさりと答えた。
「いいわ。準備と計画を立てましょう」
その言葉を聞いた一行は、ひとまず安心した表情を浮かべた。ルイーズの決断が、彼らにわずかな猶予を与えたのだ。
彼女の指示のもと、一行は騎士たちの宿舎へと足を向けた。
宿舎へ向かう道中、クラリスだけがどこかぎこちない仕草を見せていた。まるで何かを隠しているかのように、彼女の視線は周囲を彷徨い、微妙な距離感を保っている。その様子に気づきながらも、他の誰も口にすることはなかった。
騎士たちの宿舎に到着すると、三台の荷馬車が整然と並び、それぞれが旅の長い道程を想定して細部まで整えられていた。
大きな荷馬車は、どっしりとした木製の車体に、風雨を防ぐための厚手の帆布がかけられ、その中にちらりと見える物資がぎっしりと積まれている。四頭のたくましい馬が繋がれており、力強い蹄で地面を踏みしめながら静かに待機していた。その荷台には女性陣のための区画が設けられ、わらが柔らかに敷かれている。さらに奥には、ルイーズのティーセットや折り畳み式のテーブル、椅子が収められ、旅先でも優雅さを失わぬ彼女らしい配慮が垣間見えた。
小型の荷馬車がその両脇に並んでいる。一台はガレン用、もう一台はバルグ用で、それぞれにしっかりと装備が積まれている。馬車の側面には彼らの武具や荷物が固定され、丈夫な革袋に収められていた。その総重量は軽く百キロを超えるが、二頭の馬がその負荷を問題にする素振りは一切見せない。馬たちはよく訓練され、荒地での長旅を見据えた強靭な体躯を誇っていた。
その馬たちの世話をしていたのは、軽装の騎士たちで、その中に見覚えのある女性の姿があった。女性騎士が手際よく馬具を調整している最中にふと振り返ると、彼女の鋭い眼差しが一同を捉えた。
「リリア……!」
バルグが声を上げると、彼女は小さく微笑んで頷いた。その凛とした姿には、確かな自信と覚悟が感じられた。
ルイーズが大きな荷馬車の前に立ち、一同を見渡した。その顔には、すべての準備が整ったという確信が宿っている。
「これで準備は完了よ」
その一言が告げられると、ガレンとバルグ、アルヴィンは思わず顔を見合わせた。予想を超える迅速さに加え、細部に至るまで完璧に計画された準備に、彼らは出し抜かれたような感覚すら覚えた。
「私たち、今から出発するわよ」
ルイーズの宣言は、彼らが抵抗する余地を与えないほどに明快だった。
アルヴィンが苦笑しながら馬車を見上げ、詩的に呟く。
「出発の日までに詩を考えたかったのだけど……詩にする暇も奪われるほど、風は気まぐれなものだ。クラリスは知っていたな」
その言葉に、クラリスがわずかに口元をほころばせ、アルヴィンに手を伸ばし一番大きな荷馬車に乗りこんだ。
こうして、一行はすべての準備を整え、リリアの凛々しい声と皮の乾いた音が響く。車輪が石畳を軋ませながら動き始めると、兵士たちが敬礼して見送る。朝の光が彼らの旅立ちを優しく見送るように差し込んでいた。
ガレンは御者台に座りながら、しみじみと呟いた。
「まったく、ルイーズの奴、やるじゃないか……ここまで手を回してるとはな」
その言葉に別の荷馬車の手綱を握るバルグが短く笑い声を上げる。
「まあ、やられっぱなしというのも悪くない。どうせならこの旅の途中で一泡吹かせてやろうじゃないか」
そのやり取りを、ルイーズは涼しい顔で荷台の藁に体を沈めながら聞き流していた。その横顔には薄い微笑が浮かび、計画のすべてを掌握している自信が垣間見えた。
「さあ、私たちの旅路が始まるわ。すべて、私の計画通りにね」
こうして彼らは、未知の未来と過酷な試練を迎えるべく、旅立った。旅路の先に待つ希望と困難に思いを馳せながら、その背中を、揺れる花々と黄金の朝日が静かに見送っていた。