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星霧の森。
夜明け前のわずかな時間、霧はまるで命を持つように流動し、銀色の微光を纏いながら木々の間を泳いでいた。草葉が濡れた音を立て、アルヴィンのブーツがそれを静かに踏みしめる。その音が消えたあと、辺りには薄い白の気配だけが残る。
彼はリュートの弦を軽く弾きながら、霧の向こうを凝視した。まるで、そこに隠された何かを確かめようとするように。霧の中に宿る光の揺らぎが、アルヴィンの瞳を鋭く照らしていた。
「人はどうしてこうも知らないということに惹かれるんだろうな?」
自問する彼の声は、霧の奥へと吸い込まれていく。踏み鳴らす足もとに小枝が折れる音が混じり、森が小さく答えを返したような錯覚があった。彼は苦笑しながら、リュートの弦をひと撫でする。
「知らないことは怖い……けど、その怖さの奥に期待が潜んでる。ほら、未知の先に何かが待ってるって思うからこそ、人は足を止められないんだろう? たとえば……この霧の向こうに隠された銀樹の聖域が本当にあるかもしれない。そんな噂話、ただの幻かもしれないのに、期待してしまうんだよな」
揺れる霧と同時に、リュートの弦が再び震え、儚げな音が夜気に溶けていく。アルヴィンは一呼吸置き、風を感じるように目を閉じた。背後の木々がざわりと揺れ、彼に次の言葉を促しているかのようだ。
「けど、もしその何かが、ただの空っぽだったら? 何もない、ただの森だったら? それでも俺たちは進む――いや、進まざるを得ない。詩人にとっちゃ、立ち止まるなんてのは死んだも同然だからな」
そう言って、彼は少し得意げに笑いながら、またリュートの弦を優しく爪弾いた。その音は空気の中でかすかに振動し、再び霧に包まれて消えていく。遠くで小動物が草を踏む音がして、アルヴィンは顔を上げた。だが、何も姿は見えない。ほんの束の間、霧が道を開き、また閉ざす。
「もし、いま俺がここで呟いているのをエルフたちが聞いていたら……どう反応するんだろうな?」
霧の向こうに耳を澄ませるが、返事はない。ただ、どこかから風が吹いて葉がふるりと震える。アルヴィンは言葉の続きを吐き出すように笑い、目を細める。
「『何もない森をわざわざ詩にするなんて滑稽ね』って、きっと笑うだろうさ。でも……それこそが詩の本質じゃないか? 空っぽの中にこそ意味を見つける――それが詩人の仕事なんだから!」
彼はリュートを抱え直し、一瞬背伸びをしてみせた。霧が足首をかすめ、小さく水音を立てる。身体が冷えてきたのか、アルヴィンは肩をすくめて呼気を温めるように息を吐いた。
「古の民か……神々の代弁者みたいに言われるけど、実際に姿を見たやつがいるのかどうか。伝説だろうが何だろうが、こうして星霧の森にいるって話を耳にすると、それだけで胸が躍る……変な話だよな」
アルヴィンは自分の言葉が妙に滑稽に思えたのか、微かに含み笑いを漏らしながら再びリュートの弦を叩いた。そのメロディは、先ほどよりも軽やかに響く。霧の中に溶け込む音は、まるで呼吸するように揺れ、森全体が彼の演奏を聞いているかのようだった。
「でも、俺はこうやって先へ進むさ。何もなくても、空っぽでも……進むしかないよ。詩人の宿命ってやつさ」
すべてを言い終えると、彼は少しだけ満足げに頷く。霧の奥へと視線を送りながら、そのままリュートを抱え、森の奥へと歩を進めた。
どこへ続くか分からない道――怖くても足を止めないのは、そこに何かがあると信じたいからだ。もしそれがただの幻でも、アルヴィンにはそれを|詩《》うた》に変える術がある。彼にとって、それこそが生きる意味なのだから。
「さあ、どうだ森よ。この俺を試してみるがいい。何もないのか、それともすべてがあるのか……どっちでも、詩にはなるからな」
その言葉が静けさに溶け込むと、風がそっと木々を揺らし、まるで答えるかのように霧が少しだけ形を変えた。アルヴィンはその気配に微笑み、静かに歩みを進めた。
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風が囁き、時の流れが止まったような世界。夜の帳が薄れ、星々が朝の光に溶けていく。彼の長い旅の果てに待っていたのは、途切れた道とその先に広がる壮大な雲海だった。
森はそこでぷつりと途切れ、木々の影が消えた瞬間、視界が一気に開けた。アルヴィンは足元を見下ろし、苔むした岩肌が剥き出しになっていることに気づく。その岩々は崖の淵まで続き、そこから先には果てしない雲海が広がっていた。雲は星明かりを受け、白銀に輝きながら静かに蠢いている。その動きは、生き物が呼吸しているかのようで、どこか現実離れした感覚を漂わせていた。
アルヴィンの目は自然とその先を追う。雲海の向こう、遥か遠くに何かがぼんやりと浮かび上がっている。それは星の光と影が織りなす幻想的な輪郭を持ちながら、ひとつの形に定まらず揺らめいていた。暗闇と微光の狭間で、風が遠くにかすむ霧を動かすたびにその姿は変容し、まるで見る者の想像に応じて形を変えているかのようだった。
アルヴィンはさらに目を凝らした。その影は時折、山の稜線の一部のように見えたかと思うと、次には天空に浮かぶ塔のようにそびえ立つ。その光景は、自然が編み上げた奇跡そのものだった。彼は思わず息を呑み、目の前に広がる世界をただ見つめ続けた。
「……なるほど。これが星霧の森の全力というわけか」
彼は感嘆の息を吐き出しながら、霧の動きに目を凝らす。星の光が霧に絡みつき、無数の銀糸が宙に舞うような幻想的な光景を作り出している。
「『知らないことは怖い』……なんて、さっきの俺は偉そうに言ったけどな。この森の『知らない』には敬意を払わざるを得ない。なぜなら――これだけ美しければ、怖くても進むしかないだろう?」
彼はリュートを軽く弾き、その音色が雲海に抱かれるように消え、空気の中に溶け込んでいった。その音色が、森全体の静けさに溶けていく様は、まるで森自体が彼の演奏に耳を傾けているようだった。
「何もない場所を飾るのが得意なのに、ありのままの美しさには言葉が及ばない――それが詩人の矛盾ってやつさ」
「これを聞いたエルフたちならこうだろう――『人間ってやつは、美しいものをわざわざ歪めるのが得意ね』ってな」
彼はリュートを抱え直し、星明かりに揺れる霧の動きを目で追った。その顔にはどこか達観した笑みが浮かんでいる。
「でも、それでいいんだ。言葉なんかじゃ届かないからこそ、歌にするしかない――それが俺たち詩人の生きる道ってやつさ」
彼は少し笑いながらも、どこか震えるような声で続けた。
「それでも……この森が隠している何かが、俺に歌わせようとしているのは確かだ」
彼の言葉が雲海に吸い込まれると同時に、森が呼吸するように風が吹き、木々がそっと揺れた。一瞬だけ霧の中に立ち現れた塔は、実体を持たないはずの影が実在感を帯びたかのようだった。そして、それが幻であると証明するようにまた消えた。
その瞬間、声が響いた。
「アルヴィンよ……歌を紡ぐ者よ……」
突如として耳に届いた声に、アルヴィンは息を詰めた。胸の奥を冷たい何かに掴まれるような感覚が走った。それは逃げ場のない運命に触れた瞬間のようだった。振り返るが、森は依然として静けさに包まれている。ただ、遥か彼方の霧は、今にも手を伸ばして自分を捕まえそうに思えた。
「おいおい……森がしゃべるなんて聞いたことはないぞ? いや、エルフか? それとも――俺の頭がとうとう詩人らしくなりすぎたってわけか?」
彼は冗談めかして言ったが、その胸の鼓動が高鳴っていることに気づいていた。また霧が揺らめいた。
「運命は今、星々の糸と共に編まれる……」
声はどこからともなく響き、彼の名を呼び続けた。その響きは、耳を通じた音ではなく、胸の奥底で直接振動しているような感覚を伴っていた。
「……これは……運命、ってやつか? いや、冗談でも言ってないと……」
声が静まり返った後も、その余韻は彼の中で波のように広がり続けていた。アルヴィンはリュートを再び弾き始めた。その音色が、自分の中に渦巻く恐怖と期待を和らげてくれるように。
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アルヴィンは崖の淵に立ち尽くしていた。霧が揺れ、霞む塔が視界の奥に現れては消える――その光景は圧倒的だった。星々の光に照らされたその影は、幻のように揺らめき、まるで自分を試すように静かに訴えかけてくる。
彼の胸の中には、言葉にできない感情が渦巻いていた。それは恐れか、それとも期待か――いや、両方だ。彼はそれを認めるように小さく息を吐いた。
やがて、東の空が青みを帯び始める。夜明けの気配が静かに世界を包み込み、星々の輝きが一つ、また一つと消えていった。アルヴィンは肩にかかった冷たい夜露を払いながら、目の前の塔に視線を戻した。
その時、霧の中の影が揺れた。星々の後を追うように、霞む塔の輪郭が夜空に溶けていった。その消失は、夜が明ける瞬間の儚さそのものであり、アルヴィンの心に深い余韻を残した。
「……結局、詩人の役目は同じか」
アルヴィンは皮肉な笑みを浮かべながら呟いた。
「これだけの光景を前に、歌を紡がないなんて選択肢はない――運命だろうが、幻だろうがな」
彼はリュートを抱え直し、弦を軽く弾いた。その音色が夜明けの冷たい空気に吸い込まれるように響く。彼はその場に腰を下ろし、星々の消えた空を見上げた。
塔の影が完全に消えた瞬間、彼は胸にわずかな喪失感を覚えた。それは、確かに存在していた何かを手放すような感覚だった。だが、その感情はすぐに新たな使命感へと変わっていく。
「見えなくなっても、存在は消えない――そうだろ?」
彼は小さく呟き、リュートの弦にそっと指を滑らせた。音色が夜明けの光に乗り、雲海の上を滑るように響き渡る。その旋律には、霧の中に浮かび上がる塔の記憶と、それを追い求める自分自身の思いが織り込まれていた。
星霧の森――それは北方の奥地に広がる、古の民が住むと言われる神秘の地。だが、エルフという存在は神格化されて久しく、誰もその姿を見た者はいない。
伝承の中で語られる彼らは、銀のように輝く木々の奥に隠れ、夜明け前の一瞬にだけ囁く声を残すという。その声を聞いた者は、道を示されると言い伝えられている。
⋆ ⋆ ⋆
星霧の森、銀樹の奥、
神の影が踊る道を辿る。
雲海の裂け目、東風の先、
忘却の谷を越えた先に。
宝石の光は枝葉に隠れ、
真実は銀樹の囁きの中。
夜明けの星が紡ぐ道、
運命の塔が影を抱く。
⋆ ⋆ ⋆
旋律を紡ぎ終えた時、太陽は山の稜線を照らし始めていた。星霧の森は朝の光を浴びて霧が薄れ、また新たな静けさを纏うようになっていた。アルヴィンは立ち上がり、霧の中に消えゆく塔の方へ目を向けた。
「古の民が聞いていたら、こう言うだろうな――『人間ってやつは、何も知らないくせに歌を作るのだけは得意ね』ってさ」
苦笑混じりに呟きながら、彼はリュートを抱え直し、塔の消えた方向へ視線を送り続けた。その目には、消えてしまった何かを追い求める決意の光が宿っていた。