31 異常事態
とうとう、その日が来た。
銷却当日。ノエとシリルは主屋へと出かけていった。ニキアスとダフネと合流し、それから空虚の根へ向かうと言う。シリルは他の精霊庁の官吏とともに、悪影響を受けない距離ですべてが終わるのを待つそうだ。
エウフェミアはそれを見送り、少ししてから護衛のジェシーとグレッグと川へと向かう。
到着した川原は一昨日とほとんど変わらない。変わったところは霊水の瓶が一定間隔に空虚の根の方角へ向かって並んでいることだ。
ジェシーは周囲を見回し、警戒している様子だ。エウフェミアは一人、借りた懐中時計で予定の時間が来るのを待つ。
――そろそろだ。
二、三キロメートルは離れた空虚の根の前にいるノエとは連絡をとる手段がない。そのため、銷却開始時刻を事前に決め、そのタイミングでエウフェミアが水の精霊を送り込む手はずになっている。
「そろそろ、始めます」
一言声をかけると、ジェシーとグレッグは無言で頷いた。エウフェミアは始点となる瓶の前に立ち、川に向かって祈る。
(――お願い。空虚の根へ向かって。ノエの手助けをして)
祈りが精霊たちに届いた。その、確かな感覚を抱く。
川から空虚の根へ向けて精霊たちが進む姿を想像する。
彼らがノエの下へ到着するまでどれくらい時間がかかるだろう。どれくらいの精霊たちが必要なのかも分からない。確認をする術はない。だからこそ、エウフェミアは一心に祈り続けるしかなかった。
いったい、どれほど時間が経っただろう。
三人しかいない川辺は緊張した空気に包まれている。エウフェミアは精霊術の行使に集中し、ジェシーとグレッグは周囲への警戒を怠らない。だからこそ、護衛の二人は空から現れた人物にいち早く気づき、エウフェミアはグレッグが自分の側に駆け寄るまで反応できなかった。
「あなたは――」
ジェシーは驚愕したように呟く。振り返ったエウフェミアも驚いた。小柄な少女――ダフネを抱え、地面に着地したのはニキアスだった。
ノエと一緒にいるはずの彼らが現れたことに動揺を隠せない。エウフェミアは精霊術を止め、二人に近づく。ニキアスは妹を地面に下ろす。
「どうなさったのですか? 向こうで何が……」
「こっちの様子を見に来たんだ。――ダフネ」
兄に名を呼ばれても、ダフネは無反応だった。真剣な表情で周囲を見回している。
川。エウフェミア。そして、足元の瓶。それから空虚の根へ続く瓶。
一つ一つ目で追ってから、ようやく少女は兄を見上げる。それから、こちらの様子も窺いながら、話し出した。
「空虚の根にまでやって来れた水の精霊の数がかなり少なかったの。あれじゃあ、空虚の根は消せない。もっとたくさん精霊がいないと」
「――そんな」
エウフェミアは言葉を失う。
空虚の根まで水の精霊を送る。それがエウフェミアの仕事だ。しかし、数が足りないということは、与えられた役目を果たせていないということだ。『それなら、私でもできる』とやすやすと引き受けておきながら、満足に働けていないことに衝撃を受ける。
ダフネはゆっくりと言葉を選ぶように、話を続ける。
「空虚の根からここまで、道を見てきたわ。ほとんどの精霊たちが途中で力つきていたの。精霊たちにとって、ここから空虚の根までは遠いんだわ。途中の空間は精霊たちにとっても居づらい場所だもの」
少女はそこまで言うと、助けを求めるように兄に視線を送る。それを受けたニキアスは大きく頷いた。
「そういうわけだよ。この方法じゃ、銷却はできない。ボクらは向こうに戻って、こっちの様子を伝えてくる。君はここで待ってて」
本当に様子を見に来ただけだったのだろう。再度、ニキアスはダフネを抱きあげると、ふわりと宙へ浮かぶ。空虚の根へ戻ろうとするのを慌てて引き止める。
「待ってください!」
既に数メートル上昇したニキアスは、エウフェミアの制止で動きを止める。そして、高度を下げることなく、「なあに?」と聞いてきた。
エウフェミアは大きく息を吸い、彼に届くように声を張り上げる。
「銷却ができないって――これから、どうなるのですか?」
銷却は必ず為さねばならない。出来なかった、では許されないのだ。
ニキアスは不思議そうに首を傾げる。それから、何かに気づいたように笑顔を浮かべた。
「大丈夫。そのためにボクがいるんだから。ノエの代わりにボクが空虚の根を消す。それで全部解決だ。そうなるだろうって最初から言われてたしね」
ノエが失敗したときはニキアスが空虚の根銷却を行う。そうすれば、問題は解決する。シリルから聞いていたとおりだ。
――でも。
(それでは、ダメ)
ノエが空虚の根銷却ができなければ。キトゥリノ家の力を借りることになれば。ノエとシリルの状況は悪くなる。二人の夢が遠のいてしまう。
(考えて。考えて。こんなところで終わらせるわけにはいかないわ)
このままではニキアスはすぐにも空虚の根へ戻り、自身の役目を果たすだろう。彼がこの場を離れる前に何か方法がないか考えるのだ。
(今回の問題は明確。水の精霊たちは自分たちの力では空虚の根へたどり着けない。だから、それを助ける方法があれば、きっとなんとかなる)
どうすればみんなが空虚の根へたどり着けるのか。できることを考える。
(でも、どんな方法があるのかしら。精霊術師にできるのはあくまで精霊に祈ること。祈りを受けた水の精霊たちは既に頑張ってくれている。彼らに祈る以外で、何が――)
そこでふと、思い出す。
『大精霊様が精霊たちを従えているように、大精霊様の主は生命の精霊だ』
今まで幾度となく水の精霊術を使ってきた。そして、水の精霊にしか祈ってこなかった。精霊術師は恩寵を得ている大精霊の属性の精霊術しか使えない。それが当たり前の常識だったからだ。
しかし、本当にエウフェミアが生命の精霊の恩寵を得ているなら、――使えるのが水の精霊術だけとはかぎらないのではないだろうか。
相手が何か考え込み始め、いつまでたっても返事を返さない。そのことにニキアスは首をひねっていたが、しびれを切らしたのだろう。
「じゃあ、行くね。後は任せてよ」
そう言って彼は飛び去ろうとする。それをもう一度、呼び止めた。
「お待ちください、キトゥリノ精霊爵。少しだけ、私にお時間をいただけませんか?」
「――時間?」
「もう一度、精霊術を使います。そのための、時間の猶予をいただけませんか?」
何より優先すべきは空虚の根銷却だ。こちらが成功するまで待てとは言えないし、言うつもりもない。でも、もう少しだけ抗いたい。
ニキアスは「うーん」と上を見上げて、唸る。口を開いたのは、ずっと黙っていたダフネだった。
「……少しだけ待ってあげましょう、兄さん」
口添えをしてくれた彼女の真意は分からない。しかし、妹の言葉でニキアスは考えを変えてくれたらしい。
「分かった。少しだけ待ってあげる。頑張って」
そう言い残し、今度こそ二人は飛んでいってしまう。その姿が見えなくなってから、ジェシーが口を開く。
「何か策があるんですか?」
その表情も声色も硬い。ノエが空虚の根銷却に失敗することは、彼の上司の失敗でもある。心配するのも当然のことだろう。
エウフェミアは笑顔を作る。
「ええ。……やってみます」
そうして、再び川に向き直る。今度の祈りの対象は水だけではない。――風もだ。
エウフェミアは両手を組み、目を閉じた。




