28 遭遇
翌日の朝、ノエは一人で離れを出発した。
空虚の根の償却を明日行うことはシリルにも共有してある。キトゥリノ精霊爵や他の精霊庁の官吏にそのことを伝えるため、主屋へ出かけている。グレッグも一緒だ。
離れに残っているのはエウフェミアとジェシーと二人だ。もっとも、それぞれ雑務があるため、行動は別々。ジェシーは掃除や薪割りをし、エウフェミアは朝食の後片付けをする。それが終わると、夕食のメニューを考えるため、食堂の椅子に座った。
(……どうしよう)
エウフェミアは思い悩む。夕食をどうするかではない。精霊術師として生きるかどうかだ。
幼い頃に父に教わった精霊術師の重要性。自身が生命の精霊の恩寵を受けた存在である可能性。家族の死の真相を知れる立場。伯父を恐れる必要がなくなる後ろ盾。
そのどれをとっても、精霊術師になるのが正しい選択のように思う。それでも、決心できないのはハーシェル商会の存在だ。
精霊術師になれば、今の生活は続けられない。寮の管理人としての仕事も、ハーシェル商会での穏やかな日々も、手放さなければならないのだ。
今のハーシェル商会で過ごす日常は、エウフェミアにとって特別なものだ。ようやく手に入れた自分の居場所。それを手放すことはとても恐ろしいことだ。
(やっと、居場所を見つけたのに。また、失わないといけないの?)
商会の皆の顔を思い出す。ゾーイ。タビサ。トリスタン。――アーネスト。雇用主のことを考えれて、エウフェミアはぎゅっと手を握りしめる。
(会長なら、こういうときなんて言うのかしら)
想像してみるが、それはあまり意味のある行為ではなかった。
きっと、合理的なアーネストなら精霊術師になるべきと考えるだろう。精霊術師の身分。報酬。それによる生活水準の向上。どれをとっても寮の管理人に甘んじ続ける理由はない。そんなことを言ってきそうだ。
(もしかしたら、気持ちの整理の仕方を教えてくださるかもしれないけど……。会長がどう手伝ってくれるのか想像できるなら、とっくに自分で気持ちの整理がつけられてる)
そう。現状の問題はエウフェミアの気持ちの整理のつけ方だ。それは、既に精霊術師になることを決めかけていることを示していた。
精霊術師になることには多くのメリットがある。そして、何よりも家族の死の真相を知るチャンスを得られる。
エウフェミアはずっと、何も知らずに伯父一家の下――そして、イシャーウッド伯爵家で生活していた。ハーシェル商会に来て、様々なことを学び、知ることの重要性を理解した。
家族の死について、自分がまだ知らない何かがあるのならそれを知りたい。何も知らないまま、のんびりと暮らしていくのは昔の自分に戻ることと一緒だ。そう、今のエウフェミアには思える。
(……でも、そのためには大切なものを捨てないといけないね)
寮の管理人を続けるか。精霊術師になるか。
それは、はじめて自分に与えられた選択権だ。今まで他人から決められた生き方をしてきたエウフェミアがはじめて自分の未来を選ぶときが来た。
――その選択には喪失が伴うなんて。
エウフェミアは目を手の甲で覆い、涙が零れそうになるのを堪らえる。こんなところで泣いている場合ではない。
(…………ひとまず、先に夕食のメニューを決めよう)
そう決めて、椅子から立ち上がる。それは逃避でしかなかったが、そのことには目をつぶる。
台所に戻り、棚に置かれた食材を確認する。じゃがいも、にんじんといった野菜はあるが、メインにするには物足りない。主屋に行って食材を分けてもらおうと決める。
「リード様。夕食の食材をもらいに主屋に行ってきますね」
外で薪割りをしていたジェシーに一言かけると、エウフェミアは母屋へ続く道を進む。もう既に何度も材料や食事を受け取りに通った道だ。
裏口へ回り、裏庭から厨房へ向かう。そこで嫌な顔をする料理人に頭を下げつつ、いくつか食材を分けてもらう。野菜や肉などを持ってきたカゴに入れ、また裏庭を通る。その途中、エウフェミアは視界の端で何かが動いたのに気づき、足を止めた。
裏庭に何本も生えている樹木。その一本の枝葉ががさがさと動いている。風も吹いていない。動物の仕業にしては動きが大きい。不思議に思い、よくよく見ると――一人の少女が木によじ登っていた。
驚きの光景に、エウフェミアは声を出すこともできなかった。
後ろ姿のため、顔は見えない。癖のある金髪のまだ小さな女の子。若い貴族令嬢が着る上品なワンピース姿でながら、彼女は器用に枝に足をかけ、上へと登っていく。しかし、落ちてしまうかもという不安は拭えない。エウフェミアは慌ててその木に駆け寄る。
少女はある程度登ると、太い枝を左手で掴んだ。続けて、反対の腕を上の細い枝の方へ伸ばす。そこには、リボンが引っかかっていた。
「もう、ちょっと……!」
彼女は小さな体を精一杯伸ばす。しかし、もうすぐというところでリボンが風にたなびく。手は空を切り、バランスを崩した少女の足がずり落ちる。
「危ない!」
その体を受け止めようと、エウフェミアは両手を広げる。しかし、落下の衝撃は来ない。木から落ちた少女は、なぜか空に浮いたままだった。
不可思議な光景を目の当たりにしたエウフェミアはゆっくりと少女の体が地面に降ろされるのを口を開けて見守るしかできなかった。
地面におしりから着地した少女の隣にしゃがみこみ、声をかけた。
「大丈夫?」
少女はこちらを見上げ、驚いたように固まった。エウフェミアは首を傾げる。
「どうかしたの?」
しかし、反応はない。そこで、十歳前後に見える少女の瞳が金色であることと、その顔立ちがキトゥリノ精霊爵に似ていることに気づいた。
「もう、何やってるんだよ」
「――きゃっ!」
直後、後ろから声をかけられ、エウフェミアはつい悲鳴をあげる。自分の口をふさいで振り返ると、そこにはキトゥリノ精霊爵がいた。
「ダフネ。危ないところだったよ」
そう笑う彼の目はまっすぐ金髪金眼の少女に向いている。エウフェミアの存在はまったく気になってもいない様子だ。
名前を呼ばれ、呆然としながら少女は声を出す。
「兄さん」
その呼び方――と少女の容貌――で、エウフェミアはダフネと呼ばれた少女がキトゥリノ精霊爵の妹であることを知る。
(じゃあ、この子が左の眼?)
ノエに教えてもらった、精霊と同じ特別な眼を持つ少女。だが、そのことは外見からは窺い知れない。右の眼であった母にもそれらしき外見的特徴がなかったことを考えると、精霊の眼は見た目では分からないのだろう。
しかし、エウフェミアが精霊の眼ことを知っているとは何も事情を知らないキトゥリノ兄妹には話せない。自分の口をふさいだまま、静かに二人の様子を見守る。
キトゥリノ精霊爵はニコニコと笑いながら、手に持っていた小さな袋を見せる。
「木から落ちそうになるなんてドジだなあ。部屋にいないから探したよ。ほら、クッキーを焼いてもらったんだ。一緒に食べようよ」
「……また、精霊庁の人たちに手間をかけたの? そういうのはやめてって言ったわよね」
「いいじゃないか。これも彼らの仕事だよ」
兄を諫めるような物言いは外見に比べてずっと大人びて感じる。
ダフネは立ち上がり、スカートの汚れを払う。
「心配しなくても、もう部屋に戻るわ。大人しくしているから、兄さんも私のことは気にせず、好きにしてて」
「そんな! せっかくなんだから一緒に遊ぼうよ。トランプでもしない? それともボードゲームがいいかな?」
ダフネは兄を無視するように、裏口の方へ向かって歩き出す。キトゥリノ精霊爵もそれを追う。エウフェミアもそれを見送りかけ、リボンがまだ木に引っかかったままなことを思い出した。
「あの」
呼びかけて振り返ったのはキトゥリノ精霊爵が先だった。「リボンが」と言うと、彼は木の上の方を見上げる。
「リボン? ――ああ、アレか」
キトゥリノ精霊爵はそちらに向かって手を伸ばす。すると、一瞬風が吹き、リボンが枝から落ちる。それをなんなく彼は受け止めた。
「あっ」
少し遅れてこちらを振り返ったダフネはリボンを持つ兄の手を呆然と眺める。キトゥリノ精霊爵は妹に近づくと、笑顔でそれを差し出す。
「はい、どうぞ。言ってくれれば、とってあげたのに」
しかし、少女は眉を吊り上げる。乱暴にリボンを奪い取る。
「これぐらい、自分でも取れたのに! 兄さんってばほんとに余計なことばっかり! 兄さんがどこか風で飛ばされればよかったのよ!!」
そう言い捨てると、ダフネは建物へと脱兎の如く走っていってしまった。




