22 黒の男
皇宮の迎賓館を貸し切っての仮装舞踏会。名家オートレッド公爵子息が主催するこの催しには帝国中から有力な上流貴族の若者が集まっている。
彼らは身分にふさわしい上等な仮装で着飾る。しかし、その中に一人、とても上流貴族とは思えないみすぼらしい格好をした男がいた。
「いい加減諦めるんだ。マイルズ」
そう諭してきたのはかつての友人であった。プラシノス家の仮装をした彼――カーティスは言う。
「いくらしつこく迫ったところで、お前に支援しようなんてお人好しはいないよ。お前は精霊を怒らせた。そんな相手を助けたら、お前と同じ目に合うかもしれない。……そんな真似は私だってできないよ」
「違う!」
みすぼらしい格好の男――マイルズは反射的に叫ぶ。カーティスは周囲を気にするように左右を見た。その動作で少し我に返ったマイルズは声を潜める。
「全部あの女のせいだ! 水の大精霊の恩寵を失っていたくせに、それを隠して嫁いできたあの女と、セオドロスのせいで――」
「亡くなった奥方をそんなふうに言うのはよくない」
カーティスはピシャリと言い放つ。
「それからガラノス精霊爵のこともね。……ここで皆が何をしているのか、忘れたのか?」
マイルズは唇を噛む。確かに精霊貴族に仮装する催しで、その精霊貴族を侮辱するのはよくないだろう。
友人はマイルズの肩を叩く。
「これ以上醜い真似はやめろ。今はもうお前の従兄のカルヴィンのことを新しいイシャーウッド伯爵と誰もが認めてる。彼はうまくやっているし、当主が変わってから水害もピタリと止まった。……今更、誰かの支援を得られても、伯爵位を取り戻すなんて不可能だよ」
そう言って、友人はその場を離れていった。残されたマイルズはうなだれる。
イシャーウッド伯爵家の嫡男として生まれたマイルズ。その輝かしい人生が転落していったキッカケは一人の女を妻に迎えたことだった。
先代ガラノス精霊爵の娘エウフェミア。
彼女との縁談を持ってきたのは現ガラノス精霊爵セオドロスだった。彼と知り合ったのはとあるサロンでのことだ。
そこは非公式な情報交換や投資話が交わされる、限られた者だけの場だった。髪色を変え、素性を隠して参加していたのがセオドロスだ。
上等な服を着ていても、他の社交界では見かけないその男が、まさかガラノス精霊爵だとは思いもしなかった。マイルズにとってその男はたまに会話するような相手でそれほど興味を持っていたわけではない。しかし、ある日、セオドロスはこっそり、縁談を持ちかけてきたのだ。――自分の姪を嫁にもらってくれないか、と。
『貰い先を探しているんだ。相応の持参金も積む。……ただ、一つだけ条件を呑んでほしい』
精霊爵が伯爵の自分に持ってきた話。一見うまい話のように思えるそれに、どんな落とし穴があるのか。マイルズは警戒したが、セオドロスの言う条件はとても簡単なことだった。
『姪を表に出さないこと。……できれば、人目につかない場所に置いてほしい』
当時、周囲からはそろそろ身を固めるように言われていた。精霊貴族の令嬢を妻に迎えれば、それだけで他の貴族たちに一目置かれる。箔がつく、というものだ。しばらく投資がうまくいっていなかったこともあり、資金繰りも少し苦しい。
セオドロスの持ちかけてきた縁談は、マイルズにとって破格の条件だった。だから、マイルズはエウフェミアを妻に迎えた。
好みの女なら少しは可愛がってやってもいいと思っていたが、結婚式当日顔を合わせた女はなんとも華のない女だった。そのため、相手にするのも面倒で別邸に押し込め、マイルズは独身時代と変わらない自由な生活を謳歌していた。――あの日まで。
それまでマイルズはエウフェミアを妻に迎えたことで、周囲から一目置かれていた。近年、各地で起きている水害も水の大精霊の恩寵を受けた妻が入れば心配することはないと羨ましがられていた。実際、マイルズも、精霊貴族の娘を迎えたのだから、水害など起こるはずがないと高を括っていた。
しかし、八ヶ月前、領内で豪雨が降った。甚大な被害が出て、本邸も水没。この出来事は新聞にも取り上げられ、瞬く間に広まった。『あのガラノス家の令嬢を妻に迎えたのに』と、陰で嘲笑されるようになった。マイルズにとって、これ以上ない屈辱だった。
別邸の妻のところへ出向き、マイルズは離縁を申し出た。そこで妻が、まさかの告白をした――自分は水の大精霊の恩寵を失っている、と。マイルズは怒りに我を忘れ、即座に屋敷から追い出した。廃道に捨てさせたあの女は、もうこの世にはいないだろう。
しかし、この事実を表沙汰にするわけには行かなかった。周囲には妻は病死したと説明した。セオドロスも何も追及してこなかった。疫病神はいなくなった。後は状況はよくなるだけ――そう信じていた。
しかし、それからの人生が好転することはなかった。
投資で作った負債は膨れ上がり、領内の立て直しもうまくいかない。そのうち、従兄のカルヴィンが出しゃばってくるようになり、とうとう爵位まで奪われることになった。それが三ヶ月前のことだ。
それからずっと、マイルズは自分の伯爵返り咲きを後押ししてくれる支援者を探してきた。
しかし、かつて懇意にしていた誰もがマイルズを見捨てた。手を差し伸べてはくれない。今の家は生まれ育った広い屋敷ではなく、従兄の温情で与えられた小汚い小屋だ。その生活はこれ以上ない屈辱だった。
(イシャーウッド伯爵の座に相応しいのは俺なのに)
ふつふつと湧き上がる黒い感情を抱えながら、マイルズはふらふらと歩き出す。
その服装も立ち居振る舞いも上流貴族の集まりに相応しくないと、すれ違う参加者は誰もが彼を見て眉をしかめる。
仮装舞踏会はいくら手紙を送っても会おうとしてくれない何人かの友人と接触する絶好のチャンスだった。しかし、その全員に断られた。もう、これ以上、ここにいる理由はない。――そう考えていたときだった。
前方の少し先。そこを横切った令嬢がいた。真紅のウィッグに、同色のドレス。それは先ほど、床に座りこんでいた自分に手を貸してくれようとした少女だった。
マイルズは改めて、その令嬢のことを観察する。
そのドレスも、装飾品も、ウィッグも。どれをとっても一級品だ。仮面をつけていて顔は分からないが、かなりの裕福な家柄の出であることは間違いないだろう。
(――もしかしたら)
脳裏に考えがよぎる。
あの令嬢に支援を求めるのはどうだろうか。優しそうな娘だ。こちらの悲惨な境遇を訴えかければ、きっと心打たれ、助力を申し出てくれないだろうか。そんな期待が膨らむ。
エリュトロス精霊爵家の仮装をした彼女はふと、足を止めた。それから、バルコニーに続く掃き出し窓に近づいていく。
――声をかけなければ。
そう思って、マイルズは足早に歩き出す。直後、近くにいた男性がぶつかる。相手が持っていたグラスの透明な液体がこぼれ、こちらの服にかかった。
「ああ。申し訳ない」
それは服を汚したにしてはあまりに軽い謝罪だった。
そのことに瞬間的に怒りが沸き上がり、怒鳴りそうになる。しかし、なんとか怒りを堪える。伯爵位を奪われたマイルズの今の立場は非常に弱い。相手の身分が分からない以上、喧嘩を売るのは賢明ではない。
それでも、こんな無礼な真似をするのは一体誰なのかとは思う。マイルズはぶつかってきた相手を見る。
そこにいたのは黒髪に黒い服の男だった。顔の上半分を隠す仮面だけが赤い。鮮やかな色が溢れる会場にあって、その黒一色の姿はまるで影のようだった。
仮装舞踏会では精霊爵家の仮装をするのが流行りだというのに、流行を分かっていない時代遅れなのだろうか。あるいはマイルズのように流行りの衣装を用意できなかったのだろうか。それにしては、それなりにいい服を着ている。
「本当に申し訳ない。せっかくの衣装が汚れてしまった」
男はそう言って、ハンカチで汚れた腕の裾を拭き始める。この質の悪い生地で出来た服をせっかくの衣装と言うのも、こちらの服より上等なシルクのハンカチを使うのも、皮肉のようにしか思えない。
「……いえ、お気になさらず。こちらこそぶつかってしまって申し訳ない。急いでいますので、失礼します」
こんな相手にかまって、あの令嬢を見失っては困る。心にもない謝罪を口にしながら、マイルズは男の腕を振り払おうとした。
――しかし。
「イシャーウッド伯爵」
小声で、かつての肩書を呼ばれる。
マイルズはハッとして、男を見る。彼は周囲に聞こえないよう、こちらに顔を寄せる。
「まさか、こんなところでお会いできるとは思いませんでした。こんな幸運……まさに精霊の導きなのでしょうか」
「…………あなたはいったい」
今のマイルズをイシャーウッド伯爵と呼ぶ人間はいない。いや、そもそも顔を隠している今、自身がマイルズ・イシャーウッドであるとはすぐに気づけないはずだ。
こちらの問いに、男は口元に笑みを浮かべた。
「あなたの力になりたいと思う者ですよ。イシャーウッド伯爵。――ここは込み入った話をするには少々騒がしい。場所を変えましょう。重要な話をするのに相応しい場所を知っています。二人一緒に連れ立って歩くのも人目を引きます。私から少し離れて、後をついてきてください」
そう言って男は一歩後ろに下がる。そして、少し大げさに「本当に申し訳なかった」と一礼してから、会場の出口に向かっていく。
それをしばらくその場で見送ってから、マイルズも男の後を追うように歩き出す。そのときにはすっかり、先ほどの令嬢のことは忘れきっていた。




