15 嫉妬
あの男のことは最初から気に食わなかった。
アーネスト・ハーシェルという名は元々知っていた。最近、皇宮でもちらほら名を聞く商人の名だ。
最初はとある男爵に気に入られただけだった。それが、あっという間に伯爵、侯爵と爵位の高い――それも上流階級では影響力のある家への出入りが許されるようになった。
彼の客は誰もが商人を褒める。その一方で競合相手である老舗の商人や、成り上がりを嫌う貴族たちからはひどくやっかまれていた。
『あの男はまるで狗だ。けだもののように鼻が効く。金の匂いを嗅ぎ当てるのが上手い』
そうして、男はブロウズの雑犬と裏で言われるようになった。
シリルの耳に届いたのもその悪評だ。そして、シリルもそう噂する貴族と同じようにアーネスト・ハーシェルという男に好感を抱いてはいなかった。
エフィを最初に皇宮に呼んだ時。その悪印象は間違いでないと強く実感した。
あの男は気に食わない。邪魔だ。
上手く皇宮に居座り、牽制のようにエフィの傍にいる。その姿はまるで番犬のようにも見える。――どちらにせよ、ろくな躾のされていない雑種であることに変わりはないが。
一方で雇用主が従業員のために、あそこまでするのは違和感があった。あの商人も七家に属さない精霊術師に価値を見出しているのか、あるいは何か個人的な感情の問題なのか。
結局、その答えをシリルは知ることができなかった。
エフィにアーネストとの関係性を訊ねたことがある。彼女は雇用主に恩義を感じている様だったが、彼の考えは分からないと言っていた。
そして、シリルもあの男の考えがよく分からなかった。その考えが強まったのは、エフィをウォルドロンに連れて行くため、ハーシェル商会へ向かったときだった。
前回同様、ハーシェル商会の会長はシリルの障害になると思っていた。
そのため、シリルはいくつか下準備をしてきた。ハーシェル商会を通して正式な依頼をし、商会にも報酬を渡せば従えさせられるかもしれない。そう思って、まずはアーネスト・ハーシェルに交渉を持ちかけた。
――しかし。
『勝手にすればいい。俺はアイツの雇用主だが、業務外まで口を挟むつもりはない。ウチは物の売り買いをするのが仕事だ。アイツに仕事を依頼したいなら、直接本人と交渉しろ。俺は関与しない』
彼はあっさりとエフィに会う許可を出し、彼女をウォルドロンへ連れて行くことを許した。
そうして、ウォルドロンでの一連の出来事を経て、エフィ――エウフェミアは正式に精霊術師として生きる道を選んだ。ハーシェル商会を辞めた彼女はシリルが用意した貴族用居住区域にある屋敷に移り住んだ。
ただ、この頃から、エウフェミアの様子には少しずつ違和感が生まれ始めていた。
以前のように屈託なく笑うことが減った。前から無理をするタイプだったとはいえ、後先考えずに闇雲に依頼を引き受け、仕事をこなすようになった。
シリルは彼女のことが心配だった。
最初に皇宮に彼女を呼んだのは、自分の野望のため。しかし、今は自分と違って優しく、懐の広い少女のために、出来ることはやってやりたいと思うようになった。
しかし、それも上手くいかない。苦言を言っても、彼女の心にまで届かない。から回っている。そんな自覚はあった。
――それなのに。
エウフェミアからアーネスト・ハーシェルが火霊同盟の――それも中心人物とのコネクションがあることを聞かされた。自分の伝手を探すよりはあの男に頼った方が彼女のためになる。表面には出さなかったが、心の中で苦渋の選択の末、ハーシェル商会へと向かった。
『エリュトロス家か』
気に食わないことに、アーネストはハフィントン侯爵夫人の名を出しただけで、こちらの意図を察した。そして、その伝手が必要なのはシリルではなく、エウフェミアであることに早々に気づき、当人との面会を求めた。
久しぶりにハーシェル商会会長と再会した彼女は、最初こそ気まずそうな表情をしていた。それが、男の言葉でがらりと雰囲気を変えた。ここ一ヶ月の間のどこか疲れた、生気のなさが吹き飛んだ。生き返った。そう形容するのが相応しい。
そうして、今、彼女はアーネスト・ハーシェルに求められるまま、夕食作りをしている。夕食の準備が終わるまで、シリルたちは応接間で待つことになった。
その途中、アーネストは煙草を吸うために部屋を出ていった。しばらく彼の部下と二人きりだったが、その状況が気まずかったのか「ちょっとお屋敷を見てきます」とそそくさとどこかへ行ってしまった。
残されたシリルも、少しして立ち上がった。
屋敷内で喫煙に向いた場所は限られている。庭に出ると、薄暗闇の中、煙草の火が小さく見えた。
黒髪の男は、いつも暗い色の服を着ている。今日着ているのも黒いスーツだ。闇に紛れて、見えにくい。
こちらに気づき、男が振り返る。
「なんだ。アンタも煙草でも吸いに来たか?」
「……いえ。そんな悪趣味はありませんので」
自身の趣向を否定されたにも関わらず、アーネストは気を害した様子はなかった。「そうか」と呟くと、また向こうに視線を向け、煙草をくゆらせる。
皇宮では散々煽っておきながら、あれ以降彼はこちらに喧嘩を売るような真似はしてこない。興味がない――いや、相手にしていないのだろうか。
それが、あの少女の関心を引けているという余裕の現れのように思えて、シリルの心をひどく逆撫でる。
――どうして。
どうして、この男は彼女を元気づけることができたのだろう。
どうして、自分では駄目だったのだろう。
どうして、彼女はこの男を信頼しているのだろう。
この男は利己的で自分勝手な人間のはずだ。――なのに、どうして彼女には無条件で協力するのだろう。
シリルは口を開く。
「あなたにとって、エフィさんは何なのですか?」
それは三ヶ月前に手に入れられなかった答え。以前、エウフェミアに聞いたときは彼女を利用するのに男の存在が邪魔だったから知りたかった。
しかし、今、シリルが知りたいと思う理由は別。――そう、これは嫉妬だ。
自分以上にエウフェミアの信頼を勝ち得、沈んでいた彼女に、あんなにも自然に力を与えられる。まるで、誰よりも彼女のことを理解しているかのような素振りを見せるこの男が羨ましくて。そして、憎らしいほどその立場が欲しかった。
――今、彼女に一番近く、傍にいるのは自分なのに。
ハーシェル商会との関係が切れ、今までアーネスト・ハーシェルがいた立場に自分が成り変われたと思った。
しかし、実際はそんなことはなかった。そのことを今日一日で思い知らされた気分だった。
再び、男の瞳がこちらに向けられる。真っ黒な闇のような目だ。何を考えているのか窺えない恐ろしさを感じる。
彼は鼻で嗤った。それから、煙草を持った手を大仰に振った。
「それはこっちが聞きてえな。――アイツを利用するのはやめたのか?」
そう言われて思い出す。
この男を嫌うもう一つの理由は、その底知れぬ洞察力だった。これが上流階級の人間に気に入られている理由の一つなのだろう。不本意ながら、そのことは認めざるを得ない。
「利用とは人聞きが悪いですね」
「俺が何にも知らねえとでも思ってんのか? 低俗な噂が飛び交う社交界から遠く離れた清廉な官吏様は世間知らずだなぁ」
明らかな煽りに、シリルは眉間に皺を寄せる。男はクックッと笑う。
「お綺麗な顔に、お綺麗な笑みを浮かべたって、アンタの醜い欲望は隠しきれねえぜ。アンタの顔はよくよく見慣れたもんだ。アンタみたいなヤツはどこにでもうようよしてる。分相応も分からねえ、愚かな人種だ」
「まるで、自分は違うとでも言いたげですね。ブロウズの雑犬が聞いて呆れます」
反射的に言い返すと、男は声を上げて笑った。
「そう。俺は人間じゃねえ。獣だ。だから、アンタらとは違うのさ」
シリルは彼をじっと睨みつける。
――本当に理解できない。
あの清廉な少女は、この男の本性を分かっているのだろうか。この商人は決して善良な人間ではなく、彼女に信頼を寄せられるに相応しい人物とは思えない。早く彼女もそのことに気づけばいいと思ってしまう。
「まあ、いい。さっきの質問に答えてやってもいい」
かわされると思ったが、意外なことに男はそう言った。
自分で聞いておきながら、あまり期待していなかった。どうせ煙に巻かれるか、当たり障りのない答えを言うか。だから、続いた言葉に、シリルはひどく衝撃を受けた。
「そうだな。アイツは俺にとって、特別だ」
煙草を地面に落としたアーネスト・ハーシェルははっきりと断言した。彼は地面の吸い殻を踏みつけた。
「アンタがもし、今もアイツを利用し、場合によって傷つけてもいいと思ってるなら――俺はアンタの性根をどうにかしないといけねえ。矯正するって意味じゃねえぞ? そんな考えが二度と思い浮かばないように、アンタを追い詰めないといけない。アイツに関わったのが間違いだった。そう思わせないと安心できねえだろ?」
それはもしかしたら、ただの脅しだったのかもしれない。しかし、低く、どこか愉快そうな声音は相手が本気でしかねないと思わせるには十分たった。
ふと、相手の雰囲気が和らいだように思えた。男は力を抜き、火の消えた吸い殻を拾い上げる。
「まあ、でも、もうアンタもそんな気はねえだろ? なら、俺は何もしない。アンタはアンタなりに頑張ればいい」
――頑張るというのは、一体何のことを指しているのか。
アーネストは吸い殻を携帯灰皿にしまう。そして、そのままシリルの横を通り過ぎる。
「特別というのは、あの方のことを愛しているという意味ですか?」
慌てて振り返り、シリルは問いを投げつける。足を止めた男は、重い溜息を吐いた。
「…………そんな色気づいた理由じゃねえよ」
こちらを一瞥もせず、そう答えると彼は建物の中に消えていった。




