23 不運
大広間を出た男は玄関とは反対の方向へと向かっていく。そして、一つの扉の中に消えていった。少し時間を空けてからマイルズもその扉に入る。
室内には明かりがなく、唯一の光源は窓越しに差し込む僅かな月明かりだった。
「ようこそ。お時間をいただけて、光栄です」
暗がりの中から先ほどの男の声が聞こえた。マイルズは目を凝らし、声がした方を向く。人影のようなものが見える。
「あなたはいったい誰なのですか?」
改めてマイルズは問う。闇の中で男が笑う声が聞こえた。
「仮装舞踏会では素性を詮索しないのがルールでしょう? ……ですが、そうですね。あなたの力になりたいと思っている者、とだけ答えましょう」
カツン、カツン。男はちょうどマイルズを中央に円を描くようにゆっくりと歩き出す。
「あなたのことはよく存じておりますよ。今に至るまでの過程も。今の待遇も。……私にはあなたの気持ちが理解できる。イシャーウッド伯爵。あなたはそんな日陰に追いやられるべき人ではない。あなたはもっときらびやかな、明るい陽の光の下がお似合いです」
男の言葉はするりするりとマイルズの心に入っていく。
苦境に立たされてから、そんな言葉をかけてくれる人間はいなかった。誰も助けを差し伸べようとせず、背を向けていった。
気づけば、マイルズは完全に甘言に惑わされていた。いや、虜になっていたと言っていい。素性が分からない相手の言葉を信じ、すがるように希望を託していた。
「ええ、そうです。俺はこんな場所にいていい人間ではない。イシャーウッド伯爵の座にふさわしいのは俺だ!」
マイルズは両手を振り回し、必死に訴える。
「――俺はただ、運が悪かっただけだ! ガラノス精霊爵にいいように騙されて、厄介者の疫病神を押しつけられた。そのせいで、こんな目に遭っている。本当だったら、カルヴィンなんかに爵位を奪われはしなかった。今も俺はイシャーウッド伯爵家の当主でいられたはずなのに」
元伯爵は恥も外聞もかなぐり捨てて、男に懇願した。
「どうか、助けてください。そして、再びすべての俺の手に」
地位も。財も。名声も。そのすべてを取り戻せる。そんな膨らんだ期待は――しかし、すぐにつぶされた。他でもない黒い男によって。
「んなもん。アンタが今更取り戻せるわけねえだろ」
低く冷たく響いた声からは先ほどまでの調子のよさは消えていた。
「…………え?」
突然のことにマイルズは固まる。
ろくな反応もできないうちに、突然腹部に衝撃が走る。そのまま、よろよろとよろめき、その場に座り込む。男に蹴り倒されたと気づいたのは少ししてのことだった。
「さて。猿芝居もここまでだ。――まったく、手間かけさせるんじゃねえよ。なんで俺がこんな面倒くさい真似しなきゃなんねえんだか」
うんざりしたように男はぼやく。それはマイルズに聞かせているというよりは独り言に近い。狼狽したまま、マイルズは声を張りあげる。
「い、いったい、なんの真似だ。俺を助けてくれるんじゃなかったのか!」
「マイルズ・イシャーウッド元伯爵様。今更、社交界どころか、この国にだってアンタを手助けしようなんて奴はいねえよ」
それは先ほどまで耳障りのいい言葉を並べていた本人のものとは思えない発言だった。
「まあ、でも、そりゃ仕方ねえんじゃねえのか? 因果応報ってやつだ。だって、アンタは水の大精霊の恩寵を受けたガラノス家の娘の命を奪おうとしたんだから」
「俺はそんなことはしていない!」
確かに、実際彼が元妻に行ったことは、彼女の死を誘発する行為だった。しかし、マイルズはそのことを誰にも話していない。すべてを知っているのは関わった使用人たちだけだ。だから、目の前の男がそのことを知っているわけがない。
「そもそも、あの女は水の大精霊の恩寵なんて受けていなかった! 実際、髪と目の色も青ではなかった! あの女は水の大精霊に見捨てられていたんだ!」
「……まあ、そうだな」
マイルズの反論を男は否定しなかった。妙に静かな口調で言う。
「水の大精霊の恩寵を失った。そりゃ、事実だっただろうさ。……ただ、それ以上のことをアンタは知る必要がねえ。もう全部、アンタには無関係なことだ」
男が何を知っているのか。何を言っているのか。マイルズには理解が及ばない。しかし、男が決して自身に友好的な存在でないことは分かってしまった。
「そのまま。ずっと無関係でいてくれりゃあ、俺だってアンタに手を出そうとは思わなかったよ。本当にアンタは運が悪いな。こんなところでアイツに――いや、俺に会うなんて。まあ、でも、こうなった以上、俺は俺のやり方をやらせてもらう。危険な芽を看過してやるほど、俺は甘くねえんだ」
恐怖で体がうまく動かない。それでもどうにか体を起こそうとするマイルズの肩に男は足をかける。それほど体重はかけられていないが、向こうがこちらを立ち上がらせなくするには十分な方法だった。
「さて。これでも俺は平和主義でね。暴力に訴えるってのは好きじゃねえんだ。――だが、時に痛みってのは必要だろ? 過ちに痛みが伴わなきゃ、人は同じ間違いを繰り返す」
「お、お前は何を」
「本当にアンタは運が悪かった」
男の声色は冷淡なのに、どこか憐憫に満ちていた。
「残念だよ、本当に。俺なんかに見つかっちまって、これからひどい目に遭わされるなんてな。嘘だとも思うだろうが、紛れもない本心だ。……悪いな。今夜、この場所で、これ以上余計な真似をされたくねえんだ。仮装舞踏会が終わるまで大人しくしててくれ」
マイルズは抵抗しようとした。助けを求めて叫ぶ。しかし、大広間までその声が届くことはない。届いたところで、悲鳴は喧騒に打ち消されていただろう。
叫びはどんどん悲壮的なものに変わっていく。そして、最後にはその声も消えてしまった。




