22 取り戻せない日々
その日、はじめてエウフェミアは島の外の地面を踏みしめた。
「――わあっ!」
それは十歳のエウフェミアにとってはすごく興奮する出来事だった。
なんせ、生まれてからずっと島の外に出たことがない。今、小舟で渡ってきた湖はエウフェミアにとって檻であった。ある意味、自由になれた瞬間だった。
嬉しそうに何度も何度も地面を踏む妹を見て、兄のイオエルは意地悪な笑みを浮かべた。
「こんな程度のことで喜んでるのかよ。ガキだなあ」
「――なっ! ひどいわ、お兄様! 十歳になったから精霊会議に行けるようになったのよ!」
当時のエウフェミアは今に比べると気が強かった。兄によくからかわれては、いつも言い返していた。兄妹喧嘩の仲裁に入ったのは父だ。
「イオエル、やめなさい。お前だって最初に島の外に降りたときは興奮してたじゃないか」
父グレイトスの指摘に、イオエルは背筋を伸ばし、すまし顔を作る。
「父上。何年前の話をしているのですか? イオエルはもう十四歳ですよ。もう大人になったのです」
「本当に自分が大人と思うなら、妹をからかうような真似はよしなさい。大人げないぞ」
「――ちっ。くそっ」
「そういう言葉遣いもやめなさい。いったいどこで覚えてくるのかな」
父は困ったように頭を掻く。それから、彼は妻を振り返った。
「まったく、先が思いやられるな。私が御者台にいる間に、大喧嘩をしないといいんだが」
「それも仲の良い証拠ではありませんか。大丈夫。あまりにひどいようなら止めに入りますから」
母アルテミシアはクスクスと笑う。仕事で島を出ていることも多い父に比べ、子供たちと島にいることが多い母にとってはこの程度の兄妹喧嘩は慣れっこだろう。そして、彼女はまだ膨れているエウフェミアに手を差し伸べる。
「さあ。向こうに馬車を停めてるからね。そこまで歩いていきましょう。エフィは手を離さないでね」
母に手を引かれながら、エウフェミアは後ろを振り返る。
広い広い湖の向こう。そこには住み慣れた屋敷がある。しばらくはお別れだが、またすぐに戻って来る。そして、そのときは出発と同じように家族も一緒。エウフェミアはそのことを無条件に信じていた。
◆
――それはもう取り戻せない過去の光景だ。家族と再会する日は永遠に来ない。
離れに戻り、エウフェミアはずっと考えていた。
三人が死んだのは事故じゃないかもしれない。裏があるかもしれない。
ノエも言えるのはそこまで。事故ではないなら、その死因はいったい。――そこまで考えて、それ以上は恐ろしくて思考を止める。
(……今は、そのことを気にしている場合じゃないわ)
未だ、空虚の根銷却という重大な問題が残っている。今日は結局、エウフェミアに知識を教えることに時間を割いてしまった。話し終えた後、ノエは一度離れに戻ることを提案してきた。
『残りの準備は明日に回そう。そのときは君にも手伝って欲しいんだけど、いいかな?』
身の上を明かしたうえでエウフェミアはノエに空虚の根銷却のことを訊ねた。彼はできると言い、その説明も明日してくれることになった。だから、エウフェミアはノエの手伝いに専念すべき。そのことに集中すべきだ。
しかし、それが分かっていても、心のざわつきは収まってはくれなかった。
その夜。明日の朝食の仕込みも含め、ひと通り仕事を終えたエウフェミアは建物を出た。
標高の高いウォルドロンは星がよく見える。満天の星空を見上げ、一人物思いにふける。しばらくして、後ろの扉が開く音が聞こえた。
「ご一緒してもよろしいですか?」
振り向くと、そこにはシリルがいた。エウフェミアは「はい」と笑顔を作ろうとしたが、上手くできなかった。
今日、結局、エウフェミアはシリルの頼まれごとを果たせなかった。しかし、戻ったノエは「彼女から精霊術師であることは聞いたよ。明日からは彼女にも準備を手伝ってもらう」と宣言してくれた。ノエがどうやって空虚の根の銷却を為そうとしているのか知れる立場になったことで、シリルは満足してくれたようだった。
しかし、詳しく説明がなかったことが気にはなっていたのだろう。隣に並んだシリルがためらいなく切り込んできた。
「今日、ノエ様と何の話をしたんですか?」
その質問にエウフェミアは曖昧な笑みを返すしか出来なかった。
未だ、シリルに素性を教えるか決めかねている。ノエに伝えた以上、教えてしまってもいいかもしれないとも思うが――まだ、その決心はつかない。
エウフェミアが黙っていると、シリルはニコリと笑みを浮かべる。
「隠し事ですか。賢明ですね。今は協力関係にあっても、私はあなたの味方ではありませんから」
その言葉を複雑に感じる。確かに決心がつかない理由には、シリルにその情報を利用されるかもしれないという懸念があるからだ。
綺麗な笑みを崩さず、シリルは言葉を続ける。
「何か悩みごとですか? 私でよければ話を聞きますよ」
その申し出が以前であれば、心から喜べただろう。しかし、今は何か企みがあるのではと警戒してしまう。それでも今、誰かに話し、気持ちの整理をつけたいのも正直な気持ちだ。悩んだ結果、こう切り出す。
「……目の前にやらないといけないことがあるのに、他のことを考えてしまって集中できないとき。シリル様はどうなさいますか?」
シリルは少し考えてから答える。
「そういう経験が特に思いつきませんね。そのとき一番重要なことに集中し、あとは思考の外に置きます。関係ないことに思考を取られたくありませんから」
それはあまり参考にできない意見だった。なぜなら、他のことはエウフェミアにとって重要なことだ。
こちらが戸惑っているのを察したのだろう。シリルは非難するような目を向けてくる。
「相談ならもう少し具体的にしてもらえませんか? それでは何も言えませんよ」
「……そうですよね」
確かに今の質問は抽象的すぎた。以前、タビサからある程度過去のことを知られていることを思い出す。意を決して、悩みの種を明かす。
「ノエ様に、私の家族が死んだのは事故ではないかもしれないと言われました」
一瞬、シリルは眉をしかめる。それから返ってきたのは率直な言葉だった。
「殺された、ということですか?」
「わ、分かりません。その、家族が死んだときの状況が、事故死するようなものではなかったとしか」
「その説明で私が思いつくのは、あとは自殺——いえ、この場合は心中ですか」
はっきりと他殺や心中という単語を言われ、エウフェミアの心はずしりと沈んだ。自分一人では考えないよう目を背けていた言葉だ。
エウフェミアはぎゅっと両手を握る。
「皆が心中なんて。そんなことするとは思えません。誰かに殺されたっていうのもそうです。人に害されるなんて、そんなこと――」
父も母も兄も自ら死を選ぶような人じゃなかった。家族を巻き込んでなんて尚更だ。そして、他人に傷つけられるような――殺されるような人たちでもなかった。
否定するエウフェミアに、シリルはどこまでも冷淡な現実を突きつけた。
「生きていれば他人に恨まれるなんて当然のことでしょう。私だって、明日突然誰かに刺されたって驚きませんよ」
その言葉はエウフェミアの胸をナイフのように抉った。
――確かにそうかもしれない。
事実、父は伯父に嫌われていた。憎まれていた、と言ってもいいかもしれない。そして、エウフェミアが知っているのは島の中で一緒に過ごした家族の姿だけだ。島の外で、他の人達にどう思われていたかを知らない。
家族が恨まれていたかもしれない。その言葉をエウフェミアには否定することができなかった。
俯いていると、ハンカチが差し出される。顔を上げると、シリルがバツが悪そうな表情をしていた。
「すみません。泣かせるつもりはありませんでした」
頬に触れ、自分が涙を零していたことに気づく。感謝の言葉を伝え、ハンカチを受け取る。目を押さえていると、シリルがどこか羨ましそうに言った。
「あなたは幸せに暮らしていたんですね」
再び視線を向けると、彼は苦笑した。
「嫌味ではありませんよ。人の悪意、害意。そういう悪感情とは縁遠かったんですね。あなたの様子を見ていると分かります」
「…………いえ」
エウフェミアはその言葉を否定する。
「私はただ、鈍感なだけです」
伯父一家も、元夫も、エウフェミアに悪感情を持っていた。そのことに気づかずにぬくぬくと過ごしていただけだ。
シリルは笑う。
「私はそれが羨ましい。そうであれば、私ももう少し楽な生き方を選べたかもしれません」
それはひどく自嘲的なものだった。




