32 水と風
ニキアスは妹のダフネを抱えたまま、空虚の根に向かって飛び続けていた。
風の大精霊の恩寵を受けたキトゥリノ家の家風は自由奔放と言われている。実際、ニキアスも自由人を体現したような青年であったが、精霊術師としての使命や責任も最低限はわきまえている。先ほど、昨日エフィと名乗った娘――ニキアス自身はとっくにその名前を忘れていたが――に約束した通り、向こうに戻って少し待ってから仕事をしないといけないと考えていた。
ふと、彼は抱きかかえているダフネの視線が、ずっと後ろに向けられていることに気づく。
ニキアスにとってダフネは可愛い可愛い妹だが、精霊の眼と呼ばれる特別な存在でもある。もしかしたら、彼女にしか分からない何かに気づいたのかもしれない。ニキアスはそのことを訊ねる。
「ダフネ。どうかしたの?」
年頃なのか、最近反抗的な彼女は質問に答えてくれないこともある。しかし、今回はきちんと返事が返ってきた。
「……さっきの人。周りにたくさん精霊がいたわ」
『いっぱいいた』という言葉に首をひねる。|ニキアスには、エフィの周りにいた風の精霊の数がたくさんには視えなかったけどからだ。
「そんなにいたかな? 二匹くらいじゃなかった?」
「違うわ」
ダフネは否定する。
「風の精霊だけじゃない。水も、火も、――全部いた」
そう答える妹の顔は真面目なものだった。ようやく、そこでニキアスは違和感を覚える。
良くも悪くもキトゥリノ家の人間らしい彼は、非常におおらかな性格をしている。細かいことは気にしないし、気づかない。
だからこそ、ノエに事前に『川にもう一人水の精霊術を扱える精霊術師がいて、協力してもらっている』という説明を受けていたにも関わらず、川にいた精霊術師が風の精霊に好かれているという異常に気づかなかった。そして、違和感を覚えても、それが何を意味することに自分でたどり着くこともできない。
だが、すぐにニキアスが頭を使う必要はなくなった。
最初に気づいたのは後ろを見つめていたダフネの方だった。彼女は目を見開き、指を指す。
「兄さん、見て!」
進んでいる状態で後ろを確認することはできない。ニキアスは止まり、後ろを振り向く。
ここは既に空虚の根の影響を受けたエリアだ。周囲は真っ暗で、空に浮く自分たちと下方に置かれた瓶しか目に映らない。だからこそ、遠くからやってくるモノの姿がよく見えた。
それはニキアスにとって、とても慣れ親しんでいる風の精霊たちだった。彼らは瓶を道しるべにするように、どんどん近づいてくる。そして、あっという間にニキアスたちを追い抜かす。
彼らが空虚の根へ向かっているのは予想ができた。しかし、風の精霊の力を使い、空虚の根を消すことができるのは風の精霊術師だけだ。風の精霊を送っても意味がない。
ニキアスが不思議に思う光景だったが、ダフネの眼には別の光景が映っていた。――風の精霊の力を借り、たくさんの水の精霊たちが空虚の根へ向けて飛んでいっているのだ。
すべての精霊を視ることができるダフネにとっても、それははじめての光景だ。
普段目にする精霊たちは別の属性の精霊と関わりあうことはない。それなのに、水と風、二つの色、二つの属性の精霊たちがともに舞うように駆けていく。その光景はとても美しく見えた。
「――すごい」
呟きがこぼれる。ダフネは幻想的な光景に魅入っていた。
◆
キトゥリノ精霊爵と精霊の眼がエウフェミアのいる川原の様子を見に行っている間、ノエはひどく落ち着かない気持ちを抱えていた。
(向こうで何があったんだろう)
胸を占めるのはエウフェミアを心配する気持ちと、自分の計画に不足があったのではないかという不安だ。
そもそも、精霊術師の歴史において、大精霊の紋章を持たない者が空虚の根銷却に挑んだことはない。最善と思う方法をとったが、何か見落としがあるのではないかという不安はある。
(――いや。自分自身を信じろ。堂々としているんだ)
ノエは精霊術師として人前に出るときは、泰然とした態度を心がけている。不安を表に出すことは信用を失わせる行為だ。キトゥリノ家の二人がいない今、ノエは一人きり。狼狽したところで、その姿は誰にも見られない。それでも、自分自身を奮い立たせるためにも、背筋を伸ばす。
(――それに)
瓶の続く先をイメージする。その向こうにはエウフェミアがいる。
彼女は生命の精霊の恩寵を受けた存在だ。その上、信じたいと思える力を感じる。だから、何か異常事態が起きたとしても、彼女ならなんとかしてくれるのではないか。ノエにはそんな期待もあった。
空虚の根の影響を色濃く受けたこの場所では時間の進みも曖昧だ。長く滞在している影響か、持ってきた懐中時計の針の動きはおかしい。だから、ノエはただ待つことしかできない。暗闇の中でも川原まで続く瓶ははっきりと見える。じっと、その向こう側を見つめ――ノエは変化を感じた。
(――来た)
彼の目に精霊の姿は映らない。それでも、たくさんの水の精霊たちの気配が近づいてきているのは空気で分かる。ノエは眼の前にある『無』に、手をかざす。
周りを大勢の水の精霊たちが舞っているのが分かる。これほどの数の精霊たちを感じるのははじめてだ。彼らの気配が、ノエに勇気を与えてくれる。
銷却のため、意識を集中し始めたノエはニキアスたちが飛んで戻ってきたことに気づかない。地面に着地したダフネは精霊の眼の役目を果たすため、静かに青い髪の少年の背中を見つめる。
少しずつ、『無』が消えていく。周囲が本来の姿を取り戻していく。失われていた水の精霊たちが戻っていく。――そうして、周囲の光景が木々に囲まれた小さな源泉に変わるまでにはそれほど時間はいらなかった。




